第二章 JAZZの夜に連れ出し
パーティーの熱がまだ頬に残ったまま、紗江は少し浮いた足取りで田島を夜の街へ連れ出した。前から密かに憧れていた小さなBAR…Amber Moon――黒い扉の向こうには、JAZZ と Soul が混ざり合う柔らかな音が漂い、間接照明が棚のグラスを宝石のように照らしていた。
「ここ、ずっと来てみたかったんです」
扉を押しながら紗江が言うと、田島は穏やかに頷いた。
「いい雰囲気ですね。落ち着く」
カウンターの隅に並んで座ると、紗江は迷わずメニューを指さす。
「これを…“オレンジハートムーン”。名前が可愛くて」
「じゃあ、僕はウィスキーのロックで」
グラスが置かれ、氷が鳴る。ふたりはそっと視線を合わせる。
「出会いに、もう一度」
「乾杯…です」
ほろ苦い柑橘の香りと、ウィスキーの深い香りがふたりの間に溶けていく。
紗江は胸の奥がふわりと温かくなるのを感じながら、グラスを両手で包んだ。
「田島さん…私、物語を書いてるんです」
「物語?」
「小説。恋愛ものですけど…」
「ほう、それは興味深いですね」
紗江は一呼吸置いて、少しだけ照れたように笑った。
「今日の…こんな奇跡みたいな夜を、書いてもいいですか?」
田島の眉がわずかに上がる。紗江の頬は赤く、瞳は潤んでいて、彼はゆっくりと姿勢を正した。
「紗江さん、少し酔ってますね」
「うん…ちょっとだけ。でも、こうしていられるのが幸せで…」
グラスを置いた紗江は、ふらりと体を傾けた。田島がとっさに腰を支えると、その腕に紗江の手が重なる。
「田島さん……離れたくないって言ったら、困りますか?」
甘えるような声。田島の喉が一度だけ動いた。
「困ります…ね。あなたがきっと、明日困るでしょうから」
「そんなことない……今は、離れたくないの」
田島は小さく息をつき、グラスを置いた。
「紗江さん、帰りましょう。タクシー拾ってきます」
外に出ると夜風がふたりの間をすり抜けていく。田島は紗江の肩にそっと手を添えて、歩幅を合わせるようにゆっくり歩いた。
けれどタクシーを止めようとした瞬間、紗江が彼の腕を掴んだ。
「一緒に……来て」
その力は想像以上に強く、そして切実だった。田島は戸惑いながらもタクシーのドアに手をかける。
「紗江さん、本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫。ね、一緒に飲み直そ…家で。迷惑…かもしれないけど」
タクシーに押し込まれ、隣に座るしかない田島は、諦めたように天井を見上げて呟いた。
「まいったなぁ…」
それは怒りでも不満でもなく、どこか優しい敗北の声だった。




