彼女を救うためなら、人の道も外れてやる
電車から降りて目に入ったのは、錆びついた駅名標だった。よくもまあこんな状況で放置しておけるものだ。回収箱に切符を入れて駅を出ると、嫌になるくらい青々とした空と海が広がっていた。
ここは俺の故郷、何もない寂れた田舎だ。この場所から逃げるように都会の大学に出た俺は、結局故郷に追い返されることになった。酒と薬で命をすり減らし、気がつくと病院のベッドに寝ていた。親から帰ってくるように言われ、大学を休学して実家で静養することになったのである。
数十分歩いて家に着くと、母は泣きそうな顔で出迎えてくれた。親は今回の事件で俺の将来に期待するのをやめたらしく、「ただ健康でいてくれればいい」と言うようになった。肩の力が抜けた。そう考えてもらったほうが気が楽だ。
こんな田舎では別にやることもないので、朝起きて散歩することにした。空と海と山、最初は懐かしさからか綺麗だと思ったが、すぐに退屈し始めた。
その日は曇りだった。いつものように海岸を歩いていると、遠くに人影が見えた。近づいてみると俺と同年代くらいの女性が長い髪を潮風になびかせ、手を合わせて海の方を見ている。この村には若者はあまり多くない。十中八九知り合いだと思い、近づいて声をかけようとすると向こうから先に振り返った。
「……ケンちゃん?」
驚いた。彼女の顔は見覚えのあるものだった。
「美咲?」
そこに居たのは美咲、俺の幼馴染で小さいころよく一緒に遊んだ仲だ。町の高校に行ってからは疎遠になり、俺と同じく都会の大学に進学したと聞いていた。
「どうしてここにいるんだ?大学があるんじゃないのか?」
「ケンちゃんこそ」
「俺は……実は、休学して、実家に戻ってきたんだ」
「休学って、どうしたの?何かあったの?」
適当に濁すこともできたが、俺はここまでの経緯を美咲に説明することにした。こんなことを話すのは恥ずかしかったが、彼女は真剣に聞いてくれた。
「そう……大変だったんだね」
その声に軽蔑や嘲りの色はなく、ただ優しさだけが滲んでいた。
「悪いな、久しぶりに会ってこんな話をして……」
「ううん、いいの……」
そう言って彼女は目を逸らし、伏せ目がちに海の方を見つめた。いつも快活で元気だった美咲がこんな表情をするのは見たことがなかった。
「弟がね、亡くなったの」
俺は言葉を失った。
「この崖の近くで見つかったんだ」
感情を抑えて何でもないことのように言う様子は、逆に彼女の心の深い傷を見せているようだった。
「何があったのかは分からない。でも、最後にここに来たと聞いて……少しでも何を考えていたか、知ろうと思って」
俺は彼女を慰めようとしたが、どんな言葉も無力であるように思えた。ただ、二人で立ち尽くし、波の音を聞いていた。
それから、俺と美咲は毎日会うようになった。二人で子どものころよく遊んだ神社や山道をめぐり、昔話をしながら歩いた。
「ほら、この石段でよく競争したよね。ケンちゃんはいつも速くて……」
「みんなでかくれんぼしたこともあったね、あのころは弟も楽しそうだった……」
楽しい思い出を振り返るときにも、美咲の言葉には悲しみが滲んでいた。俺は子どものころ美咲に抱いていた淡い恋心を思い出し、何としても美咲を救わなければならないと決意した。
ある日のことだった。
「弟の部屋、まだ手を付けられてないんだ……」
ぽつりと美咲が呟いた。
「一緒に探そう。何か分かるかもしれないし」
「でも、怖いの……もし、私のせいだったらと思うと……」
俺は強く首を振った。
「そんなわけないだろ、美咲は弟のことをこんなに大切に思っていたんだ。伝わっていないわけがない」
「分かった……」
美咲の家に行き、一緒に彼女の弟の部屋を調べた。教科書や関係のない書類などが多く、しばらく探していると昼過ぎになっていた。美咲が昼ご飯の準備に行っている間も俺は部屋を探し続け、引き出しの奥に日記らしきものを見つけた。
戻ってきた美咲に日記を手渡した。彼女は震える手で受け取り、ゆっくりとページをめくり始めた。
最初の数ページには何気ない出来事や天気が書かれているだけだったが、次第に友人との諍いや孤独、美咲への複雑な感情が浮かび上がってきた。
『姉ちゃんは優秀で、僕とは比べることもできない。でも、憎いわけじゃない』
ページをめくる手が止まった。最後に書かれていたのは、美咲に宛てた言葉だった。
『姉ちゃんには幸せになってほしい。僕のことは気にせず、前を向いて』
美咲の頬に涙が伝うのを、俺は黙って見ていた。
「ありがとう、ケンちゃん……弟は、最後まで私のことを気にしてくれてたんだね」
その言葉には微かだが救いの色が混じっていた。
美咲の家からの帰り道、俺はあの崖に立ち寄った。沈みかけた夕日に照らされ、海は赤々と輝いている。
ポケットから破り取ったページを取り出し、くしゃくしゃに丸めて海に投げ捨てた。
そのページには、美咲への恨みが書かれていた。
『姉ちゃんなんて大嫌いだ。優秀な姉ちゃんと比べられるのはもうたくさんだ。どうせ僕のことなんて少しも気にしてないんだろう!』
美咲が居ない間に俺は日記を読み、このページを発見した。弟の死に少なからず責任を感じている美咲にこんなものを見せることはできなかった。俺はこのページを破り取り、最後のページに鉛筆で美咲への言葉を書き加えた。
美咲にはこれからの人生がある。死者が美咲の人生を台無しにしていい道理はない。そう自分に言い聞かせた。とは言え、俺のしたことは許されることではないだろう。
この罪は、俺が一生背負って生きていく。