第64話 『超越汎心論』
醉妖花はローラを安心させるように微笑むと、通路の奥、湿った足音と何かがきしむ音の響く闇へと向き直った。その瞬間、醉妖花の周囲の空気が変わった。それは単なる雰囲気の変化ではない。通路の壁、天井、床、空気中に漂う砂埃、それらを内在する空間と時間を含む、それら全てが微かに震え、まるで意思を持ったかのようにざわめき始めたのだ。
『超越汎心論』醉妖花の本質、醉妖花にとってあらゆるものに心が存在し、その心を魅了し、束縛する力。今、この地下通路そのものが、醉妖花の美しさを讃えている。
闇の奥から現れたのは、かつてComsonSand教徒であった者たちの成れの果てだった。その体は歪に捻じ曲がり、砕けた甲羅から腐敗した肉組織が所々剥き出しになっている。虚ろな瞳は死の賛美に濁り、ただ亡霊花ヶの祝福を広めんがために動いていた。その祝福に身も魂すら亡霊花ヶを賛美する存在だ。
数にして十数体、狭い通路を脈打つように迫ってくる。
亡霊鏡教の教え、つまり本質は、亡霊花ヶに殺されたものは亡霊花ヶになるというもの。恐らく亡霊花ヶの信徒に殺されたであろうこの者たちは、既に亡霊花ヶの一部となっている。
今の醉妖花の魅了が効いていないからだ。
この地下通路は醉妖花の魅了によって亡霊花ヶの死の祝福から守られている。そうでなければこの地下通路は亡霊花ヶを讃え、全てが死に絶えていただろう
「結界を一つ解きましょう」
言葉が終わると同時に醉妖花が亡霊花ヶの死の祝福を魅了する。本質にすら心を与え、その心を魅了し、束縛し、隷属させる。
平伏する亡者達、既に彼らの信仰は醉妖花にある。
「魂なき骸たち、眠りなさい」
醉妖花が云い終わると同時に亡者たちは砂へと還る。
「あとは地下通路たちに任せて大丈夫、追手が来ても皆、砂に還るよ」
「凄いのじゃー、亡霊花ヶの兵をあんなにあっさりと寂滅させるとは、それになんか美人になってないかおぬし?」
と云いながら醉妖花に飛びつくエレーラだが、
「私を抱きしめていいのはローラだけだよ」
とあっさり撃墜される。そのローラは呆れた様にいう
「花が花に魅了されてどうするのよ。あたしの伴侶になるんじゃなかったの?」
「そうじゃった。やはり醉妖花は妖花なのじゃ。骸薔薇の娘なのじゃ」
「私は正気に戻ったのじゃ。私の心はローラのためだけにあるのじゃー!!」
大笑するエレーラ。そのエレーラを醉妖花が抱きしめる。
「大丈夫、屋敷に残った人たちは無事だよ。亡霊鏡教は私たちを優先して狙ったみたいだ」
「これから屋敷を襲うにも、地下通路と同じく私の祝福をルビークリフの街全体にかけてあるから心配することは何もないよ」
醉妖花の顔を仰ぎ見るエレーラ
「本当か、本当に皆無事なのか」
「醉妖花は妖花、そして骸薔薇の娘。亡霊鏡教、恐れるに足りず。我を恐れよ!」
芝居がかった口調で、しかし絶対的な威厳をもって醉妖花が言い放った。その言葉は、単なる虚勢ではなく、彼女が持つ力の片鱗を確かに示していた。地下通路の壁が微かに震え、埋め込まれた赤い結晶が一層強く輝き始める。まるで通路そのものが、主の言葉に呼応するかのように。
「はわわ…」
エレーラは、先ほどまでの勢いはどこへやら、醉妖花の圧倒的な存在感に気圧され、小さな声をもらした。醉妖花に抱きしめられたまま、その顔を見上げる瞳には、畏敬と、ほんの少しの安堵が浮かんでいる。
「まったく…」
ローラは、やれやれといった表情で首を振った。
「そういうところ、本当にお母様にそっくりね」
「私は母様の娘だからね。どうしても影響を受けてしまうよ。でも、逆もまた真なり、母様も私の影響を受けていると思うよ?たぶん?もしかしたら?いやでもあるのかなあ、そんなこと
「わかったわよ。かっこよかったわ。醉」
ローラにそう言われ、醉妖花は一瞬きょとんとした後、破顔した。それは先ほどの威厳に満ちた表情とは打って変わって、年相応の少女のような、屈託のない笑顔だった。
「そうかな? ローラに褒められると嬉しいな」
抱きしめられていたエレーラは、そのギャップに目を白黒させている。バステは相変わらず表情を変えずに、しかし警戒は怠らず周囲を見回していた。
「さ、感傷に浸っている場合じゃないね」
醉妖花はエレーラの肩を優しく叩き、立ち上がらせた。
「バステ、先を急ごう。追手が来ないとは限らない」
「かしこまりました、醉妖花様」
バステは短く応えると、再び先導を始めた。地下通路の赤い結晶が放つ光が、四人の影を長く伸ばす。
通路を進むにつれて、空気はさらに重く、淀んでいくように感じられた。時折、壁の向こうから、何かが崩れるような音や、遠い叫び声のようなものが聞こえてくる。ルビークリフの街全体が、亡霊花ヶの死の祝福によって静かに蝕まれているのかもしれない。
「ねぇ、醉」
ローラが小声で尋ねる。
「街の人たちは大丈夫なの? あなたの祝福があるって言ってたけど…」
「うん、直接的な被害はないように守ってはいるよ。でも、亡霊花ヶの力は精神にも干渉するからね。恐怖や絶望を感じている人たちはいるかもしれない」
醉妖花の声には、わずかな翳りがあった。
「だからこそ、早く聖域に行って、エレーラの仲間たちと合流しないと。ここから反撃の狼煙を上げるんだ」
「反撃… 私たちだけでできるのかしら」
エレーラが不安そうに呟いた。姉を失い(あるいはそう信じ)、教団の危機を目の当たりにして、彼女の心は揺れていた。
醉妖花は振り返り、エレーラの肩に手を置いた。
「私がいる。ローラがいる。そして、君にはバステも、これから会う仲間たちもいる。それに…」
醉妖花は悪戯っぽく笑った。
「私の眷属たちも黙っていないと思うよ?」
その言葉に、エレーラだけでなくローラも少し目を見開いた。
「月跡さんたちが来てくれるの?」
「月跡達だけではないよ。ノキも暁鐘も華命玉もいる」
醉妖花は自信ありげに微笑んだ。その笑顔は、不安を打ち消す不思議な力を持っていた。
やがて、通路の先に外の光が見えてきた。出口だ。
「着きました。ここからは砂漠を少し進みますが、乗り物は確保してあります」
バステが報告する。
四人は出口から外に出た。そこは、ルビークリフの切り立った崖の中腹にある、隠されたテラスのような場所だった。眼下には広大な赤い砂漠が広がり、遠くには陽光を反射して輝く巨大な結晶柱がいくつも聳え立っている。




