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「お母様は悪役令嬢」  作者: 輝く泥だんご
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第92話 「八十八重宇段大天幕」

 その中枢指令室の空気は、張り詰めた緊張から、多忙を極める日常業務のそれへと静かに移行していた。中央に浮かぶ帝国全域の情報統括ホログラムには、理天楼のインフラネットワークとの間に確立された黄金色の情報ハイウェイが、安定した光を放ち続けている。


 それは、技術的には完全な勝利であり、帝国の未来を数世紀分前倒しにするほどの偉業のはずだった。しかし、「百薬」のメンバーたちは、その偉業に感傷を抱く暇もなく、眼前のコンソールに表示される膨大なタスクに没頭していた。


「サフラン、理天楼側から転送されてくるインフラデータの第一次フィルタリング、進捗はどう?」


 指令室の奥、一段高い場所に設けられた、本来は空席であるはずの席――ノキ=シッソ首席補佐官の執務席に、ミントは腰を下ろしていた。彼女は手元の魔法紙に承認のサインをしながら、落ち着いた声で尋ねる。

 

 ルビークロスでの一件以降、そしてこの塔道築教との接続という重要局面において、ノキ・シッソ本人が表舞台から姿を消しているため、彼の眷属筆頭であるミントが、不本意ながらも「首席補佐官代理(仮)」として、この第十七天幕の全権を臨時に委任されていたのだ。


「はい、ミント代理。現在70%完了です」

サフランは、ミントの役職名を意識的に口にし、淀みなく答える。その指は、休むことなくコンソールの上を滑っていた。



「転送データは膨大ですが、塔道築教のシステム規格は極めて合理的。こちらのフォーマットへの変換作業は、想定よりもスムーズに進んでいます。ただ、いくつかのプロトコルに、我々のシステムとは根本的に異なる思想設計が見られます。当面の互換性に問題はありませんが、長期的な統合を視野に入れるなら、詳細な解析が必要ですね」


「了解。その件は、別途プロジェクトチームを立ち上げましょう。担当はカモミール、あなたに任せてもいいかしら?」

ミントは、別のコンソールに向かうカモミールに声をかける。


「ええ、お任せください、代理」

カモミールは、優雅な手つきでホログラムを操作しながら応えた。

「彼らの設計思想、特に生命維持システムに関する部分は非常に興味深いです。我々の『百薬』としての知見と組み合わせれば、より完璧な環境制御が可能になるかもしれません。…もっとも、その設計思想には、少々『遊び』が足りないように感じますが」


「ふふ、効率の鬼である塔道築教に、それを求めるのは酷というものよ」

ローズマリーが、キーボードを叩く手を止めずに、小さく笑った。


「でもぉ、お部屋がきれいすぎると、なんだか落ち着かないですよねぇ。ちょっとくらい、ぬいぐるみが転がってたり、お菓子が置いてあったりする方が、安心しますぅ」

セージが、自身の机の隅に積み上げられたお菓子の袋を愛おしげに撫でながら言った。その言葉に、張り詰めていた室内の空気が、ふっと和らぐ。


ミントは、そんな部下たちのやり取りに、かすかな笑みを浮かべた。


 この前代未聞のシステム統合は、確かに帝国に多大な利益をもたらすだろう。しかし、同時に、これまでにない膨大な仕事量と、未知の技術に対する責任を、彼女たちにもたらした。

そして、その全ての最終責任が、今は「代理」という仮初めの肩書と共に、自分の双肩にのしかかっている。


ミントは心の中で溜め息をつきながら、次々と届く報告書に目を通していく。


『友の会』からの、転移陣のさらなる出力向上計画案。

馬令上人からの、塔道築教内に設立する天花教寺院の設計図。

帝都の各部門からの、理天楼の技術を利用したインフラ改善計画の申請。

その一つ一つを冷静に査読し、首席補佐官代理として、優先順位をつけ、必要な指示を書き込んでいく。


「ミント代理、少しよろしいですか?」

サフランが、再び声をかけた。その表情は、先ほどまでよりも少しだけ硬い。

「はい、どうぞ」

「塔道築教との接続インターフェースを介した、帝国システム深層部への外部探査パケットを検知しました。送信元は理天楼。彼らの解析システムが、我々のネットワーク構造のスキャンを開始した模様です。そして…そのスキャンによって、八十八重宇段大天幕のシステム内部に、アクセス制限レベルが異常に高い、所属不明のデータ区画が存在することが、彼らに検知されました」


ミントは、一瞬、思考を止めた。


 脳裏に、骸薔薇の時代の、忌まわしい記憶の断片がよぎる。ノキ=シッソが封印した、禁断の領域。おそらく、それだろう。


 彼は、塔道築教との接続という大混乱の中に、その最も危険な『古文書』を、さらに巧妙に隠したのだ。誰にも見つけられぬように。あるいは、いつか、彼自身が必要とした時にだけ、取り出せるように。


「…その区画は、現状維持」

ミントは、迷いのない声で即断した。


「監視レベルを最大に設定。理天楼からのいかなるアクセスも、たとえ首席補佐官本人からのものであっても、全て記録し、私に直接報告すること。ただし、我々から、その区画に干渉することは、絶対に禁じます」


「…承知いたしました」

サフランは、ミントの真意を悟り、静かに頷いた。それは、主人の計画に異を唱えるのではなく、その計画が孕む最大のリスクを、専門家として静かに、そして徹底的に管理するという、彼女たちなりの忠誠の形だった。


「よし、みんな、今日の業務はここまで!」

ミントは、大きく伸びをすると、首席補佐官代理としての威厳を少しだけ緩め、明るい声を張り上げた。


「明日は、今日よりもっと忙しくなるわよ! だから、今夜はしっかり休むこと! セージ、あなたのお菓子、少し分けてもらうわよ!」


「ええーっ! ミント代理の権力乱用ですぅー!」

セージの悲鳴と、他のメンバーたちの笑い声が、指令室に響く。


 宇宙の未来を左右する大きな変化は、必ずしも派手な事件だけで進むわけではない。それは、時に、専門家たちの淡々とした、しかし緻密な日々の業務の積み重ねの中で、静かに、そして着実に、その方向性を定められていくのだった。


 第十七天幕では、今日もまた、いつもと変わらない、しかし宇宙の運命に直結した一日が、静かに暮れようとしていた。


 八十八重宇段大天幕、その十二天幕に位置する、黒蝶女官長と虹蜂近衛長が共同で使う執務室は、静謐な空気に満ちていた。


 部屋の半分は、黒蝶の趣味を反映した、黒檀と紫水晶で整えられた書斎のような空間。もう半分は、虹蜂の気質を表すかのように、武具や戦勝記念の品々が整然と飾られた、実用的な謁見の間となっていた。その奇妙な同居は、二人の異なる立場と、しかし醉妖花に仕えるという共通の目的を思い起こさせた。


 その部屋に、淵晶帝の近衛としての初任務を終えたアイリーンたち「集いし星」の五人が、緊張した面持ちで直立していた。

「――以上が、この一週間の淵晶帝の動向です」

 アイリーンが、代表として簡潔に報告を締めくくった。その声は、かつての傭兵時代を思わせる、冷静で無駄のない響きを持っていた。


 黒檀の長椅子に深く腰掛け、報告を聞いていた黒蝶女官長は、細く美しい指で顎に触れながら、静かに口を開いた。

「…なるほど。つまり淵晶帝は、日中の政務は完璧にこなし、帝国の統治者として何ら問題行動は見られない。しかし、夜ごと私室に籠り、我らが主、醉妖花様の肖像画を、何時間も見つめ続けている、と」


「はい。それも、ただ見つめているというよりは…」

バーナードが、言葉を選びながら補足する。

「まるで、対話でもしているかのように、時に笑みを浮かべ、時に何かを語りかけているご様子です。我々の感知能力では、その声を聞き取ることはできませんでしたが」


「酔狂なことね」

黒蝶の唇から、冷たい吐息が漏れた。

「あの女狐、馬令上人が言っていた『邪心』とやらは、我々の想像以上に根が深いようだわ」


部屋の隅で、愛用の槍の手入れをしていた虹蜂近衛長が、布で槍身を磨きながら、顔を上げた。

「だが、黒蝶。報告によれば、帝国の民を贄にするような動きも、軍備を不自然に増強するような素振りも見られないのだろう? ノキの言う『帝国の安定』という点では、むしろ理想的な統治者ではないのか?」


「ええ、今のところはね」

黒蝶は、虹蜂の言葉を肯定しつつも、その瞳の奥の警戒を解かない。


「でも、あの女が抱く醉妖花様への執着は、純粋な信仰とは明らかに異質よ。あれは、美しい花を己の所有物としたいと願う、収集家の歪んだ欲望に近い。今はまだ蕾でも、いずれ、その欲望を満たすために、帝国そのものを犠牲にしかねない危険な『花』だわ」


「ふむ…」

虹蜂は、槍の手入れを止め、腕を組んだ。

「では、我々はどう動くべきだと? 淵晶帝を直接排除でもするか? それこそノキの思う壺ではないのか?」


二人のやり取りを、アイリーンたちは息を詰めて見守っていた。帝国の最高幹部たちが、自分たちの報告を元に、国の未来を左右する議論を交わしている。その重圧は、並大抵のものではなかった。

 

 特にパトリシアは、この場の緊張感と、黒蝶たちの放つ圧倒的な存在感に、興味と畏怖が入り混じった複雑な表情を浮かべていた

「いいえ、今は静観するしかないわ」

黒蝶は、自らの結論を静かに告げた。


「首席補佐官は、この状況すらも計算に入れているはず。淵晶帝という『不安定要素』をあえて玉座に据え、我々や、あなたたち『集いし星』が、それにどう対処するかを試しているのでしょう。彼の壮大な『庭いじり』の一環としてね」

彼女の言葉には、ノキ=シッソへの、隠しようのない不信感が滲んでいた。


「アタシたちを、試している…?」

アイリーンが、思わずといった体で口を挟んだ。

「そうよ」

黒蝶は、初めてアイリーンへと視線を向けた。その瞳は、全てを見透かすかのように、深く、そして冷たい。

「あなたたちは、もはやただの傭兵ではない。醉妖花様の血をその身に宿した、我らが同胞。そして、あのノキの計画における、重要な『駒』でもある。彼があなたたちを淵晶帝の近衛に据えたのは、淵晶帝を監視させるためだけではないわ」


黒蝶は、一度言葉を切ると、静かに続けた。


「いずれ、淵晶帝の『邪心』が暴走した時、あるいは、ノキが『その時だ』と判断した時、あなたたちに、その始末をつけさせるためよ。醉妖花様の眷属であるあなたたちの手で、醉妖花様に仇なす者を討たせる。これほど、彼の計画にとって『美しい』結末はないでしょうから」


その言葉に、アランとマーガレットの顔が微かに強張る。自分たちが、壮大な謀略の、最後の引き金を引く役割を与えられている。その事実は、彼らにとって、新たな力の代償として突きつけられた、重い枷だった。


「…首席補佐官殿の真意は、私には測りかねます」

沈黙を破ったのは、アランだった。彼は一歩前に出ると、黒蝶と虹蜂に恭しく頭を下げた。


「ですが、我々『集いし星』の使命は、ただ一つ。何があろうと、醉妖花様をお守りし、その御心の安寧を乱す者を排除すること。それが、淵晶帝であれ、あるいは…他の誰かであれ」

アランの言葉には、迷いはなかった。それは、彼らが醉妖花の眷属となった時に誓った、偽りのない忠誠の証だった。


「…良い覚悟だ」

虹蜂が、満足げに頷いた。

「ならば、引き続き任務を続行せよ。淵晶帝の動向を、些細な変化も見逃すな。そして、来るべき時に備え、その新たな力を完全に掌握しておけ」


「はい!」

アイリーンが、力強く応えた。

「黒蝶様、虹蜂様。他に、ご指示は?」

「いいえ、今のところはそれだけよ」

黒蝶は、優雅な仕草で手を振った。


「下がりなさい。そして、休息を怠らないように。あなたたちは、これから長く、そして困難な『舞台』に立ち続けることになるのだから」

「はっ!」


五人は一斉に敬礼すると、静かに執務室を後にした。

扉が閉まり、部屋に二人きりになると、虹蜂が黒蝶に話しかけた。

「黒蝶。お前は、ノキの計画が、本当に醉妖花様のためになると信じているのか?」


「信じてなどいないわ」

黒蝶は、即座に否定した。

「あの男が信じているのは、彼自身の描く『完璧な庭』の設計図だけよ。その庭に咲く花が、本当に幸せかどうかなど、彼にとっては二の次の問題なのでしょう」


「だからこそ、私たちがいる。虹蜂、あなたと、私と、そしてミントたち『百薬』が。あの庭師が好き勝手な剪定をしないよう、その手に握られたハサミを、常に見張り続けなければならないのよ」

黒蝶の横顔は、夜の闇よりも深く、そして、揺るがぬ決意に満ちていた。

帝国の未来は、多くの者たちの、複雑な思惑と忠誠心の中で、静かに、そして着実に、その形を変えようとしていた。


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