もう一度、手をつなぐために
崩壊の気配が去った王都は、まるで長い悪夢から目覚めたようだった。
空は青く澄み、光は穏やかに地上を照らす。
けれど、人々の心にはまだ、不安の残り香が漂っていた。
王宮の医務室。
傷ついた透は、簡易なベッドに横たわっていた。
「……ん」
まぶたを開けると、そこにはセシリアの姿があった。
椅子に座ったまま、彼の手を握っている。
眠っているのか、長いまつげが静かに揺れていた。
「……セシリア」
その名を呼ぶと、彼女のまぶたがゆっくりと開いた。
「……透っ!」
飛び起きると同時に、彼の胸に飛び込む。
「本当に……本当に、よかった……!」
「ごめん、心配かけて」
「いいの……もう、無事でいてくれるだけで、いいの」
小さな声が、彼の胸の奥にまで届く。
その温もりに、透はようやく世界に戻ってきたことを実感した。
「……ギルバートは?」
「消滅したわ。術式の痕跡も、魔導塔の影響も、すべて消えて……この世界は、ようやく落ち着きを取り戻しつつある」
「そうか……じゃあ、もう――」
「ええ、もう戦う必要はないの。あなたも、もう大丈夫」
けれど、その安堵の中に、透はひとつだけ違和感を覚えていた。
「……カイは?」
セシリアの瞳が曇る。
「彼は、何も言わずに姿を消したの。最後に一言、ありがとうってだけ伝えて……あとは、何も」
「……そうか」
透は、あの男がどんな思いで彼を見送ったかを思った。
セシリアを守るために、全てを押し殺して――想いを、感情を、希望すらも切り捨てて。
だからこそ、透にはわかる。
「カイは、俺たちの未来を選んだんだ……だから、俺たちも、それを受け取らなきゃならない」
「……ええ。そうね」
その日の午後、王宮で小さな会議が開かれた。
王城再建の方針、各地の結界補強、術士団の再編――
透は正式に、異界の来訪者として王都に留まる許可を得た。
「それと……透殿。もしご希望であれば、元の世界に戻る術式を再検討することもできます」
そう申し出たのは魔導院長だった。
「……俺は、ここに残るよ」
透の即答に、場の空気が一瞬静まる。
「この世界でやりたいことがある。守りたい人も、もう見つけたから」
その言葉に、セシリアの目が潤む。
「ならば、この世界の一員として迎えましょう」
会議はその一言で締めくくられた。
夜、王都の高台にて。
ふたりは肩を並べて星を見上げていた。
「……透。ひとつだけ聞かせて。あなたは、本当に後悔してない?」
「ないよ……でも、強くなろうとは思った。いつかまた、世界が揺れるときが来ても、ちゃんと戦えるように」
「……私も。あなたの隣で、同じ未来を歩めるように」
星が流れる。
彼らの未来を祝福するように、夜空に静かな光が走る。
透はそっと、セシリアの手を握った。
「これから、もう一度始めよう……今度こそ、ふたりでちゃんと、同じ歩幅で」
「……ええ、約束よ」
その手は、温かかった。
もう離さないと、心に決めた。
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それは静かな朝だった。
戦いが終わり、世界が日常を取り戻し始めた日々。
透は王都の街を歩いていた。セシリアと並んで。
「ほんとに、ここのパン屋人気なんだな」
「ええ。戦後はみんな甘いものを求めるのよ。癒しってやつね」
いつもの調子で笑うセシリアの横顔を見て、透は微笑んだ。
あの日々が嘘のようだと思えるほど、平和な時間。
だがそれは、確かに彼らが、選び取った未来だった。
「そういえば、透」
「ん?」
「……今夜、少し時間くれない? 二人で、ちゃんと話したいことがあるの」
「……わかった。俺も、ちょうど話したいことがあった」
その夜、王城のバルコニーにて。
風が静かに吹き、夜空には満天の星。
かつてここで交わした約束が、ふたりの記憶に甦る。
「……私、ずっとあなたの中に、前世の誰かがいるのかもしれないって、不安だった」
「俺も、自分が本当にこの世界にいていいのか……答えを出せないままだった」
「でもね、今なら言えるわ。あなたは透よ。私にとって、かけがえのない、今のあなた」
「ありがとう、セシリア」
透は手を伸ばし、彼女の手を握る。
「俺もようやくわかった。過去じゃなくて、今を見て、これからを生きていきたい」
小さな沈黙。
それから――セシリアが、そっと寄りかかる。
「じゃあ、教えて」
「ん?」
「……好きって、言って」
顔を上げたセシリアの頬は、ほんのりと赤い。
「……好きだよ。セシリア。もう絶対離さない」
言葉に乗せた決意は、何よりも強かった。
「……私も大好き。あなたのことが、ずっと」
その夜、ふたりはもう一度手をつないだ。
今度こそ、離さないために。
一方その頃――王都の外れ、小さな村の入り口。
旅装束に身を包んだ一人の男が、木の柵の前に立っていた。
「……懐かしいな。この感覚」
カイ・ルヴェール。
騎士団副団長として王都を支えた男は、今、ひとり新たな道を歩き始めていた。
それは、自分自身の物語を見つけるための旅。
彼の胸には、かつて愛した人への想いがまだ残っている。
だがそれは、もう痛みではなかった。
「……さて。今度こそ、誰かの代わりじゃない俺を、見つけてやる」
彼の足元に、ふわりと一匹の白い猫が現れる。
その猫を見つめて、カイは苦笑する。
「……君もついて来る気か? 物好きなやつだな」
風が吹き抜ける。
彼の物語もまた、ここから始まろうとしていた。