第5章
住民たちが散っていき、城門の前に静けさが戻った。
エリシアは胸の前でハンカチを握りしめたまま、
まだ少し震えていた。
レオンハルトはその様子を見て、
短く言った。
「……行くぞ。」
エリシアは小さく頷き、
彼の後ろをついて歩き出した。
城へ続く道は、かつては白い石畳だったのだろう。
今は黒い泥に覆われ、ところどころひび割れている。
風が吹くたび、乾いた土が舞い上がった。
エリシアは思わず足元を見つめる。
(……ここも……汚れてる……)
レオンハルトはその視線に気づき、
ほんのわずかに歩調を緩め目を細めた。
城の前に立つと、
その荒れ具合はさらに深刻だった。
壁には黒い筋が走り、
窓枠は錆びつき、
かつての威厳は影も形もない。
エリシアは息を呑んだ。
「……こんなに……」
レオンハルトは淡々と告げた。
「ここも汚染の影響だ。
だが、君がいれば……変えられる。」
エリシアは胸が熱くなるのを感じた。
(……私が……?)
城の中へ入ると、
廊下は薄暗く、ところどころ壁が崩れていた。
しかし、住民たちの暮らしよりはまだましだ。
レオンハルトは歩きながら言った。
「君の部屋を用意させた。
簡素だが……休めるはずだ。」
「わ、私の……部屋……?」
エリシアは驚いて立ち止まった。
(部屋……?
私のために……?)
レオンハルトは振り返り、
静かに言った。
「君は客人だ。
扱いは当然だ。」
その言葉は淡々としているのに、
エリシアの胸に深く染みた。
(……誰かに“当然”なんて言われたの……
いつ以来だろう……)
案内された部屋は、
確かに簡素だった。
古い木製のベッド、
小さな机、
窓から差し込む弱い光。
だが、埃は少なく、
誰かが急いで整えた形跡があった。
エリシアはそっと部屋に足を踏み入れた。
「……綺麗……」
レオンハルトは扉の前で立ち止まり、
短く言った。
「必要なものがあれば言え。
明日からは……城内の調査を頼む。」
エリシアは振り返り、
小さく頷いた。
「……はい。」
レオンハルトは一瞬だけ彼女を見つめ、
静かに扉を閉めた。
部屋に残されたエリシアは、
胸に手を当てた。
(……ここでなら……
私……いてもいいのかな……)
その小さな光は、
確かに彼女の中で灯っていた。
翌朝、エリシアは鳥の声で目を覚ました。
窓から差し込む光は弱いが、昨日より少しだけ明るく感じられた。
(……ここで眠るの、初めてなのに……ぐっすり眠れた……)
胸の奥に、ほんの少しだけ温かいものが残っている。
ノックの音がした。
「起きているか。」
レオンハルトの低い声だった。
エリシアは慌てて身支度を整え、扉を開けた。
「お、おはようございます……!」
レオンハルトは軽く頷き、
彼女の顔を一瞬だけ観察するように見た。
その視線は、眠りの浅さや疲労を測る軍人のそれだったが、
どこか柔らかさもあった。
「今日は、城内の調査を頼む。まずは……ここだ。」
案内されたのは、城の中央にある大広間だった。
かつては白い大理石の床が輝き、
豪奢なシャンデリアが吊るされていたのだろう。
だが今は──
床は黒い泥に覆われ、
壁には黒い筋が走り、
シャンデリアは半分落ちかけている。
エリシアは息を呑んだ。
(……こんなに……)
レオンハルトは横目で彼女を捉えた。
その視線は、怯えを探すのではなく、
“汚れを見つける目”がどう動くかを確かめるようだった。
「ここは……ずっと、このままなんですか……?」
「誰も手をつけられなかった。汚染が強すぎてな。」
エリシアはそっと床にしゃがみ込み、
黒い泥に触れた。
その瞬間、レオンハルトの視線が彼女の手元に吸い寄せられる。
細い指先が汚れに触れ、わずかに震えるのを見逃さない。
(……また“下を向く”。
だが、これは弱さではない。
汚れを見抜くための姿勢だ。)
エリシアはハンカチを取り出し、
床をそっとひと拭きした。
黒い泥が薄く剥がれ、
床が淡く光を放った。
レオンハルトの目がわずかに細められる。
驚きではなく、
**“確信が深まる”**ときの静かな反応。
(昨日より強い光……
意図して使ったからか。)
エリシアはもう一度、
今度は意識して拭いた。
光が走り、
黒い泥が剥がれ、
白い大理石が顔を出す。
「……綺麗……」
その呟きに、レオンハルトの視線が彼女の横顔に止まった。
下を向くその姿は、昨日まで“暗い”と誤解されていたものとは違う。
今は、
**“光を呼ぶ者の姿”**に見えた。
エリシアは夢中で拭き続けた。
光は弱いが、確かに広がっていく。
やがて、
大広間の中央に小さな“白い円”ができた。
それは、
荒れた城の中で唯一の“光”だった。
エリシアは立ち上がり、
胸に手を当てた。
(……私……ここで……生きていけるのかな……)
レオンハルトは静かに言った。
「……よくやった。」
エリシアは驚いて振り返った。
「え……?」
レオンハルトは彼女の目をまっすぐ見た。
昨日まで“下を向く少女”として見ていた視線ではない。
今は、
**“この国を変える者”**を見る目だった。
「この城で、その言葉を聞いたのは久しぶりだ。」
エリシアの胸に、
また小さな光が灯った。




