第1話 胃痛バトルは深夜の図書館で(胃痛編)
大学の図書館の隅の席。誰もいない午後の静けさに、柚葉の小さなため息だけが響いていた。
「これで今日三本目……私の胃、完全にブラック企業だよね。残業代ゼロで24時間稼働中」
机の上には教科書とノート、その横にはコンビニで買ったコーヒーのペットボトル。
哲学の本を読むのは好きでも、テスト勉強はまた別問題だ。机の上には赤ペンとノート。そしてカバンの中には食べかけの菓子パンが入っている。
「栄養バランス? なにそれおいしいの?」
そう呟いて、自分で自分にツッコミを入れる。
一人暮らしを始めて半年。大学に通いながら、バイトに課題にレポートに追われる日々。自炊はするつもりだったのに、気づけば冷蔵庫の中身はパンと牛乳と半額シールの総菜ばかり。
「まあ、生きてるからいいか」
無邪気なようで、ちょっと投げやり。柚葉はそんな性格だ。
時計の針は深夜を回っている。テスト勉強は終わらないのに、睡魔より先にやってきたのは――
「……っ! やば、胃が……」
鈍い痛みが、下腹部から喉へ突き上げてきた。思わず机に突っ伏し、お腹を押さえる。
「うう……やば……。これ絶対、パンとコーヒーの合わせ技……」
冷や汗がにじみ、目の前の文字がにじんだ。
その瞬間――世界がぐにゃり、と歪んだ。
視界が暗転したかと思うと、血管みたいな道が四方八方に伸びる、見たこともない空間が広がっていた。
ざわざわ……遠くから何かのうめき声が聞こえる。
そして――
「……え、なにこれ。夢?」
柚葉は半分震えながらも、好奇心の光を宿した目で一歩を踏み出した。
広場に倒れ込む女性がいた。丸い器を抱えて苦しそうにうずくまっている。
「うぅ……もう消化できない……重たすぎる……」
柚葉は思わず駆け寄った。
「だ、大丈夫!? ていうか誰!?」
女性は弱々しく顔を上げた。
「私は“脾”。食べ物を受け止めて、力に変える役目をしているの。でも……甘い物と油ばかりじゃ……負担が大きすぎて……」
「……要するに、食べすぎでお腹パンパンってこと?」
「そ、そんな言い方……でも、間違ってない……」
その時、鋭い音が響いた。
ガキィン!
剣を振り回す青年が現れる。眉間に皺を寄せ、怒りを燃やしていた。
「脾! しっかりしろ! 俺は“肝”。気を巡らせるのが役目だ! でもお前が滞ったら、俺の剣は暴れてしまう!」
「気を巡らせる……? なんか交通整理みたいな?」と柚葉。
「……そうだ!」肝は振り返り、剣を振り上げる。
「だが今は道が渋滞してる! だから苛立って剣が止まらないんだ!」
脾は顔をゆがめる。
「そんなふうに責められたら、ますます動けない……」
柚葉は目を白黒させた。
「え、これ私の胃の中で内乱起きてるってこと!? ブラック企業どころじゃなくて内戦じゃん!」
すると、澄んだ声が響いた。
「やめろ肝。暴力では解決しない」
白衣のような服をまとった青年が歩み寄ってきた。呼吸と共に空気が澄んでいく。
「俺は肺。外と内の境目を守り、呼吸で整える役目がある」
肺は柚葉に向き直り、静かに言った。
「君の胃が痛むのは、脾が食べ物を処理できず、肝が苛立ち、二人が衝突しているからだ」
柚葉はぽかんと口を開けた。
「なるほど……胃が痛いのって、体内の人間関係がギスギスしてるみたいなもんか……」
肺は少し苦笑した。
「わかりやすく言えば、そうだな」
肝が剣を構え、脾は胃袋を抱えて震え続けていた。
空気がピリピリと張りつめ、柚葉は耐えきれずに叫んだ。
「ちょ、ちょっとストップ! 私の胃の中でバトルやめて! これ以上痛くなったら保健室行きコースだから!」
だが肝は歯を食いしばり、苛立ちを抑えられない。
「俺はただ巡らせたいんだ! でも脾が止まれば、俺も止まる。だから苛立ちが剣になる!」
「それ、八つ当たりってやつだよ!」柚葉が突っ込む。
すると、肺が一歩前に出て、深く息を吸い込んだ。
「……落ち着け。巡りを通す方法は他にある」
彼が吐き出した息に乗って、ふわりと爽やかな香りが広がった。
柚葉の鼻先をかすめるのは、大葉(青紫蘇)と、乾いた柑橘の皮が放つやわらかな香り。
「……うわ、なんかアロマみたいな香り……」
肺は静かに言う。
「香りで気を通す。これは“紫蘇”や“陳皮”の働きだ。紫蘇は気を巡らせ、陳皮はみかんの皮を乾燥させたもので、胃の重さを軽くする」
肝が剣を握る手を震わせながら下ろした。
「……不思議だ。苛立ちが少し静まった……」
脾も顔を上げ、少し息を吹き返したように見えた。
「うん……動けるかも。あの爽やかな香りが、重たいものを押し流してくれる感じ……」
柚葉は思わず手を叩いた。
「なるほど! ストレス渋滞をアロマ信号で解消、みたいなもんか!」
肺は小さく笑った。
「言い方はどうあれ、今はそれでいい」
香りに包まれた空気の中で、肝は剣をゆっくりと鞘に収めた。
「……俺は怒りたいわけじゃない。ただ、詰まった道を見ると抑えられなくなるんだ」
脾も胃袋を抱えながら、少しずつ立ち上がる。
「ごめんなさい。私が弱ってるから、全部の流れが止まっちゃうのよね。でも……香りが入ったら、ちょっと楽になった」
肺が腕を組み、冷静に言った。
「渋滞は解けた。だが根本的には、生活そのものを整えなければまた同じことが起こる」
「生活そのものって……つまり、私のことか……」
柚葉は苦笑し、後頭部をかいた。
「やっぱりコンビニパンとコーヒー連打はダメってことね」
肝が眉をしかめた。
「覚えておけ、外の世界の選択ひとつが、俺たちの戦いを左右する」
その言葉が胸に刺さった瞬間、景色がぐにゃりと揺れた。
――気づけば、柚葉は図書館の机に突っ伏していた。
机の上には、食べかけのパンと冷めたコーヒー。
胃の痛みは、不思議と少し和らいでいる。
柚葉はため息をつきながら独りごちた。
「ストレスで胃がやられるなら、テスト前の私は毎日デスマッチじゃん……」
それから机の上の小さなプリンに目を留める。友達が「差し入れ」と置いていったものだ。
スプーンを手に取りながら、柚葉はニヤリと笑った。
「……プリンで手打ちにしてくれると助かるんだけど!」