4話 イルカと島の伝説
※伝承はフィクションです。
翌朝、私は酷く朝寝坊をしてしまい先輩達を待たせてしまいました。扉の隙間越しに平謝りする私に翔先輩は「別に予定は詰まってないから大丈夫だよ」と言ってくれました。蓮子姉さんも優しい声で「明日は出発だから気を付けてね」とだけ言いました。
「今日も私たちは観光とかビーチとかに行くつもりだけど七海はどうする?」
「今日はホテルにいる……勉強もしなきゃだし」
昨日のことがあって元気がなかった私は断りました。唯一のおしゃれ着を台無しにしてしまったこともあります。因みに今日の蓮子姉さんは昨日着ていたのとは違うコーディネートでした。本当におしゃれな方なんです。
「そっか……じゃあ、ゆっくりしててね。お昼ごろには帰ってくると思うから。行きましょ翔君?」
「お、おう……」
蓮子姉さんは翔先輩を連れて行ってしまいました。一人残された私でしたが勉強する気にはなれませんでした。ユニクロの安物丁シャツと短パンに着替えて、昨日資料館で貰ったパンフレットを片手にホテルのロビーに下ります。そこに置かれているベンチに腰掛けました。
「ふう……」
ぼんやり坐りながらパンフレットを開き、イルカの写真をひたすら眺めます。とっても可愛いです。背後には天然の石の壁が嵌めこまれていて、滝状の噴水が半透明のヴェールの如く流れていて、とても心地いいです。
「ナンカ悲しい事ががアッタネ?」
「ひゃっ!?」
その時、突然横から片言の日本語で話しかけられて私は飛び上がりました。隣を見るといつの間にか島民と思しきお婆さんが座っております。服装からしてここの清掃員のようです。お婆さんは人懐っこい顔で私に微笑みかけました。
「アナタ、日本人ダネ?ワタシの母日本語教わっタ」
「そうなんですか?」
その昔私の国が戦争に負ける前、南方の島々を統治下に置いていたと聞いたことがありますが、この島もそうだったようです。言葉が通じる安ど感からか、私は事情をお婆さんに話しました。
「ソンナことがアッタノ」
「祖母からもらった大事なものだったんです……」
「ケレド人モ物モ、別レガアレバ出会いモアル。イツマデモ引きずっちゃーイケナイヨ」
お婆さんは私の手元のパンフレットを見て聞きました。
「イルカ、スキ?」
「え?ああ、はい!小さい頃はよく水族館に行ったり話を聞いたりしてしました」
「ナラ面白イ話してアゲル」
お婆さんが話してくれたのはこの島フィンドルに住む人々とイルカ達の深い関係でした。その昔、イルカは人間の前世の姿と信じていたらしく、人々は家族の一員として一緒に泳いだり魚を捕ったりして暮らしていたそうです。
「面白いモノを見せてアゲルヨ」
「面白いもの?」
「ああ、ホンノついでサ」
そう言うとお婆さんはポケットから取り出した器具で足元にある金属の蓋を開き、奥にあるバルブを捻ります。すると滝状の噴水の水が止まり、天然の岩の壁の表面が見えるようになりました。長靴を履いている彼女はそのままため池にずかずかと入っていきます。
「コッチ来て見テゴラン」
「あ、はい」
私はお婆さんの手招きに応じ、サンダルを脱いで素足でため池に入りました。水がとても冷たいです。そしてバシャバシャと壁の近くまで歩いていき、彼女が指さす一点を除き込みました。
「イルカと遊ぶ女の子?」
そこに小さく彫られていたのはイルカと戯れる裸の人間の壁画でした。古い時代の物らしく、かなり抽象的な描画ですが辛うじて若い女性であることがわかります。
「イルカの嫁だヨ」
「イルカの嫁?」
「ソウ、アナタくらいノ女の子ガイルカと深い仲にナル事」
それは人とイルカの種を越えた禁断の恋の物語でした。似たような伝承はアマゾン流域にもあります。しかしこのような話はさっきの資料館では触れられていませんでしたし、解説役をしていた島民も知らないようでした。
「デモ白い人来テカラ変ワッタ」
白い人……つまり西洋の植民地になってからは島の文化様式が変わり、現代のようにイルカとあまり触れあわない生活になったそうです。お婆さんは寂しそうに言いました。
「今ハモウ、イルカと触れ合ウ者ハ居ナイ」
「でっでも私見たんです。この島の女の子が裸でイルカと遊んでいるところを……」
私はつい前のめりになっていました。お婆さんは少したじろぎながらも私の顔をじっと見つめ返してきました。あの娘と同じ海のような碧い瞳でした。
「ヒョットシタラ仲良くナレルかもシレナイ」
「へっ?」
「アナタナラ、キット」
お婆さんはブラシを手に取ると『もう話すことは何もない』とばかりに噴水の掃除をし始めました。私は邪魔しては悪いと思い一言「ありがとうございました!」と礼を言ってため池から上がり、濡れた足のままサンダルを履きました。
少し元気が出たので私は自室に戻り、勉強に励みました。勉強の合間、あの碧い瞳をした褐色の女の子を思い出していました。
「また会えるかな?」
そうこうしているうちにお昼になり、先輩達が帰ってくる時間が近づいたので、私は出迎えようとロビーに降りることにしました。今朝あれだけ心配させてしまったことを申し訳なく思ったからです。もしビーチに行けた時のことを考えて水着を下に着込み、噴水前のベンチに座って待っていると先輩達が帰ってきました。
「うふふ、楽しかったわね?」
「ああ、そうだな蓮子」
その二人はとても仲良しそうに、腕を組んで歩いています……。声をかけようとしていた私はとっさにベンチ脇の小机に置いてあった新聞を広げて隠れました。彼らは私に気付かずに受付から部屋の鍵を受け取り、エレベーターへ向かっております。
「今夜も……いいかい?」
「ふふっ、いいわ」
二人が口づけをした瞬間にエレベーターのドアが閉まりました。
「……」
不思議と怒りはありません。頭がぼうっとして、空を飛んでいるような感覚です。持っていた新聞を元の場所に戻すと、私は自室の鍵を受付に預け、そのままホテルの外へ飛び出しました。
「うぅ……ぐすっ」
走り出したところでようやく目から涙が溢れてきました。時々他の観光客とすれ違いますが、私は隠すこともせず潮風にしょっぱい雫を散らして走りました。
「ひぐっ……ぐすっ……せんぱいの、ばか……」
心の奥底ではわかっていたと思います。彼らは幼馴染同士で、私はあくまで妹分みたいな立ち位置でしたから。結局私なんかが入り込む余地なんて、最初からなかったのです。
私の二年間にわたる青春は海の泡沫の弾けるがごとく終わったのです。