異世界邪神の呼び声
部屋に戻ると、ミキちゃんが大の字になって寝ていた。
ジャージを床に脱ぎ散らかして、ランニングシャツにステテコという、昭和のオヤジの風呂上り風の恰好である。
一応は今、若い女性の間で流行している夏の普段着なんだそうだけど。
ミキちゃんは僕の帰宅に気付いたようで
「うおさん、おかえり」
と上半身を起こして目を擦った。
「ちょっと休ませてもらってた」
「いいよ。寝てても」と僕は、手に持った室住ロールの箱を掲げて見せる。
「スイカの代わりに買って来た。これは夜にでも食べようか? 非番だったらだけど」
◇
ミキちゃんは、さっき急に僕の部屋に姿を現して、緊急出動したばかりである。
「師匠から動員がかかった」
と大慌てで。
師匠という人物は、厳密に言うとミキちゃんの上役(上級神)ではない。
引退して悠々自適の龍神なのだそうで、今では気が向いた時に若手有望株へ稽古を付けるという、顧問とか指南役という方が相応しい役回りだ。
その指南役の加持さんという老龍神に、なぜかミキちゃんは可愛がられていて、彼女が正義の超人 ミスリル・ボーイ(笑)のバイトを貰えたのも、加持さんの口利きあってのことだとか。
「客が来るんで、適当なお茶うけが欲しいんだって」
えらく急いでいるミキちゃんに「スイカなら有るよ。植木産」と、ツヤツヤとした上玉を渡した。
スイカがお茶うけの範疇に入るかどうかは議論の余地があるだろうが、もてなしの水菓子として不足は無かろう。
僕自身の目論見としては今夜のお楽しみ用だったのだけれど、ミキちゃんの師匠の要請とあらば妹分の顔を立てるためだ、仕方がない。
「うおさん、感謝!」
スイカを手に喜ぶミキちゃんだが
「この前のニセ貴腐ワイン、残ってる?」
と意外な追加注文がきた。
「無いけど作れるよ」と僕は、流しの下から安ワインのボトルを取り出す。
それに加えて、ハチミツの瓶と味醂も。
「5分、いや3分を僕に下さい」
◇
「夜まで待てない」
とミキちゃんは正座。
「チャンスは前髪をつかめ、って言うからね」
「後ろ頭はハゲている、か」
正義の味方の勤務時間は不規則である。
僕は彼女のためにコーヒーを淹れた。
「師匠からの緊急の件は、もうオール・オーバ―?」
「状況継続中なんだけど」
ミキちゃんは切り分けたロールケーキを嬉しそうに口に運ぶと
「席を外せ、って目配せされたから、私にとっては状況終了」
と目を瞑って口福を味わった。
「状況は継続中か」と、僕も一切れ取り皿に確保する。
手を出さずにいたら、彼女、まるまる独り占めしてしまいそうな勢いだったから。
「込み入った案件なの?」
「込み入った、というよりも」と彼女は口の中をブラックコーヒーで一度サッパリさせると
「微妙な案件と言ったらいいのかな。自分が管狐持ちじゃないかと悩んでいる女の人を、そうじゃないよと納得させるミッション。いわば憑き物落としで、インベーダーとか異世界邪神とかは関係ないハナシだったよ」
と二切れ目へ取り掛かった。
「なるほどねぇ。そんな仕事もあるんだ」
◇
実のところ、クトゥルフの脅威は急角度で低下している。
それというのも音=音波に関する自然科学的知見が増えたことにより――ある意味皮肉にも――LRADをはじめ非殺傷型の音響兵器が発達することとなったのだが、更に皮肉なことに、この音響兵器が邪神撃退に一役買うどころか大活躍。
クトゥルフの最大の武器は『叫び』もしくは『呼び声』と呼ばれる音波攻撃だった。
『叫び』を浴びることにより、ヒトは聴覚器官や脳にダメージを受け、判断力や行動力を喪失する。
しかし『叫び』と干渉し合う音波で『叫び』の波動を迎撃すれば、クトゥルフは最大の武器を失う。
しかも雑音を消すイヤホン――ノイズキャンセリングイヤホン――が一万円以下で購入できる現在では、個人装備としてノイズキャンセリングイヤホンを持つことが出来る。
異世界邪神は昔ほど怖い存在ではなくなってしまった、というわけだ。
加えて、クトゥルフ以外にも「音や気配でニンゲンをビビらせる物の怪」という存在は数多いたのだけれど、それら(彼ら)の技も、実質無力化させられた。
もともと都会の騒音の中では微妙な気配や音というヤツは感じ取りにくいが、『ノイズキャンセリング』されてしまえば、更に相手に気付かせることは困難を極める。
絶滅危惧種だったモノの中には、既に危惧ではなく絶滅済になってしまった例も多かろう。
ただし「悪意に満ちた流言飛語」や「事実無根の嫌な噂」と、ネットやSNSの中で、姿を変えて生き延びている物の怪も居そうではあるが。