71.メイドの狂気
「ふふ……ふっ…ふっふふふふフフふふふふフふふフふ…」
泥酔した人間とも、恋に酔った人間とも違う。
そこには、ただただ純然たる狂気だけがあるように見えた。
話の通じなさそうな怪物の前では、言語を介した交渉など以ての外だろう。
そして、得意分野を封じられたオレは、身分がなければ、ただの非力な男に成り下がる。
それを十分に理解していたオレだからこそ、誰かに助けてもらうという選択肢に縋る。
(…そうだ…声…声さえ出れば、隣の部屋にいるジェラルドを呼べる)
オレが唯一心の底から信頼する人間であり、世話係であり、教育係であるジェラルド。
オレの自慢のロマンスグレーは、今日も、
「おやすみなさいませ。何かあれば呼んで下さいね。隣の部屋にいますので」
と言っていた。
そしてオレは、それに軽く
「わかってるよ。おやすみ」
といつもの調子で返したのだった。
その光景が、瞼の裏にありありと蘇ってくる。
(声だけ、声だけなんとか絞り出せ…!)
オレは、腹に力を込めて、全身を使って声を張り上げた。
「ジェラルド……っ、ジェラルド‼来てくれッ変態だ、不審者がここに…」
ごほ、ごほっ。
過度な緊張のあまり、声が掠れる。喉がいつの間にかカラカラになっていたのだ。
しかし、二度目にジェラルドの名前を呼ぶ声は、確実に隣の部屋に聞こえる声量だった。怒鳴ったので、感覚の鋭いジェラルドならすぐに飛び込んできてくれるはず。
一瞬の油断、または安心が同居する。
しかし、その間にも、構わないといった風にメイドが迫る。もうすぐジェラルドが来てくれるという信頼と希望だけを胸に、顔を青くしながら警戒をし続ける。
だからだろうか、それが気に食わなかったのか、メイドは速足で近付いてきて――とん、と手で突き放されるようにした後、気付けばオレは、ベッドに深く沈んでいた。
(なんだコイツ…っ子供とはいえ十六歳の男子なのに…‼どれだけ怪力…というか、コイツなんか異様に動きが速い気が――)
メイドは、ニタリ、とした恍惚の笑みを浮かべながら、それでもまだ何も言うことなく、黙ってオレの上に覆いかぶさってくる。その瞬間、気色悪さにゾワリと鳥肌が立った。
メイドは、メイドから見て右向きに、壊れた人形のように首を傾げている。しかしその手だけはいやに生々しく、オレの首にするすると巻き付いた。
(オレを殺せと誰かに指示されて…?コイツの俊敏さやパワーを考えるとそれが一番有力か…ならオレは、頭と首と胸を守れば――!)
意地でなんとか体を動かし、女の両手を振りほどく。ほっとしたのも束の間、服に手を入れられた。
「くッそ……!」
「へ…へへへへへへへへへへへへへへへへへ」
メイドは狂気的な笑い声を上げながら、オレの抵抗空しく、あっという間に服をどこかに捨て置いた。
女の狙いはオレの『貞操』…いやもしかしたら命もかもしれないが、少なくとも本命はそっちだろう。
首は、オレの意識を集中させるためのミスリード。脳がないような奇声を上げているのに、確実に頭は回っているということが判明した。それが益々不気味に思えては来るのだが。
(というより、ジェラルドは……?隣の部屋から、物音が何一つ聞こえない、一向に来る気配もない…。まさか…いない?)
女にも意識を配りながら、しかし心は折れそうになる。心の支えは、いつでもジェラルドだったから。
(なんで……。ジェラルドは、呆れるほど過保護で…、何かあるときはオレに言い置いてから行くのに…。……まさか)
嫌な考えが頭を過ぎった。
その時、いきなりズボンまでちぎられるような勢いでオレの元からなくなり、ぐしゃりとどこかに放られた。わざとらしい緩慢な動きは、ほぼ確実に抵抗するオレを弄んでいた。
「やめ……ッ」
まずい。
生存本能が警鐘を鳴らす。
それと同時に、メイドの顔をつい見上げた。そして、実母の姿がフラッシュバックした。
「…ぁ…っ」
姿かたちも、態勢も、全く似ていないのに、表情だけは、同じ面をつけているかのように瓜二つだった。
記憶にある母はずっと、そう、こんな狂った表情をしていた。頬を染めてはいなかった。オレに興奮してもいなかった。けれど、完全に人のものではないような瞳と歪な口角が、それを象徴していた。
メイドに母を見てから、パニックは引き起こった。「うわ…っわああぁぁあああ⁉たすっ、助けっ…嫌だ来るなあああ‼‼」と、軟派系のなの字もなく発狂する。
そのうちに、足から全身に、気味の悪い温もりが這っていく。
これから何をしようとしているかなど、一目瞭然だった。あまりの恐怖に、完全に体が動かなくなる。
それでも「じぇ、じぇら……」と、一縷の望みをかけてジェラルドを呼ぼうとするが、発狂したときのような声量が出ず小声になってしまう。
(嫌だ嫌だ嫌だ嫌だこの狂人とだけは絶対に――‼ああ――こんなときオレが形無しの王子なんかじゃなかったら…碌に影も付いていないような王子なんかじゃなかったら‼‼)
物凄い拒否感と混乱。
精一杯、足掻いて、足掻いて、足掻きまくる。
しかし、精一杯の抵抗をも嘲笑うかのように、圧倒的な力で捻じ伏せられた。
心の支えのジェラルドもいない。自分の力でどうにかすることもできない、自分のフィールドじゃなく相手のフィールドに連れ込まれている。
絶望的状況で、心の芯が折れそうになる。
そして、そこで遂にメイドの手が腰に伸びてきて、オレは本能的に身を固くした。
もう本気で、全てが終わるのかもしれない。
そう思った。
貴族としての貞操を奪われれば、復讐と改革の実現は絶望的。
交渉術や政治の手腕を生かせる場もなくなって、王城からも、社交界からも実質的に追放されるだろう。
それほどオレは、脆く弱い立場の上に立っていた。
(ああ…終わったな……)
頭の中に、金髪の少女が浮かぶ。
(異種族に関心が高いって噂のあの子を捕まえられれば、あと一歩だったんだけど…。でも、まあ…少しの間だけれど、夢を見られて――幸せだった)
そんな、これから死ぬ人のようなことを思い残し、恐怖に蝕まれながら目を閉じた。
そして、次の瞬間――遂に全てが終わろうとしていた。
しかしそれは、寸でのところで避けられた。
なぜなら、なぜか天井から少女が降ってきたから。
その容姿も相まって、一瞬、天使と錯覚してしまったほどに神々しい登場だった。
この怪物女ですらエリザベス嬢を凝視していたし、オレも「トン」と軽々と着地した音で目を開けてからは凝視していた。
そして、二人の注目をたっぷりと集めた少女は、こちらを何でもないように見返してきた。
「……き、みは…っ」
助けて欲しい。そして、この少女なら、なんだか助けてくれそうな気がした。
何か言おうと思って口を開くが、はくはくとした息しか出ない。しかしそれすらもわかっているというようにニッコリと微笑むと、少女は一瞬消えて、次はオレの目の前で現れた。
何も言わず、楽しそうにニコニコと微笑んだまま、メイドの頭を思いっきり蹴り飛ばして。
「……え」
「お待たせしました。助けてとのことでしたが、ご依頼は以上ですか?」
…それからオレは、天使という評価を訂正した。
そして再認識する。誰よりも怖い人間だと。




