第3章
馬車が国境を越えた瞬間、エリシアは胸の奥がざわりと揺れるのを感じた。
空気が違う。
湿り気を帯びた風に、どこか鉄のような苦い匂いが混じっている。
窓の外に広がる景色は、彼女の知るどの国とも違っていた。
遠くまで続く草原は灰色に枯れ、
川は濁った色をしてゆっくりと流れている。
風が吹いても草は揺れず、まるで息を潜めているようだった。
エリシアは思わず窓枠を握りしめた。
(……こんなに……)
レオンハルトは向かいの席で無言のまま外を見ていた。
その横顔には、驚きも嘆きも浮かんでいない。
ただ、長く見続けてきた者だけが持つ静かな諦念があった。
エリシアは小さな声で尋ねた。
「……ずっと、こうなんですか……?」
レオンハルトは視線を外さずに答える。
「ここ数年で急激に悪化した。」
その声は淡々としているのに、
その奥に沈んだ怒りと無力感が滲んでいた。
エリシアは胸が締めつけられるような気持ちになった。
この国の空気そのものが、苦しんでいるように感じられた。
(……どうして……こんな……)
彼女の視線は自然と下へ落ちる。
遠くの地面に広がる黒い染みが、まるで国全体を覆っているようだった。
レオンハルトはその動きを横目で捉え、
静かに思う。
(……やはり“汚れ”として見ている。)
馬車はゆっくりと進み、
やがて城門が見えてきた。
馬車が止まると、エリシアはレオンハルトに手を借りて外へ降りた。
近づいてみると、城門の荒れ具合は遠景よりもずっと深刻だった。
石畳は黒く濁り、
門扉の金具は錆びつき、
白かったはずの石壁には黒い筋が幾重にも走っている。
エリシアは息を呑んだ。
(……こんなに……汚れて……)
視線は自然と足元へ落ちる。
石畳の隙間にこびりついた黒い泥が、まるで生き物のように広がっていた。
レオンハルトはその様子を静かに見つめる。
(怯えているのではない。
“汚れ”を見ている……。)
エリシアはしゃがみ込み、そっと石畳に触れた。
指先にざらりとした感触が残る。
「……水が……汚れているから……?」
レオンハルトは短く答えた。
「そうだ。」
エリシアは無意識にハンカチを取り出し、
石畳をひと拭きした。
その瞬間、
黒い汚れが薄く剥がれ落ち、
石畳がかすかに光を放った。
「……え……?」
剥がれた汚れの下から、
銀色の金具の破片が露出した。
レオンハルトはそれを拾い上げ、
静かに目を細める。
そこには、主人公の国の紋章が刻まれていた。
「……やはり。」
エリシアは震える声で言った。
「こ、これ……うちの国の……?」
「そうだ。」
レオンハルトは破片を懐にしまい、
エリシアに向き直る。
「この国を汚したのは、君の国だ。」
エリシアは息を呑んだ。
胸が痛む。
けれど、レオンハルトの声は続いた。
「だが、君は違う。
君は“汚れを見つける者”だ。」
エリシアはハンカチを握りしめた。
「……私……ここを、綺麗にできますか……?」
レオンハルトは一瞬だけ目を細めた。
「できる。
君の力なら。」
その言葉に、エリシアの胸に小さな光が灯った。




