5話 イルカを愛する少女
特に行くところを考えておらず、遠くに行くのも怖かったのでこの島に来た初日に遊んだビーチ……の隣にあるはずの廃漁港へ行ってみます。倒れた立ち入り禁止の看板があるだけで、特に苦労せず入ることができました。相変わらず朽ちた漁船が転がっており、辺りを見渡しても誰もいません。私は濡れるのも構わず波打ち際へ踏み込んでいきました。
「ぐすんっ……」
また涙があふれてきました。膝上まで浸かる深さまで入って私は先輩から貰った髪留めを外すと、地平線目掛けて投げつけます。べっ甲のクリップは十数メートル先の海面にポトッと着水しました。
「翔先輩の……バカ」
大きな声で叫ぼうと思いましたが、結局小さな声しか出ませんでした。こんな大きな海に対して私はなんてちっぽけののでしょう。いっそのこと何もかもを放り出して海に飛び込みたいとさえ思いました。まぁ、実際に飛び込んでも泳げるので意味ないですが。
『キュー』
「あっ……」
ふとまたイルカの声が聞こえた気がしました。思わず数歩前に進みましたが、そこは急に深くなっていたのです。
「っ」
この島に来て何度目の入水でしょう。またしても服がびしょびしょになり身体に纏わりついてきます。ワンピースよりはマシですがやはり泳ぎにくいです。手こずっているうちにまた沖へ流され始めました。離岸流です。
「わっぷっ!?」
一瞬パニックになりかけましたが、こういう時こそ落ち着いて浮くことを優先します。丁シャツの襟をぎゅっと絞り、中に空気を含ませて浮き代わりにします。これでしばらくは大丈夫でしょう。
『キュー、キュー』
「あっ」
そこへイルカが二頭現れました。間違いありません。あの娘と一緒にいたイルカ達です。彼らは私の両脇に頭を潜り込ませると浜辺の方へ運んでくれました。
「ヘイッ!!ユー!!ワッアーユードゥイング!?」
「あ、あの時の……」
浜辺にあの娘が居ました。今回は繁華街入り口で会った時と同じイルカに似た色のワンピースを着ています。服はそれしか持っていないのでしょうか?
「えと……あの……」
あいにく翻訳アプリのあるスマホは失くしたままです。強い口調で詰られるのが苦手な私はおどおどするしかありません。けれど心配は無用でした。
「アナタ、昨日も一昨日も会った。ココで何してル?」
なんとこの娘も日本語が通じるみたいです。さっきのお婆さんといい、今日は言葉がわかる人によく会います。
「えっと、うっかり深い所に落ちてしまって……」
「ドウシテ?ココ観光客エニバディノットカミング」
うっかり観光客の来ない廃漁港に入って深みに落ちることがあるのか……彼女は前のめりになって詰問してきます。その透き通るような碧い目は私の心の中を見透かしているみたいでした。そこでつい本音が出てしまいました。
「あなたにもう一度会いたかったの」
「オウ!実ハワタシも会イタカッタデス」
「そ、そうなの?」
「ソウデス。願イ叶いマシタネ?」
そう言って笑うので私もつられて笑ってしまいました。この島に来て初めては笑った気がします。
「ワタシ、フィオナ・ズーラリア。フィオって呼ンデ。アナタハ?」
「重間七海。七海がファーストネームで重間はファミリーネームよ」
「ナツミだネ?ヨロシク!」
「うん、よろしく!」
蒼い海を背景に彼女と手を取り合ったその時、私とその女の子……フィオは一生の友達になるような予感がしました。そこへ『キューキュー』と囀りながらイルカ達が近寄ってきます。『僕たちも紹介して』っと言っているように聞こえました。
「オウ!オーケー グッドボーイズ!ナツミ、ワタシのパートナーを紹介スルネ!コノ子がマルコ、コノ子はレオン!」
『キュー!』
『キュイッ!』
「……レオンにマルコね。昨日もさっきもありがとう!」
二頭は私に挨拶するように囀っていたので、私もしゃがんで彼らの頭や胸鰭を撫でます。背びれは触りません。慣れてないうちにそこを触ると敵と認識される恐れがあるからです。
ただそれでイルカの個体が識別できます。ヨットの帆のように立派な背びれを持つのがマルコで、曲刀の刃の如くカッコいい背びれを持つのがレオンです。幼い頃に祖母に教えてもらった知識が役に立ちました。
「やっぱり、アナタもイルカが好キネ?」
「うん、大好き。でもどうして?」
「マルコとレオンがスグに懐いテマース。ホントはスッゴク人見知リ」
「そうなんだ……」
野生のイルカは好奇心旺盛ですが基本的に警戒心が高く、特に雄は気性が荒い場合が多いので注意が必要です。レオンとマルコも雄のイルカで警戒心は高いそうですが、私のことは気に入っていただけたようです。
「ソレハソウト ナツミ!昨日、船着き場のオーディエンス!」
「ふぇ?昨日のショーのこと?」
自己紹介を終えてすぐ始まったのはなぜか彼女の説教でした。
「ナツミ、あの中ニ居タ。あの人達ヤラシイ人達!アブナイ!」
「っ!」
後で聞いた話ですが、あのショーに集まる客の中には、主に東南アジアで「買春ツアー」に参加している人もいるそうで、毎回お金でこの島の女性を「買おう」としてくるそうです。
リゾートとして発展したフィンドル島ですが皆が豊かになっているわけではないのでしょう。それ故、こうしたいかがわしい商売が横行しているのです。
「ナツミ、アノままジャ買ワレテイタ。アブナイ!」
「わっ、私なんて別に……」
貧相な身体で色気のない私が目を付けられるとは思いません。現にさっき失恋したばかりです。けれどフィオは私の肩を掴んで激しく揺さぶります。
「油断、ダメ!自分大事!」
「うっうん。でもあなたこそ……」
「ワタシはショーを見セルダケ。人間の雄はお断りデース」
フィオは不敵な笑みでそう言うと朽ちた漁船のところへ行き、その陰から古いゴムボートを引っ張り出しました。見た感じ継ぎ接ぎだらけですが使えそうです。彼女がそれを波打ち際へズリズリ引きずって来るので、私も駆けつけて一緒に運びます。
「アリガトウ、アナタ日本から?」
「ええ、そうよ。旅行できたの」
「オウ、ジャパァン!神秘ノ国!」
彼女がパッと目を輝かせています。
「日本に興味があるの?」
「イエス!ワタシ日本興味アル!だからエマに日本語習っタ」」
「エマって?」
「ワタシの同居人」
「フィオ!少シハ手伝わんカイッ!」
「うぇあ!?」
噂をすればなんとやら、後ろから怒鳴る音が聞こえます。びっくりして後ろを振り返ると年配の女性がこちらに歩いてきていました。手には大きな買い物袋を持っています。
「遅イヨ、エマ!」
「アンタが先に行クカラダロウ?」
「あなたは!?」
「オヤ、誰カト思エバ、日本のお嬢チャンじゃナイカ」
その人は午前中、ホテルのロビーで会った清掃員のお婆さんでした。今は清掃用のツナギを着ておらず、イルカ色の丁シャツと短パンといういで立ちです。フィオが言っていた同居人は彼女のようです。フィオは目をぱちくりして私とお婆さんを見比べます。
「ナツミ、エマと知リ合イダッタノデスカ?」
「宿泊先のホテルで知り合いになったの。エマさん、改めて先ほどは貴重な話をありがとうございました」
「エマでイイヨ。ナツミが君ノ名前ダネ?ドウイタシマシテ」
ボートに買い物袋を入れると、浅瀬まで押してフィオとエマの二人が乗り込みます。いよいよお別れかなと思っていると、彼女らは私に振り返って手招きをしてきました。
「コレカラホームへ帰ッテ、ランチタイムだケド来るカイ?」
「ランチトゥゲザー!」」
「え?そんなの悪いわよ」
助けてもらったのに、これ以上厄介になるわけにはいきません。両手と首を振る私ですが、そこでタイミングよくおなかがくぅと鳴りました。そういえばお昼を食べずに飛び出して来たのを思い出します。
「フフッ、遠慮、謙遜、ヤッパリ日本人ダネ」
「ワタシ、日本ノ話聞きターイ。ドウカオネガイシマス」
「……わかったわ、お邪魔させていただきます」
これほど真剣に誘われたら断るのも悪いです。それに島の住民の生活にも興味がありました。最終的に私は頭を下げて彼女らの厄介になる事にしたのです。すると彼女は「礼儀正シイ、ヤッパリ日本人!」と言って喜んだのでした。