名前のない約束
王都の朝は、柔らかな陽射しと共に始まった。
城の一室。
透はテーブルに広げられた文献と格闘していた。
「魔導書の文字って、なんでこう癖が強いんだよ……」
頭をかかえる透の隣で、セシリアが紅茶を注ぐ。
「でもちゃんと読めてるじゃない。前よりずっと早くなったわ」
「いや、まだなんとなくだって。詠唱ミスったら爆発するし」
「大丈夫よ、私がついてるもの」
透は顔を上げて、セシリアを見る。
「……なんか、こうやって並んでると、変な感じするな」
「どんな?」
「ほら、騎士と姫とか、異世界の来訪者と王女とかじゃなくてさ。ただの……普通の恋人みたいな」
その言葉に、セシリアが頬を染める。
「そうね。でも、それってとても素敵なことだと思うわ。ようやく、ここまで来たって感じ」
「だな……あ、そうだ。今日、少し城の外出てみようぜ。王都の街、ちゃんと歩いたことなかったし」
「ええ、行きましょう。ふたりで」
その午後。
ふたりは人混みの中、手をつないで歩いていた。
市場の喧騒、焼き菓子の香り、子供たちの笑い声――
どれもが、彼らにとって、はじめての風景だった。
「ねぇ透、あそこ……あの屋台覚えてる?」
「ああ、俺が最初に食べた謎の肉串か。うまかったな……って、また買うのかよ?」
「当然。思い出の味なんだから」
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一方その頃――王都から遠く離れた旅の道。
カイは、小さな村の井戸端で水を汲んでいた。
「ずいぶん歩いたな……」
白猫が肩に乗り、軽く鳴く。
「何があるってわけじゃないが、この先に小さな図書院があるらしい。魔導文献の写本が保管されてるとか」
彼は空を見上げた。
セシリアの面影がふとよぎる。
だがもう、その記憶に痛みはなかった。
「この旅が終わったら……俺にも、何かが変わるかもしれないな」
足元の土を踏みしめ、カイはまた歩き出す。
それは、彼自身の名もなき旅路。
そして、名もなき約束の物語のはじまりだった。
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透とセシリアは、王都の小さな路地裏で足を止めていた。
「……なんだ、この騒ぎ?」
通りの先で、人だかりができている。
子どもたちが泣き、商人たちが顔をしかめていた。
「泥棒だ! あの小娘が――!」
怒鳴る声の先に、小柄な少女が立っていた。
ボロボロの服、痩せた体、鋭く光る双眸。
透は、彼女が手にしているパンを見て、すぐに理解した。
「腹、減ってたんだろ?」
「……関係ない! 盗ったら、悪いって、知ってた!」
少女は警戒したまま、後ずさる。
セシリアがそっと前に出た。
「……あなたの名前は?」
「……ラナ」
「ラナ。私たちはあなたを罰しないわ。ただ、ちゃんと話をしましょう?」
ラナはしばらく口を閉ざしたまま睨んでいたが、ふと涙をこぼした。
「だって……食べるもの、なかったんだ。誰も……助けてくれなかった……!」
透は、しゃがんでラナの目線に合わせた。
「だったら、今度から頼ってくれ。奪うんじゃなくて、助けてって言えばいい。俺たち、そういうの……ちゃんと応える側でいたいんだ」
その言葉に、ラナは小さくうなずいた。
ラナは、戦後の混乱で家族を失い、路地裏に潜んでいたという。
透とセシリアは彼女を一時的に城に保護し、暮らしの支援を申し出た。
「……こういうのも、あなたが選んだここに残る理由?」
セシリアが問う。
「うん。人を助けるとか、大層なことじゃない。でも、俺にできることを、ちゃんとしたい」
「……素敵な答えだと思うわ」
一方その頃――遥か東の山村。
カイは、崖の近くで倒れていた少女を助けていた。
「……おい、しっかりしろ」
手を伸ばし、少女を抱き上げる。
彼女の腕には古い術式の痕跡が刻まれていた。
「魔術反動……? 一体何をした?」
少女は微かに目を開ける。
「……お前、騎士か……?」
「……元な」
「そっか……なら、ちょうどいいや……お願い、私を……」
言いかけて、意識が途切れる。
カイはため息をひとつ吐き、背中に彼女を背負った。
「お前も、名もなき約束の中にいるのかもしれないな……」
彼の旅は、思わぬ形で新たな同行者を得た。
そして彼の中に、新しい物語の芽が、静かに芽吹こうとしていた。