第79話 月光のように
黒水晶の柱の表面に投影されていた血と狂気の儀式の光景が、ローラの強い「観測」によって、ガラス細工のように細かく砕け散り、過去の残像へと押し戻されていく。彼女の瑠璃色の瞳は、黒水晶の破壊とその後に訪れるべき清浄な未来だけを、絶対的な事実として捉え、この空間の法則を書き換え始めていた。
「今よ、醉!」
ローラの声が、緊迫した地下空洞に響く。
「ええ!」
醉妖花は、ローラの「観測」によって定められた未来へと、自らの全霊を傾ける。彼女の両手から放たれる「超越汎心論」の力は、もはや単なる浄化ではない。黒水晶に宿る亡霊花ヶの汚染、儀式によって歪められた魂の叫び、血肉の記憶、それら全てを「心」あるものとして認識し、その「心」を醉妖花の絶対的な美と調和の「理」へと強制的に帰依させていく。
グォン、と地鳴りのような低い振動が黒水晶の柱から発せられた。柱の内部で、亡霊花ヶの力が最後の抵抗を試みているかのようだ。黒紫色の禍々しい光が柱の亀裂から激しく明滅し、空間そのものを引き裂かんばかりの不協和音を奏でる。
「まだ…抵抗するというの」
醉妖花の青い瞳が、怜悧な光を帯びる。
「ならば、その『心』ごと、私の『庭』の彩りにしてあげるわ」
彼女の言葉と同時に、地下空洞を満たしていた色とりどりの花々――彼女の「庭」の顕現――が、一斉に黒水晶の柱へと向かって伸び始めた。それは、優しく包み込むような動きでありながら、抗うことのできない絶対的な支配の意志を秘めていた。花々は柱の亀裂に入り込み、その内部で根を張り、亡霊花ヶの汚染された「心」を養分とするかのように吸収し、そして、清浄な生命エネルギーへと変換していく。
黒水晶の柱から放たれる禍々しい光は急速に勢いを失い、代わりに、柱の内部から、まるで夜明けの空のような、淡く温かい光が漏れ出し始めた。魂の叫びは鎮まり、不協和音は、花々の奏でる聖なる旋律へと変わっていく。
「あと…少し…!」
ローラの額には玉の汗が浮かび、その身体は小刻みに震えていた。強大な未来を「確定」させるための精神的負荷は、彼女の限界を試している。黒曜星の刃を杖のように突き立て、かろうじて立っているのがやっとだった。
「ローラ!」
醉妖花は、ローラの消耗に気づきながらも、今、この瞬間に力を緩めることはできない。彼女は、自らの生命エネルギーの一部を、ローラの「観測」を支えるための奔流として送り込む。
「ありがとう…醉…!」
ローラの瞳が、再び力強い瑠璃色の輝きを取り戻す。
そして、ついにその瞬間が訪れた。
黒水晶の柱が、内部から放たれる清浄な光によって、完全に白銀の輝きへと変貌した。柱の表面を覆っていた禍々しい紋様は跡形もなく消え去り、代わりに、生命の息吹を感じさせる柔らかな光の粒子が、柱全体から静かに立ち昇っている。もはや、そこには亡霊花ヶの汚染も、儀式の痕跡も存在しない。ただ、この星の本来の生命エネルギーを凝縮したかのような、美しい水晶の柱だけが、静かに、そして力強く地下空洞の中心に佇んでいた。
地下空洞を満たしていた重苦しい空気は完全に消え去り、代わりに、清らかで、どこか甘い花の香りと、生命力に満ちた空気が満ちていた。天井の亀裂も自然に修復され、洞窟全体が、穏やかな光に包まれている。
「…終わった…のね」
ローラは、安堵の息と共に、その場に座り込んだ。疲労困憊だったが、その表情には、達成感と、確かな自信が浮かんでいた。
「ええ。私たちの、勝利よ」
醉妖花は、ローラの隣に優しく腰を下ろし、その肩を抱き寄せた。彼女の瞳もまた、深い満足感と、ローラへの労いの色で輝いていた。
「見て、ローラ。あの柱はもう、亡霊花ヶの楔じゃない。この星の生命力を集め、守護するための、聖なる灯台になったわ」
白銀に輝く柱は、地下空洞全体を、まるで月光のように穏やかに照らし出していた。
外の赤い砂漠では、ヴィクター・フェイザーが、その劇的な変化を冷静に記録していた。『False Harbinger』のセンサーは、地下空洞から放たれる、清浄で強力なエネルギーの奔流を捉え、そのデータを解析し続けている。
「…黒水晶のエネルギー特性、完全に反転。亡霊花ヶの汚染、消滅を確認。対象Z及び対象Yによる、大規模環境改変及びエネルギー浄化現象、完了…これは、単なる破壊ではない。再生…あるいは創造に近い」
彼の思考ユニットは、この結果がArcane Genesis教の『調和』の概念にどのような影響を与えるのか、そして、評議会がこれをどう判断するのか、複雑なシミュレーションを開始していた。
地下空洞では、醉妖花とローラが、しばしその静寂と、清浄な光に満ちた空間の美しさを味わっていた。
「本当に…綺麗…」
ローラは、うっとりと白銀の柱を見つめる。
「ええ。これが、本当の姿なのかもしれないわね」
醉妖花もまた、穏やかな表情で頷いた。
「でも、いつまでもこうしてはいられない。聖域に戻って、エレーラたちにこの結果を知らせないと。そして、これからどうするべきか、皆で話し合わなければ」
「そうね。ヴィクターは…どうするのかしら」
ローラが、ふと空を見上げるように言った。
「さあ。でも、彼もまた、この変化を『観測』したはず。Arcane Genesis教が、この星に対してどのような判断を下すのか…それは、また別の話ね」
醉妖花は立ち上がり、ローラに手を差し伸べた。
「行きましょう、ローラ。私たちの冒険は、まだ始まったばかりなのだから」
ローラは、醉妖花の力強い手を握り、立ち上がった。二人の心は、共に大きな困難を乗り越えたことで、より深く、強く結ばれようとしていた。彼女たちは、白銀に輝く柱に静かに一礼すると、聖域へと続く帰路についた。地下空洞は、再び静寂に包まれたが、そこにはもはや絶望の影はなく、再生と希望の光だけが満ち溢れていた。




