それは不思議にありふれて 〜第一章 【騒霊】 その⑧
朝練があった時の癖が未だに抜けず、早朝に勝手に目覚めてしまう。夜半より降り出した雨は明け方には激しさを増していた。窓のカーテンの隙間から差し込む白濁した明かりは、それでも陽が昇り始めていることを示していた。
時刻は5時半。一度目覚めるとなかなか寝られない性質の千比呂は、ブツブツと己の空腹に苦情を申し立てながら、制服に着替える。
いつもなら、母が昨夜の内に作り置きしてくれた朝食を食べて、早朝の海の香りを楽しみながら、浜辺で弁当をゆっくりと屠り、登校時間ギリギリまで頭を空っぽにする所だけれど、こんな天気じゃそうもいかない。
とりあえず、まだ誰も起きてきていないリビングで母が昨夜の帰宅後に作っていてくれたらしいパストラミサンドをホットミルクと一緒に頬張ると、部屋に戻って英語のノートをまとめる事にした。
授業中に自分で書き取ったノートを開くと、毎回思う。我が手文字ながら、判別できないほどの荒れっぷり乱れっぷりはいかがなものなのだろう? これは、過去の自分から未来の自分へ向けた謎解きなのだろうか? などと愚にもつかないことを考えながら、まとめ用のノートに、こちらにはできるだけ綺麗な文字で書き綴り、要点や授業内容をまとめていった。
いろいろな色ペンを使ってなるべく可愛くカラフルにしてみようとするのだが、いかんせん千比呂には絵心が皆無であり、色使いの組み合わせには独特なおぞましさすら漂っていた。
英語のノートをまとめ終わるとほぼ同時に階下から母の呼ぶ声がした。
「千比呂ちゃんまだいるの? お母さん達お仕事行ってくるからね、遅刻しないようにしなさいよ」
部屋のドアを開いて元気な声で、
「はーい! いってらっしゃーい!!」とだけ応えた。
時計を見ると、時刻は7時50分、外で車の扉が閉まる音が2度した後、おとなし目のエンジン音が始動を始めて遠ざかってゆく。
父はいつも母を乗せて車で駅まで送って、そのまま出勤する。
翼は多分まだ寝ている。大学生のこういうところは羨ましい。
窓の外では先程までの雨はすっかり止み、灰色の曇り空が広がっている。
折りたたみの傘だけ持っていこうかな。学校までは10分足らず。始業まで少し余裕があるだろうが、きょうはこのまま登校しようと弁当をリュックに詰めると、千比呂は「行ってきます」の言葉を返す者が無い家に投げて、学校へ向かった。
早目に教室に着いて、とは言ってもホームルーム開始の10分前だが、いつものように机に肘をついて千比呂は外を眺める。普段ならそろそろ里緒が突撃をかまして来る頃なのだが、まだ来ていないようで姿が見えない。なんとなく登校してくる生徒の列の中を探してみるが里緒の姿は見えないまま、ヨレヨレジャージの遠山先生がやってきてホームルームが始まった。
20代後半見てくれは決して悪くない遠山先生。もう少し着るものに気を使えばいいのに、昨日ちょっとオシャレしたら生徒たちに囃し立てまくられてその反動なのか、きょうはいつもに増してヨレヨレっぷりに拍車がかかっている。
出欠の点呼と簡単な連絡事項でホームルームが終了すると、遠山先生が千比呂の側まで来て、木下からなにか聞いていないかと尋ねてきた。何も聞いていないと答えようとすると、やたらと酒臭い。思わず顔をあげると目の下をクマで真っ黒にした遠山先生のひどい顔があった。
「先生お酒臭いよ」
質問の答えより先に反射的に苦言が口をつく。
「悪いね、昨日先生達で部活説明会の打ち上げやってさ、三次会まで付き合っちゃったよ」
応えながらちょっとえづいたりもしてる。先生の女子力が心配になる。
「で、木下知らない? 仲良いでしょ」
とにかく用事は早く済ませてしまいたいらしい。
「聞いてないけど、Nodeしておきますね」
スマホを取り出して見せると、じゃあ、頼むわ。連絡着いたら教えてね。とだけ言い残して遠山先生は、ゾンビの足取りで教室を後にした。
なんとも言えない顔でそれを見送ると、千比呂はNodeで『学校来ないの? 』とだけの簡単なメッセージを送信したが、既読のつかないまま1時間目の現国の授業が始まった。
スマホが震えたのは1時間目の現国の授業も半分を過ぎた頃、丁度千比呂が室生犀星の〈はるあはれ〉を朗読させられている時スマホが震えた。
そちらが気になって仕方がなかったが何とか、全裸になった時にだけさう見えるのだ。と、読み切ると後の男子と交代し、着席するやいなや、スマホをチラ見しながらNodeを開いた。
『ごめ〜ん寝坊しちった 笑』というメッセージと、顔がバッテンになったクマの絵文字がそこには表示されていた。
「笑じゃねぇっつーの」半笑いで小声でそう呟いてはみたが、なんだかとてもホッとした。
1時間目が終わり、教科担当の先生が教室を立ち去るのと入れ替わりに里緒が教室の後の入口から飛び込んできた。多分、柱の影にでも身を隠して様子を伺っていたのだろう。
「ごめ〜ん! オニ寝過ごした〜〜!!」両手で拝み倒しながら教室の中を千比呂めがけて走ってくる。クラスの中にドッと笑いが広がった。
側までやってくると里緒は千比呂に飛びついてきた「ちひろちひろちひろ〜!!!」名前を連呼しながら千比呂の頭をグシャグシャにかき回し、終いにはほっぺたに何度もキスをして来た。
クラス中に見られてる、みんなに笑われている。調子乗りの陽キャ男子は腹を抱えて笑ってる。生真面目そうな子達は若干引いてる。
流石に恥ずかしくなって、何とか里緒を振りほどいた時には、すっかり髪型は爆発したようになり、前髪を止めてたヘアピンは眼の前でブラブラ揺れていた。
「どうした〜? 落ち着け〜!!」こめかみに血管を浮かべんばかりの勢いで、怒気をはらんだ威嚇に近い声をもって里緒を恫喝した。
そんな千比呂にはお構い無しと言わんばかりに、この世のすべての幸福をかき集めたような輝きに満ち満ち満ちた笑顔で里緒が千比呂の耳許に囁くように言った。
「あたしね、翼さんにギューって抱きしめられちゃった!!」
予想の斜め上を突き抜けた言葉にミンコフスキー空間に放り出されたかのような混沌に襲われ、完全に思考停止している千比呂に畳み掛けるように「こんな感じでギュ~って!」
里緒が千比呂の身体に両腕を絡めて抱き寄せる。
もう完全に訳がわからなくなっている千比呂だった。昨日あの後何があった? クソ程奥手だと思ってたあの兄も男だったか? 送り狼にわたしゃ仔羊をノシつけて献上したのか? ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるイヤな思考が不安を中心に第三宇宙速度で公転してる! 天動説の再発見だ!
最早、狂気に片足を突っ込み始めている。
「昨日玄関から出たらいきなり翼さんが抱きついてきてさ、ちひろに蹴り飛ばされたなんて言い訳しちゃってんの。可愛くない? めっちゃ、真っ赤になってるからさ、どさくさに紛れてあたし手を繋いで家の前まで送ってってもらっちゃたの!もうちょ〜テンション爆上がりしちゃって、ぜんっぜん寢らんなくなっちゃってさ、まぁでも気がついたら寝てたんだけど。寝たら寝たで寝すぎちゃって、寝坊しちゃったよう、アハハハ!」
ハイテンションの早口で一気にまくし立てると、幸せそうに身体をくねらせながら笑ってる里緒がいる。
落ち着けわたし。ここで考えを整理するんだ。つまりこういうことだろうか?
昨夜、腹立ち紛れに蹴飛ばした翼が、りおに抱きつく形になって、テンパってる間に手を引かれて連れて行かれた可能性が1番高いんじゃないのか?
奴らのパーソナリティーを考慮するとこれが最もしっくりくる。 きっとそうだ、そうに違いない。
これは、りおによる一方的な証言に他ならないのだ。嗚呼、脳に糖分が欲しい。スニッカーズを食べなくては......
千比呂はグレーピンクの脳細胞をフル回転させて現状把握の為の推理に集中した。そしてリュックのサイドポケットからスニッカーズを取り出しひと口齧る。柔らかく甘い甘いピーナッツとキャラメルとヌガーの旋律が口腔を満たす。
甘い......美味しい。
千比呂が現実逃避に走り出していると、教室の前の入口から名前を呼ばれた。
「おーい、大伴、木下!」
見れば白衣姿の長身眼鏡のイケメンが手招きをしている。
「あれ? 宝先生だ」里緒も気がついて千比呂の手首を掴み、宝先生の方へ歩き出した。
「悪いんだけど、生徒会室には昼休みになったらすぐに来てくれないか? 昼はこっちで用意しておくから、話が終わったら食堂で一緒に食べよう」宝先生の申し出に千比呂は目を輝かせた。
「え、ご馳走してくれるんですか?」
里緒が小首をかしげる。
「ああ、急に休みの先生が何人か出てな。仕出しの弁当が余ってしまうみたいなんで、君等の分を貰っておいたんだ」
それを聞いて、千比呂のシナプスがスパークした。今朝からの出来事の点と点が一本の線で繋がる。
「打ち上げの成果ということでよろしいんでしょうか?」
名探偵千比呂は欺けない。ドヤ顔で宝先生を見上げる。
「知ってたか」
フッと眼鏡を光らせて笑うと、「じゃあそういうことだから。昼休みよろしくな」
そう背中で別れを告げて、宝先生はふいに吹いた春風と共に去って行った。
気がつけば、ふたりの背後にいつの間にか出来た1年2組の人だかりの中、女生徒の大半が桜色の湯気を立ち上らせながら、ホ〜っと溜息を漏らしていた。
見た目は良いんだよあの先生。千比呂と里緒は同じ事を考えていた。
昼休みになって、生徒会室を訪れるとノックするまでもなく入口の扉は開け放たれていて、部屋の奥にすでに来ていた宝先生に見つかり、部屋の中に招き入れられた。
「失礼しま〜す」
ふたりが部屋に入ると壁奥に生徒会の面々が横並びに並んでいた。息つく間もなく宝先生がふたりをその前に並ばせ紹介する。
「こちらが新しい斎事係になった、1年2組の大伴千比呂と木下里緒だ。一応昨日仕事内容は簡単に説明しておいたから、会計関係なんかはその都度教えてやってくれ」
宝先生に答えるように、クリクリ天パの山形が「はい」と返事をする。おでこにテープで貼られた湿布が痛々しい。
宝先生と視線が合った里緒は、クルリと差し出された掌で自己紹介を促された。
「昨日はお世話になりました。1年2組の木下里緒です。ふつつか者ではありますが、これからよろしくお願いします」
急に振られて慌てたせいかなんだか日本語がおかしいが、なんとか窮地を乗り切った里緒。生徒会一同の拍手を受ける。
続いて千比呂も大きな声で自己紹介を始める。
「同じく1年2組の大伴千比呂です! 中学時代は陸上短距離やってました! 身体は丈夫です! よろしくおねあししゃあすっ!!」
そして激しくお辞儀。
完全に体育会系の挨拶に生徒会長が微笑みながら、
「はい、よろしく」と優しく微笑みながら拍手を送った。
そして生徒会の面々の自己紹介が始まる。2年生の島哲人副生徒会長と同じく2年生の山形祐介会計には昨日合っていたので、なんとなく軽口を挟みながら簡単に済ませていった。残りは後ふたり、庶務の2年女子の春木圭さんと風紀委員の3年男子の金田雅和さん。
春木先輩は黒髪おさげの少しおとなし目な印象だったが、喋り始めるとハキハキとしたハスキーボイスで言いたいことはちゃんと言う芯の強そうな雰囲気だったのは意外だった。
金田先輩は少し伸びた丸刈りにガッシリとした体つきの長身で190センチ以上はありそうだ、宝先生より背が高い。鋭い目つきがかなり強面な佇まいを醸し出していたが、笑うと優しい眼になる。
本人曰く、最近急に視力が落ちてきて目つきが悪くなってきたのだそうだ。
最後に生徒会長の長悦子さん、こちらも昨日お会いしたので緊張感はあまり持たずに話を聞けた。ただ、途中、
「私のことは、苗字じゃなくて普通に会長と呼ぶか、悦子さんって呼んでね。長会長だと、どっかの自治会の町会長さんみたいだから止めてくださいね」
そう言った時の視線には殺意すら感じて、里緒も千比呂もその瞬間は背筋を正し、
「はいっ!」と、腹から声を出して応えていた。
一通り自己紹介が終わると、宝先生がお弁当を用意してくれている食堂まで全員で移動することになった。
移動途中の廊下を歩いていると、時々里緒が千鳥足のようにフラフラと歩く時がある。
「どうしたの?」と、千比呂が尋ねると、「この学校やたら小動物のお化けが多くてさ、最近なんだか段々増えてきてるみたいなんだよね」と、千比呂だけに聞こえるように耳許で囁いた。
食堂に到着するとまだ食事中の生徒はだいぶ減ってきていたが、まだまだ混み合っている。そんな中、食堂の角の8人掛けのテーブルに席数分のお弁当と予約席という札が乗せてあった。
躊躇すること無く宝先生がそのテーブルに向かうとこちらに座るよう促した。
新参者で1年生の千比呂と里緒が水を取りに行こうとすると、山形先輩が「いいよいいよ、木下さんと大伴さんは座ってて、僕が取ってくるから」と、制したが「そんな、怪我してる人に申し訳ないです」と里緒が断ろうとしても「大丈夫。タンコブ出来てるだけだから。きょうは木下さん達が主役なんだから」そう笑ってテーブルを後にした。
「山形先輩優しいね」
里緒が感心したように言っているが、千比呂は少々腑に落ちない。
「あの人、里緒ばっか見てなかった?」
ムッとしてる千比呂に向かって頬を両の人差し指でムニュと押さえて見せながら「しょうがないよ。里緒ちゃん魅力的だもの」と変顔を披露しながら笑った。
「ところで先生、このお弁当ほんとにこんなに余ったんですか?」
悦子会長が少し申し訳なさそうに尋ねた。気を遣わせないように余ったといいつつ宝が自腹を切っているのではないか心配しているようだった。
「なに、気にすることはない。昨日の打ち上げが盛り上がりすぎたようで、羽目を外し過ぎた先生方が相当数いただけって話さ。なんだかんだで、きょうは10人ちょっと休んでるよ」
なんでもないというふうに笑って見せているが、結構問題ありそうな気もする。
「まぁ」それだけ言って会長は、案の定呆れた顔をした。
「不逞の輩の後始末ですね。そういうことなら気兼ね無くいただくとしますよ」
金田が高笑いをしながら弁当の蓋を開けて、中を確認する。中華風のハンバーグにアジフライと和風ドレッシングのグリーンサラダ、それに炒飯が詰められたちょっといい感じの取り合わせだった。
「ほほう、先生方は毎日こんな良いお弁当をいただいてるのですか?」
若干嫌味っぽく笑いながら金田がペロリと舌なめずりをした。
「良いだろう、これで500円なんだぞ」
宝先生が我がの手柄のように自慢気に言う。
「それはお安い」
金田がなぜか悪い顔して笑う。
端で見ていると悪徳商人と悪代官の取引現場みたいだなと千比呂は思った。
「そうだ、自前で弁当持ってきてる人はいるかい? 急に申し出てしまったから、そちらが残って困る人はそっちを食べてくれて構わないからね」
宝先生が気を回すと、金田がじゃあ余った方は俺が食べてしまって良いかな? などと言いだした。
「いや、そこは山分けしましょう!」
千比呂が思わず口を挟んでしまった。自分の弁当は2時間目の終わりにもう食べ尽くしてしまった。正直現在、空腹のピークである。
皆の視線が千比呂に集中した。里緒以外の全員がぽかんとした顔をした後、一斉に笑い出した。
「大伴さんって冗談おっしゃる方なのね」会長が嬉しそうに笑う。
「いいね、気に入ったよ」春木先輩がサムズアップで腹を抱えて笑っている。
「よーし、じゃあ山分けだ」金田は、完全に冗談だと思ってる。
なぜか里緒は真顔で頷きながら小刻みに高速の拍手を送っていた。千比呂は歯を食いしばりながら里緒を睨みつけた。
山形が人数分の水の入ったコップをトレイに乗せて持って来た。ちゃっかり里緒の隣の席に陣取り、コップを皆に配り終えると、宝先生の音頭でいただきますの合唱をして食事会が始まった。
結局弁当を持ってきていたのは山形だけで、テーブルの弁当からハンバーグとグリーンサラダを自前の弁当の蓋に取ると、金田に残りを献上した。
金田は、献上品を受け取ると千比呂に食べる分だけ取りな。と、言ってよこした。
気を使ったつもりなのだろう。笑顔でそれを受け取ると千比呂は、自分が食べられる分だけ食べた。
その場にいた全員が認識を改める事になったのは、米粒ひとつ残さずに2つの弁当を食べきった千比呂が、両手に掴んだ弁当箱を逆さにひっくり返して見せた時だった。
金田は全く気分を害すること無く、むしろ清々とした心地すら覚え、素直に「凄いな大伴は!」と、言って嬉しそうに褒め称えた。
なんだか他人のような気がしない共感めいたものを千比呂は金田に感じていた。
弁当は、千比呂を除く3人の女子には少々量があったようだ。それぞれ半分程食べた所で満腹になったので、残りを金田が頂戴する形になった。
都合1.5人前の大盛り炒飯を見せつけられた千比呂は食券で購入してきたプリンパフェを食べながら、ちょっとしまったなと思ったが、金田の食べっぷりの見事さに感動も同時に覚えた。
食後に先生がお金を出してくれたので、島が、「自分が買って来る」と言って自販機で買って来てくれたパックのコーヒーを皆で飲んだ後、ごちそうさまで締めて食事会は、お開きになった。
午後の授業に向けてそれぞれの教室に戻る時、宝先生が階段の昇り口で事務員さんに呼び止められてメモを渡されていた。それに目を通すと眼鏡を光らせて、千比呂と里緒に向かって言った。
「君等はついてるな、放課後に科学準備室に来てくれ、さっそく斎事係の仕事だよ。市役所の防災対策課から連絡があったそうだ。」
嬉しそうにメモ用紙をひらつかせる宝先生とは対照的に、ふたりは顔を見合わせると天井を見上げ肩を落として無音の嘆息を漏らした。
【騒霊】 その⑨へ続く