君が誰を選んでも
数日が過ぎた。
王城にはいつもと変わらぬ朝が訪れ、陽光が石畳を照らしていた。だが、透にとってその日々は、明らかに違う色をしていた。
セシリアの手のぬくもり、名前を呼んだあの夜の記憶。
そして、カイの視線――それは一言では言い表せない、静かな壁のように透の胸に残っていた。
「――剣の振りが甘い。力に頼りすぎている」
訓練場に響いた声は冷たく、的確だった。
透が振る木剣を受け止めたのは、カイだった。
互いに木剣を構え、幾度目かの打ち合いの最中だった。
「……本気でやってるんだけどな」
「ならば尚更、話にならない」
カイの一撃が透の肩をかすめる。重く、正確。
まるで怒りも迷いも、その剣の中には存在しないようだった。
透は息を整えながら、苦笑した。
「……お前、今怒ってるだろ」
その言葉に、カイは一瞬だけ動きを止めた。
「……怒ってなどいません。ただ、貴方に本当に姫を守る力があるのかを、見極めているだけです」
「それは……レオンとして? それとも、俺として?」
「どちらでも構いません。大切なのは、結果です」
剣を構え直したカイの瞳は、静かに燃えていた。
「姫を選ぶのは姫の意思。……だが、私は一度たりともその隣を諦めたことはありません。貴方がどれほど姫の心を掴もうと、私の誓いは変わらない」
「……だったら、俺も負けられないな」
透は静かにそう言い、構え直した。
剣を交える二人。
それは単なる技術の鍛錬ではなかった。
感情と誇りがぶつかる、無言の宣戦布告だった。
一方その頃、セシリアは城の書庫で古い記録をめくっていた。
ページの中に記された『前回の世界崩壊の兆し』――
そこに、彼女がずっと気にかけていた異世界の者という記述があった。
(透が現れてから、王都周辺の魔素の流れが変わり始めている……まさか)
彼女の脳裏に、ふとディアスの言葉が蘇る。
「過去の亡霊が王女に取り憑こうとしているなら、俺が再び斬るだけだ」
それは、警告ではなかった。
予兆だったのだ――
その夜。
訓練を終えた透が部屋に戻ろうとしたそのとき。
回廊の奥から、またあの男が現れた。
――ディアス・フェルグランド。
「仲睦まじいようで、なによりだ」
「……あんた、また何しに来た」
透が構えようとすると、ディアスは手を上げて制した。
「今日は剣ではない。忠告をしに来た。……いや、警告とでも言おうか」
「警告?」
「あの日、王女に言われただろう。たとえそれが過ちでも、私は後悔していないと」
「……ああ、言ってたな」
「だがその言葉が、再び国を滅ぼす選択に繋がるとしたら?」
透は息を呑む。
ディアスは静かに続けた。
「お前が、前世の罪を背負うなら、それもいい。だが、今のセシリアにそれを繰り返させるなら――今度は俺がお前を斬る」
その瞳には、かつての親友を討った男の覚悟が宿っていた。
「選べ。透――お前は、セシリアを愛するか、それとも守るか。その二つは、決して同時には成し得ない」
そう言い残し、ディアスは闇の中へと消えていった。
選ばなければならない。
恋か、使命か。
前世の残響に揺れる今、透は初めて、本当の決断を迫られる。
夜が明けきらぬ静かな時間。
透は、ひとり城の裏庭で風を感じていた。
剣を振っても、汗を流しても、心のもやは晴れなかった。
ディアスの言葉が、耳の奥に焼きついて離れない。
「愛するか、守るか――その二つは、同時には成し得ない」
その言葉の重さを、ようやく本当の意味で理解し始めていた。
(俺が、セシリアを想えば想うほど――あのときの過ちが再び起こるかもしれないってことだ)
そんな思考の渦の中、誰かの気配に気づいて振り返ると、そこにはセシリアがいた。
「探していたの。あなたと……ちゃんと話がしたくて」
彼女の表情は、どこか決意を帯びていた。
場所を移し、ふたりは城の高台に立っていた。
風が吹き抜け、眼下に広がる王都が静かに眠る。
「透、あなたは知っている? 世界の終焉は、いつも特異点から始まるの」
セシリアはそう言って、一冊の古い書物を取り出した。
そこには、百年前――前世の彼女が記した、封印された記録があった。
『特異点は、二つの世界をまたぐ存在。その存在が強くこの世界に偏れば、均衡は崩れ、崩壊が始まる』
「……その特異点って、俺のことだろ?」
透は、自分の立場をすでに察していた。
異世界から来た自分。
それだけならまだしも、前世という因果まで背負わされている。
セシリアは、静かに頷く。
「本来なら、王家の法術であなたを元の世界に戻すべきだった……でも私は、それを選ばなかった。あなたともっと一緒にいたくて、ずるい感情を優先してしまった」
「セシリア……」
「そしてそれが、また破滅を招くかもしれない。わかっているのよ……それでも私は――」
彼女は透の手を取った。
「私は、あなたといたい。滅びが迫っているなら、逃げる方法を一緒に探せばいい。前の私たちが果たせなかった選択を、今度こそ――」
その言葉に、透は強く頷いた。
「俺も逃げない。守るために、ちゃんと戦うよ……過去の俺が間違ったなら、今の俺が償う」
二人の間に、強い決意が生まれた。
愛し合うためではなく、共に進むために。
しかしその頃、王宮の地下では――別の者が動き出していた。
「封印の緩みを確認。特異点、完全顕現まであと少し……」
呟くのは、魔導師ギルバート。
百年前、崩壊の理を研究していた狂気の学者の後継者。
彼は、透という存在の出現によって、再び終焉の方程式が動き出すと確信していた。
「やはり姫は、選んだな。レオンを……否、透を。ならば、予定通りだ。全ては再現のために」
彼の背後、巨大な魔導陣が静かに回転を始めていた。
一方その頃、カイもまた密かに動いていた。
剣を研ぎながら、ひとり呟く。
「……もし君が、彼を選ぶというのなら――私は、君を守るためにその選択を否定する」
カイの視線は、王都の中心に向けられていた。
その先にあるのは、かつて王都を包み込んだ、あの災厄の再来。
その時代を知る者として、カイは誓っていた。
『姫が誰を選んでも――私は、姫を守る』
そのために、手段を選ばぬ覚悟すら、すでに持っていた。