第75話 赤い砂漠
「物理的接触は、現状の合意には含まれていない」
ヴィクターは警告を発したが、彼の声よりも早く、醉妖花は自らの手を引っ込め、わずかに後ずさった。その表情には、悪戯っぽさとは異なる、困惑と、そして微かな苦痛の色が浮かんでいた。
「…どうしたの、醉?」
ローラが異変に気づき、声をかける。
「…いえ、何でもないわ」
醉妖花は努めて平静を装ったが、その声は微かに震えていた。彼女がヴィクターの『心』に触れようとした瞬間、彼女自身の内に眠る骸薔薇の意識が、かつてないほど強烈な拒絶反応を示したのだ。
それは憎悪であり、恐怖であり、骨の髄からの忌避感だった。その激しい感情の奔流は、醉妖花の『超越汎心論』による精密な情報読み取りを一時的に麻痺させ、ヴィクターの心の表層すらまともに探ることを困難にさせていた。
「少し…母様の気配が強すぎたみたい。貴方の『心』を探ろうとしたら、母様が酷くお怒りになってしまって…貴方、何か母様の癇に障るようなものでも隠しているのかしら?」
醉妖花は、探るような目でヴィクターを見つめた。彼女自身、骸薔薇のこの強烈な反応の理由は掴みかねていたが、それがヴィクターという存在の深奥に関わる何かであることは間違いなかった。
「…私の知る限り、貴殿の母君と接触した記録はない」
ヴィクターの声は変わらず平板だったが、その言葉の裏には、醉妖花の異変に対する高度な分析と警戒が隠されていた。彼の思考ユニットは、醉妖花の瞳の奥の光、彼女の表情の変化、そして「母」という言葉から、骸薔薇の存在とその影響を瞬時に計算に入れていた。
「そう。ならいいのだけれど…」
醉妖花は内心の混乱を押し隠し、努めて軽い口調で言った。
「それで、ヴィクター・フェイザー。私たちは情報を求めている。貴方が『観測』した、亡霊鏡教の動き、あるいは亡霊花ヶに関する新たな情報を」
彼女は、ヴィクターの『心』を直接読むことは一旦諦め、表面的な情報交換へと切り替えた。骸薔薇のこの反応の理由が分かるまでは、下手に深入りするのは危険だと判断したのだ。
「…取引は取引だ」
ヴィクターは頷いた。彼の精神の深層は、Arcane Genesis教の最高水準のプロテクトによって守られており、容易には読み解けない。しかし、今の醉妖花の様子は、そのプロテクトとは別の要因によるものだと彼は察していた。
「亡霊鏡教の主だった活動は、現在、この惑星からは一時的に後退している模様。聖域での敗北と、貴殿の施した守護の理の影響だろう。しかし、『呪い』の残滓や、潜伏している信徒は依然として存在する」
「潜伏している信徒…」
ローラが眉をひそめる。
「そして、亡霊花ヶ本体については、依然としてその全貌は不明。ただし、今回の聖域への干渉失敗により、警戒レベルを引き上げ、より巧妙な手段でこの惑星、あるいは貴殿らへの接触を図ってくる可能性が高い」
ヴィクターは、淡々と分析結果を述べる。
「例えば、どのような手段が考えられるかしら?」
醉妖花が問う。
「精神汚染、情報の偽装、あるいは…貴殿らの内部からの崩壊を誘う策略。亡霊花ヶの思考原理は、我々の理解を超えている。あらゆる可能性を考慮すべきだ」
「内部からの崩壊…」
醉妖花の表情が、わずかに曇った。それは、彼女自身の内に存在する骸薔薇の存在を示唆しているかのようだった。
「情報は感謝するわ、ヴィクター」
醉妖花は気を取り直して言った。
「では、私たちは行くわ。また『お喋り』しに来るかもしれないけど」
「…行動は自由だ。ただし、我々の『観測』を妨げる行為は慎んでもらいたい」
「善処するわ」
醉妖花はそう言い残し、ローラと共に再び砂の上を滑るように廃墟を後にした。
ヴィクターは、人型の半身を機体へと収容し、『False Harbinger』は再び完全な機体形態へと戻った。そして、二人の姿が見えなくなるまで、その場から動かず、多重センサーによる追跡と分析を継続した。
『対象Z… 醉妖花。彼女の『心を読む力』は、単なるテレパシーではない。存在の根幹に干渉し、情報を抽出する能力か…? しかし、先ほどの異変…彼女自身の内部に存在する、記録上の災厄『骸薔薇』の意識が、私の何かに反応し、彼女の能力行使を阻害した可能性が高い。私の精神プロテクトとは異なる次元での干渉…興味深い現象だ』
彼のセンサーが、遠ざかる二人の背後に、もう一つの微弱な、しかし確実に存在するエネルギー反応を捉えていた。それは、醉妖花自身のものとは異なる、禍々しくも強大な力の残滓。
『…骸薔薇。やはり活動状態にあるのか。そして、あの反応…私の存在に骸薔薇が強く忌避する何らかの要素、やはり真樹の苗木が該当すると推測される。あるいは…』
ヴィクターの分析は続く。この惑星は、彼の予想以上に複雑で、危険な『花々』が咲き乱れる庭園なのかもしれない。そして彼は、その庭園の観察者であり、同時に、その運命を左右するかもしれないプレイヤーの一人となりつつあった。
「ねぇ、醉」
廃墟を離れ、赤い砂漠を再び進む中、ローラが口を開いた。
「さっき、ヴィクターと話していた時、急に顔色が悪くなったように見えたけど…本当に大丈夫なの?」
醉妖花は一瞬、ローラの気遣うような視線に戸惑ったが、すぐに力なく微笑んだ。
「ローラの観察眼も鋭くなったね」
彼女は少し間を置いてから続けた。
「うん、少しね。ヴィクターの心を探ろうとしたら、母様が…今までになく強く、何かを拒絶したんだ。まるで、触れてはいけないものに触れようとしたかのように。彼の奥底に、母様が…骸薔薇が、心の底から憎み、恐れる何かが隠されているのかもしれない」
「骸薔薇様が…恐れるもの?」
ローラの声には驚きが混じっていた。あの絶対的な存在である骸薔薇が、何かを恐れるなど信じがたい。
「ええ。理由は分からない。でも、母様のあの反応は尋常じゃなかった。だから、今は彼の心を直接読むのはやめておいた方がいいと思ったんだ」
醉妖花は、空を見上げた。紫色の雲が、不吉な影のように、ゆっくりと形を変えながら流れていく。
「Arcane Genesis教、そしてヴィクター・フェイザー。彼らは、私たちの敵になるのか、それとも…そして、母様が彼に感じたものは何なのか。謎が深まるばかりね」
「今はまだ、分からないわね」
ローラは、醉妖花の隣に並び、同じように空を見上げた。
「でも、どんな相手だろうと、私たちは進むしかない。醉妖花様…ううん、醉のために」
ローラの言葉に、醉妖花は驚いて彼女を見た。そして、心からの笑顔を浮かべた。
「ありがとう、ローラ。君がそう言ってくれるなら、私は何も怖くないよ」
二人は再び手を取り合い、赤い砂漠の地平線を目指して歩き始めた。彼女たちの旅はまだ始まったばかり。多くの謎と危険が待ち受けているだろう。しかし、互いを信じ、支え合う限り、彼女たちの歩みは止まらない。




