終焉の気配、揺れる決意
それは、ある静かな朝だった。
王城の空気が、どこか重たい。
空の色も、光の質も、微かに変わっていた。
セシリアはその異変にいち早く気づき、窓辺に立つ。
「……魔素の流れが乱れている。こんなに早く?」
まるで、崩壊が加速しているようだった。
透がこの世界に現れてから、王都の周囲で時折確認されていた微細な魔力の異常。それが、今や目に見えるほどに広がり始めていた。
部屋の扉が開き、急ぎ足の足音が響く。
「姫!」
駆け込んできたのは、レオンの義弟――騎士・カイだった。
「外郭の結界が歪み始めています。術士団が修復を試みていますが……」
「……間に合わないかもしれない」
セシリアは唇を噛んだ。
その横で、カイは躊躇いがちに切り出す。
「……この事態に、彼を関わらせるべきではありません」
「透を?」
頷くカイ。彼の瞳は冷静に見えながら、その奥に強い感情が宿っていた。
「彼は起点であり、同時に導火線でもある……彼をこのまま王城に留めておくことは、火薬庫に火種を落とすようなものです」
「……わかってる。でも、彼はもう無関係な異邦人じゃないわ」
セシリアの言葉に、カイは何も言えなかった。
それでも、心の中では叫んでいた。
(ならば、せめて……誰かが、その火種を制御できなければ)
その頃、透は王宮の中庭にいた。
城内の慌ただしさとは裏腹に、静かでどこか別世界のような場所。
だが彼は、その静けさに異様な違和感を覚えていた。
(……鳥の鳴き声が、消えてる)
それは自然界が何かを察知した証だった。
そこへ、ディアスが現れる。
「感じるか……これは、崩壊の風だ」
「……あんた、ずっとこれを警戒してたのか」
「俺だけじゃない。お前がこの世界に来たその瞬間から、魔導院の連中も、そして、あの男も動き出していた」
「あの男って……」
「ギルバート。お前が前世で殺せなかった災厄の研究者の後継者だ」
透は拳を握った。
また過去の負債が、今の彼を追い詰めようとしている。
「だがな、透。お前にできることはまだある。お前が何者かを思い出すより前に、選ぶんだ。誰のために、何をするのかを」
「……守りたい奴がいる。失いたくない世界がある。それじゃ、理由にならないか?」
ディアスはふっと笑った。
「それで十分だ。理由は後からついてくる。……ただし、行動するのは今だけだ」
その言葉を背に、透は走り出した。
同じ頃、ギルバートは魔導塔の奥で魔術陣に触れていた。
「さあ、再演の幕を開けよう。特異点を引き金に、世界は再び形を失う。そして私は、その渦中で理想を完成させるのだ」
その呪文が唱えられた瞬間――王都の空が、赤黒く染まり始めた。
騎士団本部では、緊急招集がかかっていた。
「結界異常、南門付近から急速拡大中! 魔物の気配確認! 規模、過去最大級!」
「術士隊は門前に展開中! 殿下の避難はどうしますか!」
カイは短く命じた。
「――姫は俺が護る。透の動向は……俺が追う」
そして、もうひとつ小さく、誰にも聞こえぬ声で呟いた。
「姫を守ると決めたのだ。たとえ、そのために彼を斬ることになっても――」
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王都の空が、真昼のはずなのに血のような赤に染まっていた。
空気は重く、まるで肺に砂が詰まるように息苦しい。
城壁の外――南門前の結界が、音を立てて崩れ落ちる。
その瞬間、黒い靄とともに、異形の魔物たちが雪崩のように押し寄せてきた。
「来るぞ――防衛線を張れッ!!」
カイの号令が響き、騎士たちは整列し、魔術師が魔方陣を展開していく。
戦いが、始まった。
一方、透はディアスの導きで城の地下に向かっていた。
「ギルバートの術式は、魔導塔を中心に全域へ展開している。奴の目的は崩壊の再現――」
「それを止めるには?」
「起点であるお前が、術式の核心を断ち切るしかない……だが、下手をすればお前の存在ごと、この世界から消える」
ディアスは冷静にそう言い放った。
透は黙って拳を握り締める。
(自分がこの世界の不安定要素だとしたら――)
覚悟は、とっくに決めていた。
「それでもやるよ。俺は……セシリアと、この世界を守りたいから」
ディアスは目を伏せ、わずかに笑った。
「……本当に、あいつに似てるな。前世のレオンにも」
「そっちの俺がどんな奴だったか知らないけど……今の俺は、今の俺だ」
「ならば行け……お前のやり方で終わらせてこい」
その頃、セシリアは城の魔導中枢にいた。
結界を安定させようと必死に術式を補強する中、ふと胸が騒ぐ。
(透……)
彼が今、どこで何をしているのか。なぜだか、手が届かないほど遠く感じる。
そこに現れたのは、カイだった。
「姫……今すぐ避難を。もうここは安全とは言えません」
「でも、透が――」
「彼は、自らの意思で戦場に向かいました。ならば、私たちも覚悟を決めるべきです」
セシリアは一瞬ためらい、だが、強く首を振った。
「私も行く……あの人がこの世界に来た意味を、共に見届けたいから」
「……やはり、あなたは彼を――」
カイの言葉がそこで止まる。
その視線が、彼女の真っ直ぐな眼差しに貫かれたからだ。
「ごめんなさい、カイ。でも私は透を――」
その言葉を遮るように、地面が大きく揺れた。
魔導塔の中心――核が動き始めたのだ。
地下最深部。
透はひとり、術式の中枢部に立っていた。
巨大な魔方陣が、黒い光を放ち、空間を軋ませる。
そしてその中心には――ギルバートがいた。
「来たか特異点。君の存在が、全てを正す歯車になる」
「俺は……お前の好きなようにはさせない」
「ならば証明してみせろ。百年前に果たされなかった結末を、今度こそ終わらせるのだ」
ギルバートの背後に、魔物の影が広がっていく。
空間そのものがねじれ始める中、透は剣を抜いた。
(ここで終わらせる。前の俺ができなかったことを、今の俺が)
透の剣が、光を帯びる。
それは記憶ではない。意思だ。
この世界に来て出会った人々と過ごした時間。
セシリアの笑顔。カイの誇り。ディアスの覚悟。
すべてを背負って――
「……行くぞッ!!」
光と闇が激突する。
この瞬間、世界の命運が、一人の青年の選択に委ねられていた。