第91話 「塔道築教」
理天楼は、都市そのものが一つの巨大な聖堂であり、惑星の核から天頂の宇宙港までを貫く、壮麗なる垂直都市である。内部は無数の歯車とパイプライン、そして光ファイバーの如き魔導回路が、機能美の極致として張り巡らされ、静謐と秩序、そして合理性こそが、この都市の、そして塔道築教の信仰そのものであった。
その中枢、天頂に位置する「大評議室」。
部屋の中央には、理天楼の全インフラを可視化した巨大な立体ホログラム「神々の設計図」が静かに浮遊している。しかし今、その完璧なる設計図の随所に、従来のエラー表示とは異なる、未知の法則に基づく黄金色の奔流が侵入し、システム全体のパラメータを予測不能な領域へと書き換え始めていた。
「…素晴らしい」
静寂を破ったのは、塔道築教の最高指導者、「大導師」ガイウス・フォルムであった。白銀の髭をたくわえた老人の貌は、何世紀にもわたる設計と構築の歴史を刻み込み、その瞳は、目の前の異常事態を恐怖ではなく、生涯かけて追い求めてきた未知の技術体系を発見した科学者のように、爛々と輝いていた。
「このエネルギー増幅率…物理法則を根底から無視している。因果律の逆転すら観測される。リアクタ、この『バグ』は、我々のシステムを破壊するのではない。これは『進化』だ! 我々の築き上げた秩序という名の檻を、外側から打ち破る『啓示』そのものだ!」
彼の傍らに立つ、怜悧な美貌の女性、「分析官長」リアクタ・シグニスが、冷静に、しかしわずかに苦渋を滲ませた声で応える。
「大導師。しかし、これはGoldenRaspberry教、その中でも特に異端とされる『ハイパーレバレッジ全ツッパ友の会』による、極めて無謀な強制接続の結果です。彼らは、我々のインフラを担保に、宇宙規模のギャンブルを行っているに等しい。現に、信徒たちの精神ネットワークは深刻な負荷に晒されています」
「負荷なくして進化はない!」
ガイウスは、リアクタの懸念を一蹴する。
「それに、あの『友の会』は、我々にとって最高のスポンサーでもあることを忘れたかね? 我らが誇る『ゴールデン・ラズベリー・タワーMAX』の建造に、彼らがどれだけの『先行投資』をしてくれたか。彼らの『リスクテイク』は、結果として我々に多大な技術的進歩をもたらした。今回も同じことだ。いや、今回はそれ以上だ!」
ガイウスの瞳は、ホログラムに映し出される黄金の奔流――「友の会」の狂気と、醉妖花たちの奇跡が融合したエルドラド・ストリームのデータ――に釘付けになっていた。
その時、大評議室の扉が静かに開かれた。
「大導師、分析官長。天花教よりの特使、馬令上人様がご到着です」
現れたのは、かつて反乱軍の頭目であり、今は醉妖花に帰依した男、馬上人であった。
剃髪した頭の上には、明らかにサイズの合わないズラが、落ちそうで落ちない絶妙な角度で乗っている。そして、それ以上に異様なのは、彼の首が胴体から僅かにずれており、彼が恭しく一礼する動作に合わせて、頭部だけが物理法則を無視した滑らかな軌道を描き、胴体は一拍遅れてついてくるという、前衛的すぎる光景だった。
リアクタをはじめとする評議員たちが、その非合理的な存在に眉をひそめる中、ガイウスだけは、その瞳の奥に鋭い光を宿らせ、馬上人の一挙手一投足を分析していた。
(…なるほど。この男、ふざけているようでいて、その存在自体が我々の常識と物理法則への挑戦状か。面白い)
「いやはや、皆様。このズラのずらは、緊張と緩和が生み出す究極の様式美。笑わぬは人の道に悖るというもの。しかし、もし笑えぬのであれば、それは私の芸が、まだ皆様の『理解』という名のインフラ整備に追いついていない証左。日々精進ですな!」
悲哀に満ちた顔で、しかし堂々と語る馬上人に、ガイウスは静かに、しかし威厳を持って応えた。
「馬令上人殿。貴殿の『芸』については、後ほどじっくりと構造力学の観点から解析させていただこう。それよりも、本題に入らせていただきたい。貴殿らが我々のシステムに送り込んでいる、この『祝福』とでも呼ぶべきデータパッケージ…そのソースコードと設計思想について、詳細な説明を要求する」
ガイウスの単刀直入な言葉に、今度は馬上人がわずかに目を見開いた。
「ほう…これは驚きましたな。てっきり、まずは非礼を詫びることから始まるかと」
「詫びなど不要」
ガイウスは断言した。
「我々、塔道築教は、未知の技術、未知の法則を前に、ただ恐れ、拒絶する集団ではない。我々はそれを理解し、解析し、そして、より優れたものへと『再設計』する。貴殿らのもたらしたこの『混沌』は、我々にとって最高の研究対象だ」
彼は、懐から一枚のデータチップを取り出す。
「これは、先ほどから我々のシステムに流れ込んでいる、信徒たちの『精神変容』に関する初期解析データだ。確かに、魂の不可侵領域にまでアクセスし、その構造を書き換えている。危険極まりない技術だ。しかし…」
ガイウスの瞳が、再び爛々と輝き始める。
「これにより、人間は『天人』とも呼ぶべき存在へと進化する可能性がある。個の能力が飛躍的に向上した『天人』によって築かれる新たな社会体制…それは、我々が数千年かけて目指してきた、究極の効率社会の、一つの完成形かもしれん!」
その貪欲なまでの探求心と、技術への渇望に、馬上人は思わず苦笑した。この老人は、ノキ=シッソやドミニエフとはまた違う種類の、しかし同質の「狂気」を秘めている。
「では、馬令上人殿。取引と行こうではないか」
ガイウスは、交渉のテーブルに着くことを促した。
「貴殿らは、我々の持つ世界最高のインフラ構築技術と、そのネットワークを利用できる。その見返りとして、我々に『天花』という名の、その不可解にして魅力的なシステムの、技術的アクセス権と、そして…」
彼は、にやりと口の端を上げた。
「貴殿らのスポンサーである『ハイパーレバレッジ全ツッパ友の会』との、より直接的で、大規模な『共同事業』の立ち上げを仲介していただきたい。彼らの無限の資金力と、我々の技術力。そして、貴殿らのもたらす『天花』という革命。これらが結びつけば、我々は、この宇宙の『インフラ』そのものを、我々の手で再定義できる」
それは、もはや降伏でも、受容でもない。
未知の脅威すら自らの糧とし、より大きな野望を達成するための、狡猾にして壮大な「共同経営」の提案だった。
馬上人は、この老獪な技術者の瞳の奥に、自分たちの主である醉妖花や、その庭師であるノキ=シッソにも通じる、世界の理を己の望むままに塗り替えんとする、強大な意志の輝きを見た。
「…いやはや、これは一本取られましたな」
馬上人は、ずれたズラを直すことも忘れ、ただ感嘆の息を漏らした。
「よろしいでしょう、大導師殿。その『共同事業』、実に面白そうだ。全ては、醉妖花様の御心のままに、そして…我らが友、ガイウス殿の飽くなき探求心のために」
理天楼の天頂から、新たな光が放たれようとしていた。それは、塔道築教が、自らの意志で、天花教という未知のシステムを解析し、支配し、そして利用することを選んだ証。五大宗教のパワーバランスが、今、静かに、しかし決定的に動き始めた瞬間であった。
塔道築教の主聖都「理天楼」の天頂で、大導師ガイウスと馬上人が宇宙の秩序を塗り替えかねない歪な盟約を交わしていた、まさにその頃。
八十八重宇段大天幕、第十七天幕。




