第84話 複雑な何か
「…すげぇ…」
ほたるは、呆然としながらも、その圧倒的な光景に感嘆の声を漏らす。
「ありがとう、月跡…マジで、死ぬかと思ったぜ…」
「礼には及ばないわ。それより、あなたの傷の手当てをしないと」
月跡は、ほたるの傍らに膝をつき、その傷口に手をかざす。銀色の光が、ほたるの身体を優しく包み込み、傷がみるみるうちに癒えていく。
「それにしても、ほたる。よく頑張ったわね。一人でここまで持ちこたえるなんて」
月跡の言葉には、素直な称賛が込められていた。
「へへ…まあな。伊達に、あのド変態の元で鍛えられてねーからな!」
ほたるは、いつもの調子を取り戻し、悪戯っぽく笑った。
「それより、醉妖花様とローラ様は無事なのか? 俺が最後に連絡した時、醉妖花様たちはルビークロスのどっかにある『聖域』ってとこにいるって話だったけど…」
「ええ、二人とも無事よ。ほたる、あなたからの情報で大体の状況は把握していたわ。醉妖花様とローラ様はその聖域で、反撃の準備を進めている。ミントも、帝都から救援部隊を率いて、こちらに向かっているはずよ」
月跡は、ほたるの言葉を肯定し、状況を簡潔に説明する。
「そっか…良かった…」
ほたるは、心底安堵したように息を吐いた。
「じゃあ、俺たちも早く合流しないとな! まだ、あのクソ亡者どもをぶっ飛ばし足りねえんだ!」
傷が癒え、気力も回復したほたるは、再びⅢ両刃双の大鎌を握り直し、闘志をみなぎらせる。
月跡は、そんなほたるの姿を見て、小さく微笑んだ。
「ええ、そうね。でも、その前に…少し寄り道をしましょうか」
月跡の視線が、半壊した亡霊鏡教の聖都星へと向けられた。
「あの星には、まだ『片付けるべきもの』が残っているようだから」
ほたるは、月跡の言葉の真意を察し、ニヤリと笑った。
「おっ、いいねぇ! 大掃除の時間ってわけか!」
”忠告する、貴殿らでは、亡霊花ヶに敗北する。貴殿らの主人の下へ帰還することを推奨する”
月跡とほたるの永久尽界に直接情報が流れ込む。
「ladyに対して礼儀がなっていないわね」
月跡がヴィクターの合成音声による警告を、まるで夜風に揺れる銀の鈴のような、しかし有無を言わせぬ冷たさを湛えた声で一蹴する。その声は、周囲に漂う宇宙塵すら凍てつかせるかのようだ。彼女の表情は冷静そのものだが、その銀色の瞳の奥には、一瞬、読み取り難い複雑な光が揺らめいた。
「Arcane Genesis教はレディファーストだって聞いてるぜ。それに、アンタに指図される筋合いはねーんだよ」
ほたるもまた、不敵な笑みを浮かべ、Ⅲ両刃双の大鎌を肩に担ぎながら、ヴィクターの機影――今や遥か彼方、ルビークロスの赤い砂漠に佇む『False Harbinger』――を睨みつけた。その威勢のいい言葉とは裏腹に、大鎌を握る彼女の指先が、ほんのわずかに白んでいた。
ヴィクターからの応答はない。ただ、彼の機体が放つ観測の波動だけが、変わらずこの宙域の情報を貪欲に収集し続けている。その沈黙が、逆に月跡とほたるの間に、言葉にはならない緊張感を漂わせる。
「忠告はありがたく受け取っておくわ。でも、私たちの行動を決めるのは私たち自身よ」
月跡はそう言うと、ほたるへと視線を移した。その瞳は、表面的な強気さを保ちつつも、どこか状況の深刻さを再評価しているかのような、深い光を宿していた。
「行きましょう、ほたる。あの星の状況は、確かに私たちの手に余るかもしれない。今は、醉妖花様とローラ様の安全を確保することが最優先よ」
ほたるは、月跡の言葉の裏にある響きを即座に感じ取った。ヴィクターの警告は、決して無視できるものではない。そして、この場で消耗し、万が一のことがあれば、醉妖花たちを守ることもできなくなる。
「へっ、まあ、そうだな。あの亡者どもの相手は、後でミントたちが来てからでも遅くねえか」
彼女は、努めて軽い口調で答えた。
「それに、あの聖都星、近づくだけでも胸クソ悪くなるぜ。長居は無用だ」
二人は、ヴィクターの存在を背中に感じながらも、半壊した亡霊鏡教の聖都星から意識的に距離を取り始めた。先ほどまでの、聖都星の深部へ進み、汚染源を破壊しようという意気込みは、ヴィクターの警告と、自分たちの現状認識によって、より慎重な判断へと変化していた。
「月跡、ほたる、ルビークロスの聖域へと急ぎましょう。醉妖花様たちが待っているわ」
月跡は、ほたるに強く頷きかけると、その身に銀色のオーラを纏い、空間跳躍の準備を始めた。彼女の脳裏には、ヴィクターの警告が、そして、自分たちの情報が彼に把握されているかもしれないという、拭いきれない感覚が重くのしかかっていた。
「そうだな、お二人を待たせるわけには行かないしな!」
ほたるもまた、Ⅲ両刃双の大鎌を構え直し、月跡の隣に立つ。彼女もまた、ヴィクターの言葉の裏にある、圧倒的な情報格差と、それからもたらされるであろう脅威を、肌で感じていた。
銀色の光が二人を包み込み、次の瞬間、彼女たちの姿は聖都星の宙域から消え去った。後に残されたのは、ヴィクター・フェイザーの『False Harbinger』と、半壊した聖都星が放つ静かな絶望のオーラだけだった。
ヴィクターは、二人が去った空間をしばらくの間、多重センサーでスキャンし続けていた。
「…忠告を、受け入れたか。賢明な判断だ。だが、あの反応…私の存在、あるいはArcane Genesis教そのものに対する、単なる反発以上の『何か』を感じる。特に、対象Z、月跡の永久尽界の微細な揺らぎ…あれは、恐怖か? それとも、別の要因によるものか…」
彼の思考ユニットは、月跡とほたるの行動変化と、その背後にある心理を分析し続ける。
「いずれにせよ、亡霊花ヶの脅威は依然として存在する。そして、醉妖花と『探し人』の動向も、引き続き最重要観測対象であることに変わりはない」
ヴィクター・フェイザーは、自らの判断に基づき、『False Harbinger』を静かにルビークロスへと転進させた。彼の任務は、まだ終わらない。この宇宙には、彼の理解を超える「花」と、そして「災厄」が、あまりにも多く咲き乱れているのだから。
一方、赤い砂漠の惑星ルビークロス、聖域『原初の泉』。
月跡とほたるは、空間跳躍を終え、聖域の入り口、赤い結晶の門の前に降り立った。その表情には、安堵と共に、先ほどのヴィクターとの遭遇による緊張の余韻が残っていた。
「月跡! ほたる!」
門の奥から、醉妖花とローラの声が響き、二人が駆け寄ってくる。エレーラやセレフィナたち天花も、心配そうな面持ちで後に続いていた。
「よぉ! 待たせたな!」
ほたるは、いつもの調子で片手を上げ、にかりと笑おうとしたが、その表情は少し硬い。
「ちょっと、宇宙のゴミ掃除に手間取っちまってな」
「二人とも、無事だったのね…本当に良かったわ」
醉妖花は、月跡とほたるの姿を認めると、心底安堵したように息を吐いた。
「亡霊鏡教の聖都星に殴りこもうとしたらちょっと邪魔が入ってな」
「Arcane Genesis教の兵です。『お前たちでは無理だ』と永久尽界に直接」
「ヴィクター・フェイザーね。全くデリカシーがない奴」
ローラが呆れたように云うと醉妖花が続ける
「私が云えることではないけれど、心をもっと大切に扱ってほいところだね」
醉妖花はローラの言葉に同意し、やれやれといった表情で肩をすくめた。しかし、その瞳の奥には、ヴィクター・フェイザーという存在への警戒と、そして骸薔薇が示した強烈な拒絶反応の理由を探ろうとする思索の色が浮かんでいた。
「それにしても、あのヴィクターとかいう男、本当に厄介な相手ね。ただ強いだけじゃない。何か…底が見えない感じがするわ」
ローラは腕を組み、眉をひそめた。彼女の「観測」の力は、ヴィクターの表面的な情報だけでなく、その奥に潜む複雑な何かを漠然と感じ取っていた。




