小さな日常、揺れる心
王城の中庭に、少女の笑い声が響いた。
「透っ! 見て見て、鳥が止まった!」
「おお、ほんとだ。肩に乗ってるじゃん、すげぇな」
ラナはすっかり表情が柔らかくなり、あどけない笑顔を見せていた。
透とセシリアに保護されてから数日、彼女は城の一角に設けられた学び舎で読み書きを習い始めていた。
「ラナ、そろそろ部屋に戻りましょう。午後は読み聞かせの時間よ」
「うんっ!」
セシリアがラナの手を取り歩き出す。
その様子を見て、透はふとつぶやいた。
「……本当に、変わったな、俺たちの毎日」
「そうね。でも、こういう何も起きない一日が、いちばん大切なものかもしれないわ」
微笑み合うふたりの間に、穏やかな時間が流れる。
けれどその背後では、静かに、何かが動き始めていた。
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一方、旅先の山村では――
カイが保護した少女、名を「ノエル」という。
まだ本調子ではなかったが、少しずつ言葉を交わすようになっていた。
「ノエル、お前が言ってた鍵ってのは、なんなんだ?」
カイが訊くと、ノエルは静かに口を開く。
「……かつてこの世界を繋いだ、時の門のこと。私は、その門を封じるための管理者……の末裔よ」
「……時の門ね」
「もう一度開けば、過去も未来も交差する。それが……この世界にとって、よくないことだって、わかってる」
カイは黙って考え込む。
セシリアと透の過去の記憶、結び直された因縁、そして今――すべてが、この門と関わっていたのかもしれない。
「だったら、止めるしかねぇな」
「……あなた、名前は?」
「カイ……カイ・ルヴェール。元・騎士団副団長、今はただの旅人だ」
ノエルは、かすかに笑った。
「なら、信じる。あなたに門を任せても」
夜が深くなる中で、それぞれが新たな局面へと向かい始めていた。
王都では、透が新たな選択を前に思い悩み――
山村では、カイが再び世界に関わる鍵を手にしようとしていた。
そして、次の揺らぎが、少しずつ姿を現し始める。
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透は静かにペンを置いた。
机の上には、整った文字で書かれた報告書。
その最後に、彼は迷いなく署名する。
――「篠原透。王国協力特任顧問として、北端遺跡への調査任務に参加を希望する」
それが、彼なりの答えだった。
「やっぱり行くのね」
扉の向こうに立っていたセシリアが、寂しげに微笑んだ。
「……ああ。カイの気配がある気がするんだ。たとえ違っても、このまま知らないふりはできない」
セシリアはそっと部屋に入り、透の隣に腰を下ろす。
「私も、止めるつもりはないわ。むしろ……あなたがそうしてくれて、嬉しい」
透は小さく息を吐いた。
「セシリア、俺……また君を置いていくことになる。それでも――」
「もういいの。あなたは、何度だって、帰ってくる人でしょう?」
そう言って、彼女は透の手を握った。
「だから、信じてるわ。あなたが、私のいる場所に、必ず戻ってくるって」
その夜。
ラナが、セシリアの部屋にやってきた。
「セシリア様、透はまた戦いに行くの?」
「ええ、少しの間だけ。でも、すぐに帰ってくるわ。約束したもの」
「……私、初めて信じられた人なんだ。透も、セシリア様も。だから……」
ラナの声が震えていた。
「私、強くなる。今度、透が帰ってきた時に、びっくりするくらい!」
「ええ、びっくりさせてあげましょう。あなたなら、きっとできるわ」
一方、山村では――
ノエルが焚き火を見つめながら言った。
「……あなた、どうして私に協力してくれるの?」
「理由が必要か?」
「……ううん、でも、気になるの。あなたは、誰かの代わりに動いてるんじゃないかって」
カイは火を見つめたまま、しばらく黙っていた。
「……かつて、守りたかった人がいた。けど、守り切れなかった。だから今度は、自分の手で選びたい。誰の代わりでもなく、俺として」
ノエルはその言葉を静かに受け止めた。
「それなら、私も……もう一度、誰かを信じてみる」
「……まずは、自分を信じな」
ノエルの目がわずかに見開かれる。
カイの言葉は、優しく、そして強く、彼女の胸に染み込んでいった。
夜が更けていく。
世界は静かに揺れながら、それぞれの心を試していた。
――そして、透が王都を旅立つ朝。
セシリアは城門まで見送りに来ていた。
「気をつけてね、透」
「おう、任せろ――絶対、帰ってくる」
手を取り、短く唇を重ねる。
それは、ふたりが結んだ今の約束。
何度でも手を取り直せるように。
風が吹く。
新たな物語が、また一歩進み出していた。