表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「お母様は悪役令嬢」  作者: 輝く泥だんご
97/113

第94話 『本質の否定』

 利帝国の帝都、その心臓部に位置する宮殿の最奥。

 

 淵晶帝の執務室は、彼女の精神性を映したかのように、華美な装飾を一切排した、静謐で機能的な空間だった。壁一面に広がる巨大な情報スクリーンだけが、絶えず帝国全土の状況を映し出し、この部屋が帝国の最高意思決定機関であることを示している。

そのスクリーンに、今、一つの情報が表示されていた。


『情報源不明、信憑性レベルC。対象:醉妖花。関連キーワード:探し人、ローラ。備考:現在、行動を共にしている可能性あり』


 数日前、帝国の深層情報ネットワークに、まるで幻のように現れては消えた、断片的な情

報。淵晶帝は、その情報の前に、もう何時間も佇んでいた。彼女の表情は、いつもと変わらぬ冷静沈着な仮面で覆われているが、その奥で、嫉妬と焦燥の黒い炎が静かに燃え上がっていることを、近衛として控えるアイリーンだけが、その研ぎ澄まされた感覚で微かに感じ取っていた。


「…ミントを呼べ」

やがて、淵晶帝は短く、そして有無を言わせぬ響きで命じた。

 

 首席補佐官代理(仮)として、八十八重宇段大天幕から召喚されたミントは、淵晶帝の前に恭しく膝をついていた。その傍らには、アランとバーナードも近衛として控えている。


「面を上げよ、ミント」

淵晶帝の声は、凍てついた水晶のように冷ややかだった。

「単刀直入に問う。我が利帝国は、五大宗教の一つ、Arcane Genesis教との間に、正式な国交がない。これは、帝国の長期的な安全保障において、看過できぬ『脆弱性』であると判断した。汝の意見を聞こう」


 そのあまりにも唐突な議題に、ミントは内心で舌を巻いた。Arcane Genesis教。最大勢力でありながら、その内情は、あの亡霊鏡教と同じく、ほとんど謎に包まれている。 いわば触らぬ神に祟りなしの存在。なぜ、今このタイミングで。

しかし、ミントの表情は変わらない。


「陛下のご慧眼、恐れ入ります。確かに、天花教団の台頭により、五大宗教のパワーバランスは大きく変動しております。この機に、Arcane Genesis教との間に安定した関係を築くことは、帝国の未来にとって有益な選択肢の一つかと存じます」


「うむ」

淵晶帝は、満足げに頷いた。

「ならば、そなたに命ずる。直ちにArcane Genesis教との交渉を開始し、国交を樹立せよ」

「…はっ。しかし、陛下」

ミントは、慎重に言葉を選ぶ。

「Arcane Genesis教は、極度の秘密主義で知られております。我々から一方的に接触を試みても、彼らが交渉のテーブルに着く保証は…」


「そのための『カード』は、既にお主たちが持っているであろう?」

 

 淵晶帝の瞳が、初めてミントを射抜いた。その視線は、全てを見透かすかのように鋭い。

「GoldenRaspberry教…いや、あの『友の会』の者たちが、帝都に無許可で展開している『帝都直通高速転移陣』。あれは、Arcane Genesis教と国交を結び、交易を行っている彼らのためのものであろう?」


 ミントの背中に、冷たい汗が一筋流れた。淵晶帝は、全てを知っている。


「GoldenRaspberry教に取り次がせよ。彼らを仲介役とし、Arcane Genesis教との公式会談の場を設けさせよ。それが、あの者たちが帝都で商いを続けるための『条件』である、と」

それは、命令であり、同時に脅迫でもあった。

「もし、それが叶わぬとあらば…」

淵晶帝は、優雅な仕草で立ち上がると、窓の外に広がる帝都の景色を見下ろした。その視線の先には、夜空を不気味に照らす、転移陣の黄金の光が見える。


「あの、帝都の『調和』を乱す不格好な門は、我が勅命一つで、跡形もなく破棄させることになろう。たとえ、その背後にいるのが、ノキ=シッソ首席補佐官であったとしても、だ」

彼女の言葉には、為政者としての、揺るぎない決意が込められていた。しかし、ミントには、その決意の裏にある、別の感情が透けて見えた。

嫉妬という名の炎は、時に、最も冷静な人間を、最も無謀な行動へと駆り立てる。


「…御意」

ミントは、深く、深く頭を下げた。

「陛下の勅命、このミント、必ずや成し遂げてご覧にいれます」

今、この場で反論することは、火に油を注ぐだけだ。ミントは、即座にそう判断した。まずはこの勅命を受け、大天幕に戻り、対策を練るしかない。


 ミントが退出した後、執務室には、淵晶帝と、控えるアイリーンたちだけが残された。

淵晶帝は、再び情報スクリーンに映る、醉妖花様の肖像画へと視線を戻した。その横顔は、先ほどまでの冷徹な統治者のそれではなく、愛しい人を想い、そして、その隣にいる見えざる影に、静かな憎悪を燃やす、一人の女の顔をしていた。

 利帝国の、そして五大宗教の運命を左右する、新たな外交戦の火蓋が、一人の女帝の、歪んだ恋心によって、今、静かに切って落とされた。


帝都直通高速転移陣の制御室。


 その黄金と宝石で彩られた空間で、ドミニエフは旗艦の艦長席にも似た豪奢な椅子に深く腰掛け、ホログラムスクリーンに表示された通信記録を、冷徹なトレーダーの目で見つめていた。ミントから伝えられた、淵晶帝からの勅命の概要。それは、彼にとって新たな「市場」が開かれたことを意味していた。


「…リチェード、ロドニー彡 ⌒ ミ✨」

ドミニエフの声は、熱狂ではなく、極度の集中によって研ぎ澄まされていた。

「淵晶帝が、動いた。我々を仲介役に、Arcane Genesis教との交渉を望んでいる。これは、我々の存在と、この転移陣の価値を、帝国自らが公式に認めたということだ。我々が投下した『リスク』という名の資本が、ついに『公式な権利』という確実なリターンを生み出したのだ彡 ⌒ ミ✨」


「しかしニキ、相手はあの淵晶帝。我々をただの駒として使い潰すことも厭わないでしょう。リスクが高すぎますぞ彡 ⌒ ミ」

リチェードが、冷静に懸念を述べる。


「その通り彡 ⌒ ミ✨」

ドミニエフは頷いた。

「だからこそ、これは最高の『ゲーム』となり得るのだ。彼女が我々をどう利用しようとしているのか、その真意を正確に読み解き、逆にこちらが主導権を握る。そのための戦略を、今から構築する彡 ⌒ ミ✨」


その時、ドミニエフの正面のスクリーンに、何の前触れもなく、ノイズの少ないクリアな通信回線が開かれた。ノキ=シッソ首席補佐官からだった。


「…ドミニエフ会長。ミントより、淵晶帝からの勅命に関する報告を受けました」

画面の向こうのノキは、背景も映らないニュートラルな空間から、ただ事務的に用件を切り出した。その表情に、感情の起伏は見て取れない。


「首席補佐官殿。ご連絡、感謝いたします。これも全て、貴殿が我々に与えてくださった『機会』。有効に活用させていただく所存ですぞ彡 ⌒ ミ✨」

ドミニエフもまた、ビジネスライクに応じた。


「結構です。私が注目しているのは、淵晶帝自身のパラメーターの変化です」

ノキの口調は、あくまで淡々としている。

「記録によれば、かの女帝の永久尽界が顕現させる本質は、『待つこと』。長期間の待機によって状況を最適化し、極めて低いリスクで目的を達成する、安定性の高い行動原理です。しかし、今回の勅命は、その本質から逸脱した、極めて衝動的な行動と分析されます。これは、彼女の存在定義そのものが、根底から書き換わりつつあることを示唆しています」


「本質の否定…? それが、それほどまでに重大なことなのですかな?彡 ⌒ ミ」

ロドニーが、純粋な好奇心から問いかける。

「ええ、極めて稀な観測対象です」


ノキの瞳が、初めての光を宿した。

「永久尽界とは、その者の存在そのものを定義する、魂の理。その顕現である本質に逆らう行動は、永久尽界そのものに歪みを生じさせ、ひいては実体の崩壊…『自壊』を意味します」


「しかし、淵晶帝は、天花教という新たな『理』をその身に宿している。自らの永久尽界に、外部の法則を上書きし、その構造を変質させようとしている。この『本質の否定』という現象が、一個体、ひいては組織全体にどのような影響を及ぼすのか。そのプロセスと結果を記録、分析することは、今後の帝国の安定運用、ひいては、我が主の御庭の管理において、非常に有益なデータとなります」

 

 彼の言葉には、個人的な享楽の色は一切ない。ただ、庭師として、庭の生態系に発生した極めて稀な「突然変異」を、冷静に、そして徹底的に観察しようとする、研究者の視点があるだけだった。


「なるほど…首席補佐官殿は、この政変すらも、一つの『ケーススタディ』として観測しておられるわけですな彡 ⌒ ミ✨」

ドミニエフは、ノキの思考を理解し、静かに頷いた。


「ならば、我らもその『観測』を、全力で支援せねばなりますまい。Arcane Genesis教との交渉、引き受けましょう。我々はこの交渉を通じて、我々の利益を確保し、同時に、陛下がどのような『変化』を遂げられるのか、見届けさせていただきますぞ彡 ⌒ ミ✨」


「それは、実に合理的です。では、仲介役の件、正式に委任します。進捗については、随時、ミントに報告を」

ノキは、それだけ言うと、一方的に通信を切った。


 ドミニエフは、通信が切れたスクリーンをしばらく見つめ、そして、リチェードとロドニーへと向き直った。

「聞いたか、諸君。淵晶帝が動き、首席補佐官がそれを観測する。そして、我々はその舞台そのものを設える。これぞ、我らが仕掛ける、究極の『ゲーム』だ。直ちに陛下との謁見を手配せよ。最高の『取引』の始まりだ彡 ⌒ ミ✨」

彼の顔には、もはや哄笑はない。ただ、全てを賭ける勝負師の、静かな闘志だけが燃えていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ