55.信頼の裏切られ方
(どういうことだよ…っ!)
俺は髪をグシャッと掴んだ。
「ほら、噂をすれば…」
「あれが令嬢に負けたっていう…」
「その腹いせに、人気のないところに呼び出したらしいわよ」
「まだ子供なのに…怖いわね……」
「変に関わって何かされたらと思うと……ああ、嫌だ嫌だ」
王宮に足を踏み入れた俺は、使用人達の好奇の視線に晒され続けていた。
(ただの噂どころじゃないほど広がってるぞ⁉これじゃまともに収拾がつかねぇ…!)
俺が負けたことは事実だ。そして恐らく、イザナがそれとなくもらしたのだろう。自分の魔物を見せ合ったあの場所のことも、曲解して伝わるように仕組みながら。
だからこそ俺は、素早く馬車に乗り込み自宅に帰った。早く自分にとっての安全地帯に…気を抜けるところに辿り着きたかったのと、一刻も早く父上にこのことを相談したかったからだ。そして自宅に到着し、急く気持ちを抑えて馬車から降りる。
するとそこには、半信半疑といった表情の使用人達が整列していた。
「え、は?」
「お帰りなさいませ、グレン坊ちゃん。お召し物を預かります」
執事の声が朧気に聞こえてくる。
デイヴィス侯爵家の使用人達とは、それなりに長い付き合いだ。俺が生まれた時から仕えている使用人も沢山いる。それなのに、まさかと思った。
「……どうしたんだ?」
「坊ちゃん…。…ひとまずお上がり下さい。旦那様がお待ちです」
「…」
ショックのあまり口がきけなかった俺に、初老の執事は眉を下げて、それから屋敷の中へと案内した。
慣れ親しんだ家。生まれた時からずっと住んでいる屋敷。それなのに、いつものように穏やかな笑顔で接してくれる使用人がいないだけで、屋敷はずっと侘しく見えた。
それから程なくして、俺は父上の書斎に通された。
父上は、いつものように眉間の皺を揉んでいる。一見気難しそうに見えるが、優しく、温かく、俺とも対等であろうとしてくれ、更に誠実。おまけに実力も折り紙付きの、俺の憧れの騎士だ。
「父上、参りました」
「…ああ、グレンか。待っていたぞ」
いつも通り、よく見なければわからない微笑みを父上は浮かべる。目皺が少し増えるのがポイントだ。しかしそのくしゃっとした、いつも通りの笑顔が、今は無性に嬉しかった。
「今、俺に関する噂が広がっているようなのです。脚色されすぎているというか、曲解されているというか。それに、広がり方がだいぶおかしく…」
「……ああ、話は聞いている。丁度私も、その件でお前を呼び出したんだ」
「!」
心から尊敬する父上が、忙しい中、俺を気にかけてくれていたという事実が、冷えていた心をじんわりと温めた。
「…それで…。……イザナから、とある報告が上がっているんだ」
「はい。先ほどの噂の件ですよね?」
やっと俺の話を聞いてくれる。そう安堵したのも束の間、想定外の言葉が父上から飛び出した。
「……いいや。お前が、私という騎士団長の父を持ったことにより…日に日に、焦りが芽生えているようで、段々とおかしくなってきている、と聞いた」
「………はっ?俺がおかしくなってきている…ですか?」
あり得ないが、事実を時折混ぜ込んでいるあたりが狡くて、ぐっと歯を噛みしめた。
それに、世界で一番尊敬している人に、一瞬でもそうだと思われたことが悔しくてならなくて、同時に、イザナに対する燃えるような怒りが込み上げてくる。
「誤解です父上!あの噂の内容も全然…‼」
「……では……」
苦渋の表情に満ちた父上が言う。
「…イザナとお前のどちらかが、…嘘を吐いている、というのか?」
「……っ」
もう一度言うが、イザナと父上は戦友であり親友だ。互いに命を預け合い、滅多にないほど信頼を置き合っている間柄。…父上だって、人間だ。死線を共に潜り抜けてきて、笑顔も涙も分かち合った、俺なんて目じゃないほど何年も一緒にいた、そんな人を、簡単には疑えないだろう。
わかっていたはずなのに、誰にも俺を信じてもらうことができず、頼みの綱の父上にまで迷われて、俺は初めて、こんなに激しく動揺した。
感情がぐらぐらと揺れ動いて気持ち悪い。
誰も、誰も「グレンがそんなことをするはずない」と迷いなく言ってくれなかった、ただそれだけのことが悲しい。みんなが、俺よりイザナを信頼していると目に見えてしまって辛い。そして、たった一人にも庇われないような生き方をしてきたこれまでの俺が憎かった。
(…母上は…療養中……だよな)
最後の希望にみっともなく縋ろうとした自分を、鼻で笑った。
メイドも侍女も、笑顔で「おはようございます」と言ってくれていた。俺も「おはよう」と返したりしたし、社交界に出る時は張り切って、あんなに楽しそうにコーディネートしてくれた。
執事も、こちらが恥ずかしくなるくらい甘やかしてくれた。勉強やマナーのスパルタ教育を終えたあとは、たっぷりとご褒美を用意してくれた。俺の好物をこれでもかと出してきた時は、俺を潰す気かと呆れるほどで。
父上だって。家族として過ごす時間は、他の家庭と比べれば少なかったかもしれない。多忙な人だから。でもその代わり、愛情深く育ててくれた。剣を好きになったのも、父上が褒めてくれたからだ。そして、こんな人になりたいと思ったから。
……関係を、自分なりに築けていると思い込んでいた。
でもそれは、全くの見当違いだったのかもしれなかった。
今は、目の前にいる父上も、屋敷にいるだろうメイドや侍女、執事に、庭師、料理長など、全ての人が俺を傷つける刃に見えた。視線も、言葉も、何もかもが俺を受け入れていないと錯覚するほどに。
「……父上、今日はもう戻ります。ありがとうございました」
「グレン、待ってくれ。話がまだ――」
「今は……一人にして、下さいませんか」
感情を押し殺してそう言うと、父上は複雑そうな表情をして押し黙り、俺を見送った。
それから俺は、剣とマントを手に取ると、逃げるようにして屋敷を飛び出した。
……昔はそこにあったはずの、泣いた俺を追う父の姿は、今やもうなくなっていた。




