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避難訓練周知のチラシ

 帰宅してアパートの郵便受けを開けると

『××××保育園 夜間避難訓練および件送りのお知らせ』

と書かれたチラシが入っていた。


 ダンナと愚息ぐそくどころか恋人もいないオールドミズだから、なんのこっちゃ? と流し読みしてみると、どうも近所にあるらしき保育園で避難訓練が予定されているらしい。

 営業所長代理として赴任してきたばかりで周囲の地理にはうとく、くだんの保育園がどこに在るのかはつまびらかではない。


 そして珍しいことに、実施予定が深夜2時から、となっていた。


 ただし『昨今の地震や風水害による緊急避難が夜間、それも深夜・未明に行わざるを得ないことが多発している事実をかんがみて』と硬めの文章で納得の理由が添付されている。


 まあ確かに、と頷かざるを得ない説明である。


 仮に何かの緊急事態が起きて、む無く夜中に避難ということにでもなれば未就学児は、いや小学生であっても、そうとうにパニック状態を来すであろう。

 あらかじめ訓練を行って、深夜移動の雰囲気など味わっておけば、少しは実際時の対処の役に立つのは間違いない。


「へー。今夜じゃん」


 パックご飯と冷凍餃子とをレンチンしながら缶ビールのプルタブを引き、もう一度実施日時を読み返すと、およそ4時間後に子供たちがゾロゾロ表の市道を通過するもよう。


 けれど一度寝入ってしまえば目覚ましが鳴り出すまでは目が覚めない性質たちなので、興奮した子供が奇声をあげても平気で寝ている自信がある。

 普段なら、珍走団とパトカーが激烈チェイスしていても気にもしないくらいなので。


 食器を片付けシャワーを浴びると

「深夜勤務に駆り出される付き添いの先生や保護者さんたちには申し訳ないが」

と髪を乾かし、早々にベッドにもぐってテレビを点けた。


 何時もであれば、深夜枠のバラエティなぞ眺めている内にウトウトと寝落ちしてしまうのだけど、今夜ばかりは何故なぜかチラシの件が妙に頭をよぎって寝付けない。


――それにしても先生はともかく、明日も仕事が詰まっているであろう保護者さんは、職場に何と説明して訓練に参加してるんだろう?


 今日日きょうびは育児休暇なんて制度も普及しているぐらいだから、子供の避難訓練なんかには有給休暇が問題無しに取得できるんだろうか。あるいはむしろ奨励されているとか。

「市政だより」なんかを読んでいれば、保護者の方々も積極的な参加を、みたいな公的アナウンスに目が付いていたかも知れないけれど……。


 寝そびれた思いでモゾモゾとベッドから這い出し、電気ケトルで湯を沸かす。


――仕方がない。カフェインレスのインスタントコーヒーで一服し、稚児行列の通過を待つか。


「こんな時間にクッキーなんか食べた日には、吹き出物が出ちゃうじゃないか」

などと下らない独り言を口にして、取って置きの焼き海苔の缶をあける。


 香りの良い海苔をツマミに熱いコーヒーをチビチビり、キャンプ番組の再放送なんかを眺めて時間を潰していたら、デジタル時計が「01:50」を刻んだ。


「そろそろか」と呟いてテレビと部屋の電気を落とし、カーテンを開いて窓を開ける。


 念のために明かりを消したのは、こちらが行列見物しているのを、子供たちに悟られないため。


 周知というかお断りのチラシを配布しているくらいだから、別に見物していて文句を言われることもないだろうけど、見物人に気付いた子供がいたら無駄にはしゃいでしまうかもしれない。

 そうなったら付き添いの先生たちも「夜なんだから静かにね」などと子供たちに小言を言わなくちゃならなくなるわけで、余計な手間暇てまひま・心労をかけたくはない、という気配りだ。


 空には雲も無く、完全無欠な満月には微妙に足りない月が煌々と輝いており、アパートの二階から通りを見下ろすには充分な明るさ。風は無い。

 気温は暑くもなく寒くもなくといった感じで――変な言い方だが――絶好の避難訓練見物日和。


 部屋を暗くしているから、シルエットでなら窓際に座っているのはバレないだろうけど、白いパジャマのままでは月明りに照らされて道から見えてしまうかも知れない。

「我ながらバカみたいだねぇ」などとひとちて、念のために上下黒のスウエットに着替えておく。



 初め、遥か遠くに姿を現したのは、竿先に高張提灯たかはりじょうちんをかざした先導。

 いや、正確に言うと夜空に淡く灯ったボンヤリした明かり。

 で、ヒトダマか! と、ちょっとだけビビった。


 月明りがあるとはいえ、虚空にゆらゆら揺れる提灯の灯りは目立つから先に気がついたというわけで、粛々と行列が近づいて来るのも次第に分かってきた次第。

 LEDの電灯などではなく淡い提灯火なのは、自分の位置を子供たちや参加者に示すだけで良いという配慮の結果なのだろう。

 下手に周囲の屋内などまで照らしてしまうと、私権侵害であるとかクレームをつける住民だっているだろうからね。


 しかし単三電池二本を入れるタイプの電池式小型ランタンでも良いだろうに、光源に揺らぎが見えて間違いなく蝋燭を使っているのが分り、クラシカルなおもむきがあるのは確か。

 歴史の深い土地柄だし、地域の風習であるとか昔の祭りの名残なごりとかなのだろうか。


 けれど先導の姿がハッキリするにしたがって、背中に薄ら寒いものが走った。


 竿竹を握っている人物が、蓑笠みのかさという高張提灯に「時代的な面だけ見れば相応しい」というか、あるいは「いや、その組み合わせは無いだろう」と非難したくなるような、あまりにクラシカル過ぎる装束だったから。


――高張提灯を持つならば蓑笠ではなく、中間ちゅうげん折助おりすけふんしてやっこ姿であるべきだろうに……。


 近づくまで先導役の姿が曖昧模糊あいまいもことしていたのは、蓑笠姿が――狙撃兵のギリ―スーツと同じ効果で――人物のシルエットを目立たなくさせる効果をもたらしていたのだ。


 こうなると、夜の提灯いとをかし、などと気取ってはいられない。

 これ、暗闇祭りなんかと同じく、沿道の住民は見物してはいけない行列なんじゃないのか?


 カーテンを閉めて部屋の奥に引っ込むか、とも考えたが、暗中で存在を目立たせるのは下手に動いた場合に起こりやすい。

 動かないモノは見過ごされることが多いのだ。

 音を出さない事と動かない事とを徹底すれば、それが所謂いわゆる「気配を消す」ということに繋がる。


 腹をくくって眼球だけを動かし、存在・気配は消すのに注力することにした。

 目をつむっておくか? とも考えたのだが――

 好奇心は猫をも殺す、というね……。



 なんだろう。


 むしろ「下にぃ、下に」と大名行列風の掛け声でもあれば、笑えたかもしれない。


 けれど避難訓練の隊列は、全くの無言だ。


「おしゃべりはしないでね。寝ている人に怒られちゃうから」と、出発前にキツく言い含められているのかも知れないが、保育園児がそんなルールを守っていられるとも思えないし。


 と、……ゾッとした。


 二列に並んだ子供たちは皆、月光に照らされて妙にてらてらした顔をしており「稚児らしく白粉おしろいをはたいているのかな?」と思っていたのだけれど、ようよう見れば張り子か紙粘土製とおぼしき牛のお面をかむっているのか分かったから。


 まるで牛面人身のバケモノ、牛頭鬼ごずきかミノタウロス。

 もしくは……くだんだ。


 付き添いのオトナたちは全員が顔の出ない蓑笠姿で、子供たちは園の制服らしいスモックに牛の顔。


 昼間ならスモックはクラスごとに色とりどりなのだろうが、月明りの下では濃淡の差こそあれ灰色一色にしか見えない。


 この稚児行列には――新参者の偏見かもしれないけれど――確かに妖気とでも呼ぶべき不穏さが漂っている。


 音が出ないよう、注意に注意を重ねて、そっと生唾なまつばを飲み込んだ。


 音は出なかった、いや決して大きな音は立てなかったつもりだったのに、行列の中の牛の顔がいくつか、一斉にこっちをチラリと窺ったような気がした。


 けれど誰ひとり声さえ立てず稚児行列は蕭々と、幽かな”ひたひた”という足音だけを残して眼下の道を通り過ぎてゆく。


 そして呆然とした私と、月明りに照らされた無人の道だけが取り残された。



 終わったか、と窓を閉めて遮光カーテンを引き、ぬるくなった白湯をカップに注ぐ。

 寝苦しくとも、無理にでもベッドの中で目を瞑っていた方が良かったな、と乾いた喉を潤し、「う~ん・ん」と伸びをしたその時――


こん・こん・こん


と三回、入り口ドアが叩かれた。


 こんな時間にチャイムも鳴らさず――ジェントルなタッチではあったが――ドアノック。

 慌てないわけが無い。

 おたおた・わちゃわちゃ、と立ったり座ったり、スマホを手にして震える手で電話帳を開いたり。


――誰に掛ける? 誰にSOSすればいいの?!


 警察か消防署か実家の老父か別れたダンナか営業所の次長か誰誰誰誰だれえ?!!


 しかし通話先が決まる前に、もう一度ドアが三回叩かれると

「もぅし、夜分遅くに失礼いたします」

と扉越しに、あたりをはばかるような落ち着いた声。


 初老の男性、であろうか。


 部屋の灯りは点けてしまったから、遮光カーテンを引いたといっても在宅の気配は漏れている。

 居留守は使えない。

 それに、どうせ稚児行列を見物していたのがバレてしまっているのだろう。


 頭の中では『クソ! どう切り抜ける?!』と混乱が渦巻いているのだが、意に反して口から出たのは

「はい、ただいま。少々お持ちください」

と長年の窓口対応で染みついた、営業ボイス!


 ……仕方がない。


 ドアスコープ越しに外を覗くと、蛍光オレンジの安全ベストにトレーナーの柔和そうなオジサンが、外灯の下にひとり申し訳なさそうに直立している。

(まあ私だってオバサンだが)


 大丈夫そうではあるが、念のためにカプサイシンの熊撃退スプレーを後ろ手に持つと、ドアチェーンは掛けたまま鍵を開けた。


「お待たせしました」

――こんな時間に何の用です?

とは言えなかった。


「クダン様お見送りの、まことに深謝申し上げそうろう


 オジサンは深々と頭を下げると

「これはほんの御礼おんれいの粗品にて」

とドアの隙間からビニール袋を差し込んで来た。

 中には子供のころから見慣れた駄菓子がギュウ詰めになっている。


 訳が分からず「あ、いえ……そんな」などと対応に困っていたら、オジサンはニカッと笑って

仕来しきたりですから、どうぞご遠慮なさらず。出所でどころも町内会費からですから、やましいものではありません」

と、儀式使いらしい候言葉そうろうことばを普段語会話に戻して意外過ぎる説明を。


『仕来り』という濃密な意味合いコミコミの単語に一瞬ピクッと身体が反応しかけたが、続く『町内会費』という日常感丸出しのワードが緊張を解き、乱暴にドアを閉めるような反応はしないで済んだ。

「町内会費、なんですか?」


「ええ。ですから、どうぞ」とオジサンは袋を押し込んでくる。

「クダン送りも見物客は減ってしまってましてね。旧暦皐月きゅうれきさつきの十五夜、うしこくという、まあ社会人には睡眠に充てておかなくては如何いかんともしがたい時間帯でもありまして」


「ああナルホド、しかしそれでも保護者の皆さんは起きてらっしゃいますでしょう?」

と訊いてみると

「ハイ。ただ保護者さんがたは皆さん、行列に参加しておられますから」

との明快な返答。


――そうか! 稚児行列の周囲を固める蓑笠部隊は保護者の仮装か。それに旧暦皐月は入梅していることが多いから雨も降りやすいわけで、雨具着用は合理的だ。

 納得以外の何物でもない。


「それでは遠慮なく」とチェーンを外してドアを開けた。

 チェーンをしたままだと、お菓子を受け取るのにはあまりに失礼な気がしたからだ。


 オジサンは、私が手に持ったままのカプサイシンスプレーに目を遣って

「ご用心の良いことだ。近頃は田舎でも物騒な事件が起きますからな。感心、感心」

と頷き

「それでは失礼いたします」

と階段を降りて行った。



 翌日、出社して古参のパートさんに

「昨日、ちょっとビックリしたことがあって」

と話をしたら

「ああ所長さん。クダン送りは初めてだったかね。それは驚かれましたろぅ」

とクダン送りが何たるかについて説明してくれた。


 なんでも江戸時代の末期ごろ

「津波の来るぞう。早う逃げェ。津波に呑まれるぞう」

と夜中に呼ばわる子供が出たらしい。


 逃げ出す者も多かったが

「海から離れた山里に、なんの津波が来よるものかよ」

と鼻で嗤って無視する者もまた多かった。


 すると突然、地鳴りと共に激しい縦揺れ。

 地震によって裏山が山体崩壊を起こし、里は一瞬の内に『山津波』の下に埋まった。


 津波と聞いて山に逃げた者にも被害は出たが、里に止まった者は誰一人助からなかったという。


 生き残った中に

「地震の予言をした子供は、牛の顔をしておった」

という者があって

「あれはくだんであったのだろう」

ということになり、今にクダン送りの風習が伝わっているのだそうだ。


「それじゃあ、クダンは危険を知らせてくれる良いモノってことですね」

 私は『それでは何故なぜ、クダン”祭り”ではなくクダン”送り”なのだろう?』という疑問は飲み込んで、パソコンを立ち上げ仕事を始めようとした。


 するとパートさんは

「クダンは100パー、凶事を予言するあやかしですけねェ。しかも予言は100パー当たりで、外れることは無し。ホント嫌なことに、慶事を告ぐることは無いんですよぅ」

と薄く笑った。

「やから、クダン役は面を外すまで、何も口をきいたらイカンのですでねェ。厳しく言われるんですよぅ」


――それで『送り』なのか。クダンに口を開かせず、ただただ何事も無く通過のみを願う儀式。


 疑問が氷解し、私は今日の業務に没頭した。



 数日して会社から帰宅する途中、古い書店に立ち寄ると、クダン送りの日に駄菓子をくれたオジサンがレジ奥に座っていた。


 先日はどうも、と挨拶するとオジサンは店主兼町内会の世話役らしいことが分った。


 オジサンは笑いながら、私が探しに入った郷土史のハードカバーを取り出すと

「あの後、子供たちの中に『生首が浮いてた』とか『生首女が見てた』とかうわさする馬鹿者がおって」

と渡してくれた。

貴女あなたの事だと思うんだが。確かあの日、黒の上下を着ておられましたろう?」


 私は苦笑して「黒魔術じゃない方のブラックマジック、ですね」と背表紙の日焼けした本を受け取った。

「黒背景に黒い服だと、顔だけが浮いて見えるという古くからある手品」


「それそれ」とオジサンは噴き出しながら頷いて

「この本、買おうという者がおらんで、長いこと店晒たなざらしになっとった本だから、半額で良いですよ」

とオマケしてくれた。



 帰宅して即、シャワーを浴び、冷凍ペペロンチーノと冷凍枝豆をレンジに入れる。


 持ち帰り仕事は後回しにして缶ビールを開け、買って来た郷土史を開いた。


 目次を頼りに、ざっと土地の祭りや神社の由来などを拾い読みするが、クダン送りについての記述は見つからない。

 腰を据えて一冊まるまる読み込まないと、見つけることが出来ないほど小さなボリュームでしか書かれてないのか。


――あるいは、本に書いてはいけない禁忌タブー扱いなのか……。


 考え込んでいたところで、ドアチャイムが「ビーッ・ビーッ」と電子音を立てた。


 通販の配達の予定はないはずだけど、とドアスコープを覗くと珍しや、どのツラ下げてやってきたものやら、別れたダンナが立っている。

 それも右肩にゴルフバッグ、左肩に沖釣り用の大型クーラーボックスをぶら下げるという、どこに何の目的で出掛けたのかも分からないような恰好で。


 昔は自分にはモッタイナイくらい優しくてイイ男だと思っていたものだが、外に女を作って出て行ったクソ野郎だから既に未練は無い。

 慰謝料も財産分与もいらないと早々に離婚調停を成立させ、今はせいせいしている。

 ヤツなら――結果的には――私を追い出すのに成功したあの家で、寝取りクソ女と『暖かで円満な』家庭を築いているはずだから、こんな用も無いはずの田舎のアパートに姿を見せるとは……せない。


 なんだか分からんが「よりを戻したい」とでも泣きついてくる心算つもりか。


 まあ、あの寝取りクソ女は間違い無くしたたかな悪党だから、甘ちゃんの元ダンナなど赤子の手を捻るような容易さで、家も財産も身ぐるみ剥がれて叩き出されたという可能性なら……無きにしもあらず。

 唯一自分の物として手元に残ったのが、ゴルフ用品と釣り道具だったとか。


 想像が当たっていれば可哀想ともいえるけど、既に他人ごと。私の知ったこっちゃない。

 悪女に騙される中年男など、世の中には掃いて捨てるほどあるハナシだ。


「帰って」

 ドア越しに明確に、たった一言だけ告げた。

 長い話はしたくないし、愚痴や泣き言など聞きたくもない。


「開ケテクレ。開ケテクレヨォ」


 元ダンナは、壊れたロボットのような妙に感情が抜け落ちた声で懇願してきた。


 そして……ガチャン、ドスッと、重い物を床に落とす音も。

 担いでいたゴルフバッグとクーラーボックスとを、廊下に下ろしたのか。


「開ケテクレヨォ。頼ムヨォ」


 周囲の目、というものがある。

 ダンナは私に愚痴をこぼしたり泣き言を言ったりした後、家に帰るなり他所に行くなりすることが出来るが、私にとっては今や『ここ』が居場所。マイホームなのだ。


 明日から近所の住人の白い目やら好奇心に満ちた目に晒されてはかなわない。

 ドア越しに、もう一度「お願い。頼むから帰って」と言ってみたが……

 まあアタリマエか。相手は私の願いなど聞き入れる気がさらさら無いらしい。


「顔ダケデモ、見セテクレヨォ。会イタイ、会イタイ」

と、駄々っ子のように聞き分けがない。


 正直気持ち悪いと思ったし、今でも腹が立つことこの上なしの男だけれど、夫婦として暮らしたこともある相手である。

 多少の『情』が残っていないわけではない。


――顔くらいなら、見せてやるか。それで帰ってくれるなら、ここで粘られるよりもマシ。


 ドアチェーンを掛け、その代わりに鍵を開けた。

 隙間からでも顔だけなら、満足いくまで充分に見れるだろう。


 と! ドアの隙間に、ガシッと足が差し込まれた。

 二度と絶対に扉を閉じさせない、というダンナの強固な意志と……狂気とが感じられた。


 けれど不審な訪問者への対応に関しては、クダン送りの夜にパニックを経験してから念入りにシミュレーションを行っている。


 ドアチェーンは、ラグビー選手や相撲取りの全力体当たりにもびくともしない強度の物に取り換えたから、優男やさおとこのダンナごときでは簡単には破れない。

 大ぶりな番線カッターを使ったとしても、時間は稼げるはずだ。

 余裕を持って奥に退き、スマホで110番をコールした。


「ええ。自宅で。ハイ、別れた元夫が。はい、ドアチェーンは掛けているのですが。ええ、扉には足を入れられてて鍵は掛けられません」


 警察は直ぐに来てくれる。

 ダンナは逮捕されるだろうが、自業自得。

 ハンマーでダンナの爪先を攻撃してみるか、とも考えたが、足をこじ入れてくるくらいだから鉄板入りの安全靴を履いているかもしれない。


 それにダンナの爪先を潰して足を引っ込めさせたとしたら、たぶん正当防衛は成り立つんだろうけれど、相手が優秀な弁護士を立てて争えば、私の方が過剰防衛で有罪を食らう可能性だって無いわけじゃない。

 くずヤロウほど、被害者偽装は上手い。

 それは離婚調停の時に、嫌になるほど学習させられた。

 こちらからは極力手を出さず――こんなシケた修羅場? に出張って来てくれるお巡りさんには申し訳ないが――ダンナの対処は公権力にゆだねる方が得策もしくは無難だろう。


 念のために防塵マスクとゴーグルを装着し、カーテンと窓とを開ける。

 最悪、警察の到着前にダンナがドアを突破した場合、カプサイシンスプレーで迎撃するためだ。


 スプレーの説明書を読んでみたときに、閉所で使用した場合には使用対象がダメージを受けるのは勿論だが、使用者側にも影響が出るらしい。

 そりゃ、熊をも”たじろがせる”刺激性のミストが放出させるのだから、使用者側だって目の痛みや呼吸器に影響が出ないはずがない。


 ダンナに目潰しを食らわせても、こっちも一緒に参ってしまえば逃げ出すチャンスをみすみす逃がしてしまうことになる。

 ゴーグルとマスクは、そうならないための保険だ。

 保険を使わないで済めば、それに越したことはないのだけれど。



 こちらが電話したり防具を身に着けている間に、ダンナは強行突破のために奥の手を繰り出してきていた。


 バッテリー式の電動金切り鋸。


 ちゅいーん・ギギギギ・じゃあっじゃあっ・ジジジ・ジャッジャッ・ぎー


 変な音がする! と思って玄関に向かうと、ドアの隙間はジャッキで限界まで広げられ、なおかつピンと張ったチェーンに押し当てられた金切り鋸が火花を散らしている。


 ダンナの荷物は、クソ女に取り上げられなかった財産の残余などではなく、工具類だったようだ。


 笑っている場合などではないんだけれど、用意が良いこと、と少しだけ感心した。

 クソ女と共同生活を送るうちに、ダンナもちょっとは賢くなったとみえる。


「モウスグ開クヨゥ」

 ダンナが壊れたオモチャのように笑った。


「モウスグ会エルヨゥ」


 来るなら来てみろ。

 口には出さなかったが、私は右手にスプレー缶、左手に大ぶりのフライパンを構えた。


 フライパンの代わりに出刃包丁という選択肢もあったのだが、威嚇なら出来ても実際に切り付けるのは――人間相手にやった経験も無いし――生理的に難しかろう。

 その点、フライパンなら楯に出来るし、いざとなったら鈍器にもなる。

 切ったり刺したりするよりは、殴るほうがまだ抵抗感が少ないような気がする。


「ソォラ、開イタ」

 ダンナが腑抜けたように息を吐き、電動工具の音が止んだ。


 知らないうちに、バッテリー式鋸の進歩にも著しいものがあるらしい。

 最高級ダイヤモンド刃というヤツなのか、強化したはずのチェーンすら突破されてしまったようだ。


 ただし時間を稼ぐ効果はちゃんと果たされたようで、ようやく開け放っていた窓から近づいて来るサイレンが聞こえた。意外なほど近い。

 電鋸の音がうるさくて、あるいはチェーン切断の音に私の注意力が奪われて気がつかなかったのか。

 もう少しだ!

 あと少しだけ、時間を稼げれば!


 サイレンは建物の下にまで達し、ダンナは逃げるか、逆にすぐに踏み込んで来るか、と固唾を飲んだが、逃走は頭に無かったようだ。

 片手に電鋸、片手に重そうなレジ袋を持ち「ヒサシブリ~」とヘラヘラ笑み崩れた顔で、嬉しそうに侵入してきた。


 レジ袋は土産みやげ心算つもり

 手土産持って来るくらいなら、電鋸は外に置いておけよ……。なんで手に持ったままなんだよ。


 警察に捕まっても、私相手にだったら示談に持ち込み厳重注意くらいで済ませられると甘く見ているのか?


 しかし、本当に迂闊うかつな男だこと。

 私が唯一気懸りだったのは、電鋸を準備して来たくらいだから、ダンナも『ゴーグルと防塵マスクとを装着しているかも』という点だ。


 けれどニヤケつらには、保護メガネや花粉対策マスクすら付けられていない。

 これなら撃退スプレーで一撃だろう。


「近づかないで。もう警察が来てるんだから。サイレンは聞こえたでしょう」


 念には念を、という思いで大声を出す。

 スピーカーホンに切り替えたスマホは、警察に繋がったままだ。

 電話の先では、指令室に詰めた警官が耳をすませている。

 ここで必殺スプレーをダンナに噴き掛けても、緊急避難と判断してくれるはず。


 しかしダンナはニヤケつらで黙ったまま、手にしたレジ袋をポンとほうってきた。


 投げて攻撃という意図はないようで、単にこちらに袋をよこすだけの行為。


 けれど――

 床に落ちたレジ袋から転がり出たのは――

 寝取りクソ女の、生首。


 断末魔だんまつま形相ぎょうそうで、恨めしそうに眼を剥いている。


「次ハ、オマエ~」


 ダンナは電鋸のスイッチを入れ、再び耳障りなモーター音が響く。


『生首が浮いていたとか生首女が見てたと噂する馬鹿者がおって』

『クダンは100パー、凶事を予言するあやかしですけねェ。しかも予言は100パー当たりで、外れることは無し』


 私の脳裏を、ここ数日のあいだに聞きかじった噂話が駆け巡った。


 クダン送りの子供たちは、このカタストロフを予言していたのか。

 あるいは逆に、クダン役が予言したからこそ、この惨事が起こらなくてはならなくなったのか。


 予言が100%成就するのなら、私は『首を刈られなければ』ならない。

 そんなのは嫌だ!


 わたしは なんら ちゅうちょする ことなく、てにした スプレーを ちかづいてくる ダンナの かおに


 喰らったダンナは咆哮を上げたが、私もスプレー缶の噴射ボタンを押したまま負けないくらいの大声で叫んでいた。


 ダンナは火だるま役のスタントマンのように、両手を広げて身体をぐるぐると回転させると、絶叫したまま開いた窓の方へよろけ、顔を掻きむしりながら、落ちた。


 同時に「大丈夫ですか?!」と叫びながら突入してきた巡査が、カプサイシンの刺激にき込んだ。


 私は安堵の余り腰が抜け

「ええ、なんとか」

と床にへたり込んだ。


 そして、どうにか脚を動かし、足元に転がっていたクソ女の顔を蹴り飛ばすと

「これ、なんとかしてもらえますか」

と、咳き込んだままの警官に懇願した。



 窓から落ちたダンナはくびが折れて死んでいたが、私は何の罪にも問われなかった。


 当然といえば当然で、ダンナは既に一人殺していたし、私を二人目にしようとしていた意図は、スマホの中継を通じて警察が把握していたのだから。


 また『クダン様の予言』は、ダンナがクソ女を『生首』にしていた時点で成就していたわけで、私がその後、なんらかの危機的状況に陥ることは無かった。


 また不幸中の幸いとでも言うべきか

――仕事も辞めて、どこか誰も私を知らない遠い土地に引っ越すしかないな

と諦め混じりで求人サイトを眺めたりしていたのだが、今の職場では暖かく皆に受け入れられたままで、アパートに住み難くなることも無かった。


 職場の皆も、アパートの他の住民も、加えて書店のオジサンや地元警察にまで一様いちよう

「まあ良うございましたな。クダン様の予言が他所よそにズレて」

としか言われなかったから。

「クダン様の予言は、100パー当たりですけねェ」


 私はもう、この土地から離れられられないのかもしれない。


 けれど、クダン送りの行列は、二度と観ない。


                         おしまい

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