第85話 ヴィクター・フェイザー
「あ、似てるんだ、ノキ・シッソ首席補佐官と」
ローラの言葉は、聖域の清浄な空気に、一瞬、不穏な響きをもたらした。ノキ=シッソ首席補佐官。その名は、ここにいる者の多くにとって、畏怖、困惑、あるいは純粋な嫌悪感といった複雑な感情を呼び起こす。
「…ノキ、ですって?」
月跡が、わずかに眉をひそめた。彼女の銀色の瞳が、ヴィクター・フェイザーという存在を再評価するかのように、鋭く細められる。
「ええ…」
ローラは、自らの言葉の響きに戸惑いつつも、確信を持って頷いた。
「あのヴィクターという人、表面上は冷静で機械的なんだけど…その奥に、何かこう…ノキ首席補佐官と似たような、掴みどころのない、それでいて全てを見透かしているような…そんな気配を感じたの」
ローラは、先ほどのヴィクターとの対峙を思い出していた。彼女の「観測者」としての力が、ヴィクター・フェイザーが巧妙に偽装し、制御していた永久尽界の深層に、ほんの一瞬だが触れてしまったのだ。
それは、まるで静謐な湖面の奥底に、予測不能な激流が隠されているのを垣間見たような感覚だった。ヴィクターの永久尽界は、Arcane Genesis教の高度な技術と彼自身の意志によって、その真の性質や規模が巧妙に隠蔽されていた。
しかし、ローラの「観測」は、その偽装のヴェールを薄皮一枚だけ剥ぎ取り、そこにノキ・シッソの持つ永久尽界の質に酷似した、ある種の「歪み」や「異質さ」を感知したのだった。それは、世界の理から逸脱し、それを自らの都合のいいように利用しようとする、ある種の「悪意」とまでは言えないまでも、強大な「我」のようなもの。
「彼の永久尽界…表面上は整然としていて、まるで精密機械のようだったけど、その奥に、もっと混沌とした、予測不能な何かを感じたの。ノキ首席補佐官の永久尽界も、一見すると複雑怪奇だけど、どこか似たような…そう、世界の法則を自分のために利用しているような、そんな『手触り』があった」
ローラは、必死に言葉を探しながら説明する。それは論理的な分析ではなく、彼女の「観測者」としての直感的な理解だった。
「確かに…言われてみれば、あの何を考えているのか分からない、全てを見透かしているような雰囲気は、ノキに通じるものがあるかもしれないわね」
醉妖花は、ローラの言葉に静かに頷いた。彼女自身も、ヴィクターの心を探ろうとした際に感じた、骸薔薇の強烈な拒絶反応の理由が、ローラのこの「観測」と無関係ではないのかもしれないと感じ始めていた。ヴィクターの永久尽界の深層に隠された何かが、骸薔薇のトラウマや、あるいは本能的な危険察知能力を刺激したのではないか。
「えーっ!? ローラ様、あの鉄仮面が、あのド変態スケベ野郎に似てるって本気で言ってるの!?」
離れた場所で警戒にあたっていたほたるが、思わずといった体で会話に割って入ってきた。彼女にとって、ノキ・シッソは忌むべき天敵であり、その存在は生理的嫌悪感すら催させる対象だ。
ヴィクター・フェイザーの無機質で冷徹な態度は、ノキ・シッソの粘着質で底意地の悪い性格とは対極にあるように思えたのだろう。
「でも、うーん…言われてみれば、確かにそういうところはあるかもな」
ほたるは腕を組み、唸るように言った。彼女もまた、ノキ・シッソには散々煮え湯を飲まされてきた。
「あの変態野郎も、自分の都合のいいように世界のルールをねじ曲げやがるからな。ヴィクターって奴も、もしかしたら同じ種類の人間…いや、人間なのかアレ? ローラがそう言うなら、何かあるんだろうけどよ」
「じゃが、あの男からは天花を害するような禍々しい気配は感じられなかったのじゃが…」
エレーラが、聖域の奥、祭壇の近くから、不思議そうに声を投げかける。彼女の天花としての感覚は、ヴィクターの持つ特異性――天花に対する攻撃性の低さ――を捉えていた。
セレフィナたち他の天花も、エレーラの言葉に同意するように頷いている。
「Arcane Genesis教の忌み枝は、他の忌み枝とは性質が異なるのかもしれないね」
醉妖花は、エレーラの言葉に頷いた。
「彼らは『花』を観測し、理解し、そして『調和』させようとする。その対象には、天花も含まれているのかもしれない。ヴィクター・フェイザーは、そのための特別な役割を与えられた存在…あるいは、ローラの『観測』が捉えたように、彼の永久尽界の真の姿は、巧妙に隠されているのかもしれないわね」
醉妖花は言葉を切ると、再びローラの顔を見た。
「ローラが感じた『似ている』という感覚。それは、彼らの持つ『世界の理の外側に立つ力』、その本質的な部分が共通しているからなのかもしれないね。そして、その力を巧妙に隠蔽する術にも長けている、と」
「世界の理の外側に立つ力…そして、それを隠す力…」
ローラは、醉妖花の言葉を反芻する。ヴィクターの永久尽界の深層に触れた瞬間の、あの形容しがたい感覚が蘇る。それは、ノキ・シッソと対峙した時の、あの底知れない不気味さと確かに通じるものがあった。
「まあ、いずれにしても、Arcane Genesis教、そしてヴィクター・フェイザーが、今後の私たちの行動に大きく関わってくる可能性は高いわね」
月跡が、場の空気を引き締めるように言った。
「彼らが敵となるのか、味方となるのか、あるいはただの傍観者でいるのか…現時点では判断できない。でも、警戒を怠るべきではないわ。ローラの『観測』が捉えたものが真実なら、彼はノキ・シッソと同等か、それ以上に厄介な相手かもしれない」
「そうね」
醉妖花は頷き、聖域の天花たちへと向き直った。
「エレーラ、セレフィナ、そして皆。Arcane Genesis教のことは一旦置いて、私たちはまず、この星を亡霊花ヶの脅威から完全に解放するための準備を進めましょう。聖域の力を高め、そして、反撃の機会を待つ」
醉妖花の言葉に、天花たちは力強く頷いた。彼女たちの瞳には、先ほどまでの不安の色はなく、確かな決意の光が宿っていた。
「ローラ、あなたにも協力してもらうことになるわ。あなたの『観測』の力が、私たちの計画を成功させるための鍵になる」
「ええ、もちろんよ、醉」
ローラは、醉妖花の真摯な眼差しに応え、力強く頷いた。彼女の中で、「探し人」としての自覚と、醉妖花と共に未来を切り開くという決意が、より一層確かなものへと変わりつつあった。
赤い砂漠の惑星ルビークロス。その地下に広がる聖域『原初の泉』で、新たな戦いに向けた準備が、静かに、しかし着実に始まろうとしていた。
聖域『原初の泉』へと帰還した醉妖花とローラの周囲には、安堵と、そして新たな決意の光が満ちていた。亡霊花ヶの直接干渉を退け、この星に一時的ながらも守護の理を施した達成感。しかし、それは嵐の前の静けさに過ぎないことを、彼女たちは肌で感じていた。
「さて、これからどうするか、話し合いましょう」
醉妖花が、泉のほとりに集まった月跡、ほたる、そしてエレーラたち天花へと声をかけた、まさにその時だった。




