72.一回だけ、オレを消毒してくれない?
なぜか天井から舞い降りてきた少女は、軽々と着地し、眉一つ動かさずにメイドを蹴って壁に激突させた。
オレのボロい部屋でも最小限の傷で済んでいるところはとても見事だ。
潰れたような声すら出さず、メイドを一瞬のうちにして気絶させたのも流石というところだろう。
その少女ことエリザベス嬢は、「〈〈茨の拘束〉〉」と唱えると、何秒もかからずメイドを捕らえた。そして、もう用済みだというように、ぽいっと部屋の隅に捨て置かれる。
一連の華麗な動作に見惚れていると、エリザベス嬢の視線がこちらに向いた。
「大丈夫ですか?殿下」
いつもの調子で軽く問われる。オレをあしらうときとなんの違いもない声だった。そしてそのままオレの元へ歩いてくる。しかし、真面に返事を出来ないどころか、近寄ってきた彼女から反射的に距離を置いてしまった。
「……あ、…」
言葉で取り繕おうと思うものの、今までの出来事で頭が真っ白だ。…情けない。
それに、彼女は明らかにあの気狂いメイドとは違うのに、同じ女性だというだけでどこか怯んでしまう。救った相手に怯えられたら、救った側としてはたまったものじゃないだろう。
それなのに、オレのそんな様子を見てか、エリザベス嬢はちょっと目を見開いた後、すぐ穏やかに微笑んで、メイドと同じ端に寄った。そして、メイドの姿をオレから隠すように立ち塞がったのだ。さらに彼女は、自分は壁の方に目を向けて、オレの方には背を向けた。
その寂しいまでの気配りが、どこかじーんと沁みていた。
「……一つだけ、お聞きしても良いですか?」
「…ああ、もちろんだよ。何でもどうぞ」
出来るだけいつもの声で、と思ったが、やはり声が震えてしまう。しかし彼女はまるで気にしていないように「では」と言った。
「ではお尋ねしますね。私はここに居た方がいいですか?それとも、出て行った方がいいですか?」
「!……」
……またこれだ。
泣きそうなほど温かくなる心を触ろうとするかのように、オレは右手を左胸に当てた。
(…照れ屋で塩対応なところしか見てなかったけど…。……はは、おかしいくらい優しい子だな)
そう思いながら、逡巡する。しかしそれもすぐに終わった。
オレは少し笑みを浮かべると、背中に向かって言葉を吐いた。
「……寂しいな、もう少し居てよ。それとも…、オレといるのがそんなに嫌?」
段々と、いつもの自分を取り戻せていることに気付く。
そんなオレの様子に、彼女もくすくすと笑っていた。
「やっぱりそっちの方がらしいですね」
「え~、ほんと?嬉しいなぁ」
「嬉しいんですか…?」
その反応に安堵しながら軽口を交わした。
あれだけ格好悪い姿を晒した後だ、正直言って、ほぼ確実に幻滅されているだろうと思っていた。
しかし、そんな様子を欠片も見せずに軽口を叩いてくれるおかげで、恐怖と硬直が少しずつ薄まっていく。暫くして余裕が出てくると、今度はオレから気になることを聞いてみた。
「…そういえば、どうしてここに?」
「ああ~。それは、密告があったからです」
「……密告?」
訝し気に眉を顰めると、「はい」と明快な答えが返ってくる。
「別名、怪文書ともいいます。実はそれに、今夜殿下が襲われる、というようなメッセージが書いてありまして」
「…怪文書の情報だけでここに?単独で王宮に忍び込んでまで…?」
信じられないというように凝視すると、「あー、そうですね。これ普通に罰されるヤツでした。いやあ、何事もないのが一番だったんですけどね~」と軽く返ってくる。
薄々感じてはいたが、やはりネジがぶっ飛んでいる…。
しかし、そのぶっ飛んでいる感じは嫌いじゃない。
その気の抜けた返事に、ついついふふっと笑ってしまった。
「そう?オレはやっと興味を持ってもらえた気がして嬉しかったよ」
そう言いつつ、服を手に取り、ぽいっとまとめて端に追いやる。
悪いがあれは二度と着たくないと、残り少ない替えに着替えた。
それからは、少しの沈黙が落ちた。
しかし、気まずい沈黙ではない。それぞれが何かを考えているために起こった思考の沈黙だった。
そして、オレはその沈黙の中で、今までのオレでは考えられないことを考えていた。
そして次の瞬間には、「……ねぇ」と声をかけていた。
彼女から返事はないものの、聞いている気配を感じ取ったのでそのまま続けた。
「……一回だけ、オレを消毒してくれない?」




