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「お母様は悪役令嬢」  作者: 輝く泥だんご
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第93話 プライマリア・ロジカ

 宇宙の深淵、光さえも道を見失うほどの暗闇に、巨大な水晶の塊が静かに浮遊していた。

その内部は、複雑な光の回廊が幾何学的に交差し、一つの巨大な情報処理生命体を思わせる。ここが、五大宗教の最大勢力、Arcane Genesis教の諜報機関「観測評議会・深層分析局」の本拠地、通称「クロノス・クリスタル」である。


 その深層、通常の分析官ではアクセスすら許可されない、秘匿された永久尽界ネットワーク上の仮想演算空間。


 そこは、物理的な法則が存在しない、純粋な情報の海だった。無数の光のラインが神経回路のように走り、青白い幾何学模様が生成と消滅を繰り返している。ここに集うのは、Arcane Genesis教の中でも、より能動的な『調律』を是とする「介入派」に属する、急進的な思想を持つ者たちの「意識」だった。


”…論理パラダイム、シフト。天花教団の拡大速度は、我々のシミュレーションを37.8%上回る。これは、宇宙的『調和』における許容範囲を超えた『非対称的増殖』である”


 一つの光の集合体――諜報員カサンドラのアバターが、中央に浮かぶ球状のホログラムに向けて、抑揚のない思考パルスを発信した。球体には、天花教団を示す黄金色の領域が、まるで自己増殖する結晶のように、周囲の星系へとその構造を複製していく様がリアルタイムで描画されている。


”評議会の主流派…ヴィクター・フェイザー調査官に代表される『観察』プロトコルは、この増殖を静観するのみ。これは非効率的であり、論理的ではない”

彼女の思考には、非効率な現状に対する、純粋なシステムエラーとしての苛立ちが滲んでいた。


”静観ではない。停滞だ”

 突如、空間全体に、絶対的な響きを持つ思考が直接流れ込んできた。

青白い光のラインが収束し、一体の、白金プラチナの輝きを放つ、完璧な幾何学構造で構成されたアバターが形成される。その姿には一切の無駄がなく、感情というノイズを完全に排した、純粋な論理の結晶体。介入派を束ねるoverranker、プライマリア・ロジカの意識体だった。


”評議会は、未知の変数に対し、計算が完了するまで行動を保留する。だが、その計算自体が、指数関数的に増大する脅威の前では、無意味なループ処理に過ぎん。我々は、新たな『演算』を開始する”


プライマリア・ロジカの思考パルスを受け、カサンドラのアバターが、同意を示すようにわずかに明滅した。

”…と、申されますと?”


”目標システムの、最も脆弱な論理ゲートを特定し、そこへ『トロイの木馬』を送り込む”

 プライマリア・ロジカの思考と同時に、球状のホログラムの表示が切り替わる。そこに浮かび上がったのは、利帝国の新たな統治者、淵晶帝の精密な生態データと、その精神構造をモデル化した複雑なチャートだった。


”この個体、『淵晶帝』。興味深い。ノキ=シッソという高次情報生命体が設計した統治システムにありながら、その行動原理は、醉妖花という特定の『花』に対する、非論理的な執着によってドライブされている。これは、システムにおける明確な『脆弱性』だ”


”天花教団という巨大な情報ネットワークの、マスターアカウント自身が、たった一つのデータに無限ループでアクセスし続けている状態。これほど効率的な攻撃対象はない”


プライマリア・ロジカは、まるで美しい数式を眺めるかのように、淵晶帝のデータを分析する。


”では、我々はこの『淵晶帝』に接触を…?”

カサンドラが、最適解を求めるように問いかける。


”直接的な武力行使は愚策だ。我々の姿を晒すことなく、介入は最小限にとどめる”

プライマリア・ロジカは、カサンドラの思考を訂正した。その言う「最小限の介入」とは、物理的な接触ではなく、より効率的で、痕跡を残さない方法を意味していた。


”真の『調律』とは、対象に自らが調律されていると気づかせず、自らの意志で『正しい音』を奏でさせること。我々がすべきは、彼女の『論理回路』に、ほんの僅かな『偽情報』という名のノイズを注入することだ。彼女が、自らのロジックで、システムに致命的なエラーを引き起こすようにね”


プライマリア・ロジカの思考と同期し、そのアバターの周囲に、いくつかの情報パッケージが光の球となって生成された。


『醉妖花』、『探し人』、『ローラ』、『骸薔薇』。

”カサンドラ、利帝国の深層情報ネットワークに、これらのデータパッケージを『リーク』させろ”


プライマリア・ロジカの思考は、冷たい機械のようだった。

”淵晶帝が、最も渇望し、そして、最も恐れる情報を、まるで『運命的な天啓』であるかのように、彼女の前に提示するのだ”


”例えば…“情報コード:01。対象Z(醉妖花)は、最優先探索対象“探し人”個体名ローラと物理的に接触。現在、行動を共にしている”。あるいは、“情報コード:02。過去データ参照。個体名:骸薔薇は、自らの伴侶に対し、排他的所有権を主張。他個体との関係性を許容しない行動パターンを確認”。これらをな”


”…理解しました。淵晶帝に、『恋敵の存在』という事実と、『独占欲の正当化』という論理を同時に与えるわけですね。彼女の非合理的な感情回路は、この二つの情報によってオーバーフローを起こし、予測不能な行動に出る確率98.2%”


カサンドラは、プライマリア・ロジカの計画の冷徹なまでの合理性を理解し、そのアバターを満足げに明滅させた。


”そうだ。彼女は、自らの恋敵であるローラを排除しようとするだろう。あるいは、醉妖花を自分だけのものにせんと、暴走するかもしれない。そうなれば、天花教団の内部に、修復不可能な『論理矛盾』が生じる。我々は、そのシステムが崩壊していく過程を、ただデータとして観測するだけだ”


プライマリア・ロジカの思考には、計画の成功への絶対的な確信だけがあった。


”直ちに、情報注入シークエンスを開始します”


 カサンドラのアバターは、恭しく明滅すると、他の介入派諜報員たちの意識体へと、無言のデータリンクで指示を飛ばし始めた。静かな情報戦の、その火蓋が切って落とされた瞬間だった。


 その一連のやり取りを、「クロノス・クリスタル」の全く別の階層、享楽的な光と影が戯れるプライベートな仮想空間で、overrankerであるリゼビア・リゼビアが、面白そうに観測していた。彼女の特殊な情報網は、介入派の秘匿された通信すらも、リアルタイムで傍受していたのだ。


 彼女のアバターは、他の者たちとは違い、極めて人間らしい、妖艶な女性の姿をしていた。

”あらあら、プライマリア・ロジカったら、また教科書通りに理詰めで物事を進めて”


 リゼビアは、手元のワイングラスを傾けながら、プライマリア・ロジカの無機質なアバターと、淵晶帝の憂いを帯びた顔を、自身の情報ウィンドウに並べて表示させ、楽しそうに微笑んだ。


”でも、面白いわ。観察派のヴィクター坊やは、美しい『花』を前にして足を止める。でも、介入派のプライマリア・ロジカは、美しい『庭園』の設計図にバグを見つけて、そこから全てをハッキングしようとする。どっちの『調律』が、より美しい『不協和音』を奏でるのかしら”


 彼女は、ワイングラスから指を離すと、ゆったりと仮想空間の椅子にもたれかかった。


”まあ、どちらにしても、退屈はしなさそうね。この宇宙という名の『劇場』の、次の演目が楽しみだわ”

リゼビアの妖艶な思考パルスは、誰に知られることもなく、静かな情報空間に溶けていった。宇宙の勢力図は、各勢力の、そして個人の、様々な思惑と欲望によって、より複雑に、そしてより危険に、その形を変えようとしていた。


「クロノス・クリスタル」の深淵で、新たな情報が、静かに、そして密やかに、利帝国へと向けて送信された。

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