73.一度限りの上書き
「……一回だけ、オレを消毒してくれない?」
そう言われた私は、少し迷ってから、やはり「ダメです」と言った。
「何で?そこのメイドがなぞったところを……いや、もうこの際、ハグだけでもいいから」
「それでもダメです」
私は子供に言い聞かせるように言う。
「うら若き男女ですし、それに…。本当に好きになった相手や、一生を共にすることになった人とにしてください」
貴族なんて、貞操関係はお堅い方がいいのである。
そう考えて言い切った。
しかし殿下は、いつもよりも不安定な雰囲気で言い募る。
「…へぇ?オレが誘ってるのになぁ」
「貴方が誘っても靡かない人なんて山ほどいますよ。例えばここに」
「相変わらずつれないなぁ」
私の視界に映るのは壁のみだが、軽い調子でそう言う殿下の気配が近付いてきているのは何となくわかっていた。彼は私の真後ろに立つと、真剣な声音で言った。
「……一回、だけだから」
その声は、今までに聞いたこともないほど弱々しかった。
それに、私とハグするまで断固として譲らないような意思の強さを感じてしまった。本当に何故か。
だからだろうか、周りに誰もいないことを入念に確認してから、諦めたように振り向いた。鍛えているためそれなりに身長も高い私だが、彼相手では見上げる形になる。
そして彼を見上げると――、ミステリアスで、それでいて脆そうな、そんな二つの危うさを秘めた赤い瞳とかち合った。
それから彼は、私を覆うように抱きしめた。少し足を絡めてきているのは……きっと、メイドに何かされた部分を消毒するためだろう。一度限りだと、甘んじて受け入れた。
……でも、ちょっと流石に…。
(…消毒にしては…ちょっぴり動きが甘いような…っ)
変な羞恥心と想像をぐっと押し殺す。
触れているところに意識を向けないよう、必死に、甘い香りに集中していた。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
それからしばらくして、やっと私は解放された。
殿下の中で、気の済むまで消毒できたのだろう。
静かに抱擁を解かれ、私も自然と体を離した。
「…殿下」
そう私が声をかけると、「なに?」と言って小首を傾げた。
そんな彼に、神妙な様子で告げる。
「一つ…聞きたいことができました」
私のその言葉を聞くと、殿下は
「このタイミングは狡いな……もしかして仕組んでた?」
と冗談交じりに言った。
私はそれを何事もなかったかのようにスルーすると、少し間を置いてから訊ねた。
「……何故、私に言い寄られたんですか?」
「それなんだ。しかも言い寄られたって……はぁ。まあいいよ、お礼に教えてあげる。でもこれは、オレ達だけの秘密だよ?」
「……まぁ…ハイ」
そこまでこだわるところでもなかったので、温度のない返事をする。やれやれと肩を竦めた殿下だったが、仕方ないというように気を取り直して、不敵な笑顔で話し始めた。
「…オレはね。王位を狙ってる」
「……おう、い?」
「そう、王位」
私は、ぎょっとした。
王位継承者争いが勃発しないこの国では、それはあまりにも非現実的で、外の世界の話だったから。
この国では、王が崩御する前に、仮決定しておく。あとからも変更できるし、変更の度に大々的に告知するので、隠蔽される心配もなく、とても平和的だったのだ。
「…だけど…、ヴァンパイアのオレが正面から行っても、誰も味方してくれない」
この国では、”エルフ”が神聖視されている。だから、”エルフ”と対をなす”ヴァンパイア”は、あまり良い感情を持たれていなかった。
「でも君は違う。聞いたところによると、異種族に関心があるって話で、実際、オレを見ても、欲情しないし蔑まない。だからこそ、そんな君の力が必要だったんだ」
凄まじい衝撃だった。
それに、殿下が王位に上り詰めるというのも、到底無理だと思ったから。
殿下は優秀だ。話せばわかる。
だが相手は完璧と名高いあの第一王子殿下であり”エルフ”。
言っては悪いが、どちらに民意が傾くかと言えば、当然のように第一王子殿下だろう。
「普通なら到底無理――、そう思う?」
揶揄うような笑顔につられて、思わず素直に頷いてしまう。
けれど、織り込み済みだというように笑われてしまった。
「ハハ、そうだよね。…でもオレは、絶対やるよ。これは、オレの復讐と革命。狂った母から産まれたというだけで……、ヴァンパイアとして産まれただけで、ここまでオレを虐げて…大切なものを奪って行ったここの奴らに、…死んででも復讐してやるって、誓ったから」
「……」
重い話に、黙り込む。
聞かなかったことにするべきか、それとも…。
「…ごめんごめん。とりあえず、わかってもらえた?」
奥深くまで話させてしまったことに反省しつつ、「…はい」としんみり頷いた。
それから私は、
「もっと一緒にいたいけど、しつこい男は嫌われそうだしね」
と言われ、渋々だが帰路につくこととなったのだった。
ちなみに、大丈夫なのかと聞いたが、「隠し部屋があるんだ」と人差し指を口に当てて言っていたので、恐らくは大丈夫だろう。
追加の刺客が来ても、あんな下々の者ならばまずわかるまい。メイドも、王城の牢屋に突っ込んでおいたので、暫くは身動きがとれなくなるはずだ。
そんなこんなあり屋敷に戻った私は、激動の夜を思い起こしつつ、もうすっかり明るくなりつつある窓に背を向けて、ぐっすりと眠るのだった。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
――同時刻。
ヴィンセントの恩師ジェラルドと、ヴィンセントの実母メイベルが死体で発見された。
古の時代の魔導書に伝わる「呪い」の紋章を、身体に惨たらしく刻まれて。
そしてそれは、国全土に異常なほどの速さで伝わった。
ヴァンパイアの血の祟りだ……という噂と共に。




