第77話 『開花』
浄化されたはずの地下空洞の空気が、再び急速に淀み始めた。先ほどまでの亡霊花ヶの残滓とは比較にならないほど濃密で、悪意に満ちた「何か」が、空間そのものを圧し潰さんばかりに膨れ上がっていく。黒い柱の表面に、今度は亀裂が走り、その亀裂から、光を一切反射しない、絶対的な黒色の「花弁」のようなものが、ゆっくりと、しかし確実に姿を現し始めたのだ。
「…あら。これはまた、随分と性急な『開花』ね」
醉妖花の表情には、驚きも焦りもなかった。ただ、目の前で起こっている現象を、興味深い研究対象でも見るかのように、静かに観察している。
「ヴィクターが苦労したというのも頷けるわ。この凝縮された悪意と『虚無』への指向性…なかなかに厄介な代物ね。でも…」
彼女は、ふっと息を漏らした。
「この私の『庭』で、好き勝手に咲き誇れると思ったら大間違いよ」
黒い花弁が完全に開くと、その中心から、凝縮された「虚無」の波動が放たれた。それは、先ほど醉妖花が浄化した空間を再び汚染し、彼女の創り出した聖なる領域を侵食し始める。
「きゃっ…!」
ローラは、その圧倒的な負のエネルギーに直接当てられ、黒曜星の刃を構える間もなく、後方へと吹き飛ばされそうになった。
しかし、醉妖花の足元から伸びた一本の、しかし金剛石よりも強靭な光の蔓が、優しく、しかし確実にローラの体を支え、安全な場所へと退避させた。
「大丈夫よ、ローラ。少し、見ていなさい」
醉妖花は、ローラに穏やかな笑みを向けると、再び黒い花弁へと視線を戻した。彼女の肩や足に、黒い花弁から放たれた呪詛の棘が突き刺さろうとするが、それらは醉妖花の身体に触れる寸前で、まるで見えない壁に阻まれたかのように霧散していく。彼女の「超越汎心論」が展開する領域は、そのような低俗な呪詛を寄せ付けもしなかった。
「あなたの力…その悪意の深さ…そして、『虚無』への渇望は理解したわ」
醉妖花の言葉は、絶対的な自信に満ちていた。
「でも、それは、この私の『庭』では、異物に過ぎないのよ。そして、異物は排除するか、あるいは…私の『庭』の一部として、より美しいものに作り変えるのが、庭師の務めでしょう?」
黒い花弁は、まるで醉妖花の言葉を理解したかのように、さらに激しく脈動し、その中心にある「蕊」を露わにし始めた。その蕊は、無数の苦悶に歪む顔が寄り集まって形成されており、その一つ一つが、かつてこの花弁の糧となった魂たちの成れの果てであることを示していた。そして、その蕊の奥からは、言葉にならない、しかし魂を直接凍てつかせるような、冷たい「呼び声」が響いてくる。それは、「大いなる虚無」への誘い。
「…なるほど。魂を喰らい、それを力の源とする…そして、その魂を『虚無』へと誘うのね。随分と悪趣味な生態だこと」
醉妖花は、そのおぞましい光景を前にしても、眉一つ動かさない。
「でも、その『虚無』という概念そのものが、私の『心』の前では、どれほど無力か、まだ理解できないようね」
醉妖花は、ゆっくりと右手を上げた。その白い指先から、一滴の、しかし無限の色彩と可能性を秘めた雫のような光が生まれ、静かに空間へと放たれる。
それは、彼女の本質「超越汎心論」の極致。あらゆる存在、あらゆる現象、あらゆる法則、そして「虚無」という概念そのものにすら「心」を与え、それを自らの「庭」の法則に従わせる、絶対的な支配の力。八十億の魂を弄び、死と生の意味すら容易く書き換えた彼女にとって、目の前の現象は、観察し、理解し、そして自らの美意識に従って「再構成」する対象でしかなかった。
雫は、黒い花弁の中心の蕊へと吸い込まれるように触れた。
次の瞬間、何の前触れもなく、黒い花弁の禍々しい脈動が止まった。
蕊を構成していた無数の苦悶の顔が、一斉に安らかな表情へと変わり、そして、まるで感謝を捧げるかのように、静かに目を閉じていく。
黒い花弁そのものも、その絶対的な黒色を失い、まるで夜明けの空のように、淡い紫から、やがて純粋な白へとその色を変えていった。そして、その白い花弁の一枚一枚が、柔らかな光の粒子となって、静かに地下空洞へと降り注ぎ始めた。
それは、戦いですらなかった。
ただ、醉妖花という存在の「理」が、亡霊花ヶの「虚無」の「理」を、静かに、そして完全に上書きし、そして吸収しただけの現象。
彼女は、その「死の花弁」の持つ「虚無」のエネルギーすら、自らの「超越汎心論」の糧として取り込み、より清浄で、より強力な生命のエネルギーへと変質させてしまったのだ。
「…終わった…の?」
ローラは、目の前で起こった、あまりにも静かで、しかし根源的な変化に、ただ息を呑むしかなかった。醉妖花の肩や足を狙った呪詛の棘など、最初から存在しなかったかのように、彼女の周囲は清浄な光に満ちている。
「ええ。でも、興味深い物が残ったよ」
醉妖花は、常の穏やかな微笑みを取り戻し、ローラの元へと歩み寄った。その表情には、疲労の色も、先ほどの絶対的な力の行使の余韻すら感じられない。ただ、その瞳の奥には、新たな知識と力を得たことによる、深い満足感が浮かんでいた。
「大丈夫、ローラ? 怖かったでしょう」
「ううん…醉が、すごすぎて…何が起こったのか、まだ…」
ローラは、まだ茫然としながらも、醉妖花の手を固く握った。
「さあ、行きましょう。この地下には、まだ何か秘密が隠されているかもしれないわ。あの『死の花弁』が、何を糧とし、何を守ろうとしていたのか…そして、この黒い柱の本当の意味もね」
醉妖花は、完全に浄化され、清浄な光に満たされた地下空洞の奥、先ほどまで黒い花弁が鎮座していた場所――今はただ、巨大な黒水晶の柱だけが静かに佇むそこへと、ローラを伴い、再び歩みを進めた
。
黒水晶の柱は、この地下空洞に不自然に存在していた。それは、この星の地質とは明らかに異質で、まるで宇宙のどこか遠い場所から持ち込まれたかのように、周囲の赤い岩盤とは不調和な輝きを放っていた。表面は鏡のようだが、よく見ると、無数の微細な紋様があり、そこから絶えず禍々しい気配が漏れ出している。
「この柱…本当にこの星のものじゃないみたいね」




