第123話 『極彩色』
その視線に応えるかのように、宇宙空間に、涼やかな、しかし絶対的な響きを持つ声が浸透した。
「――騒がしいな。私の世界で、勝手な理を押し付けないでもらいたい」
戦場の中心。
亡霊花ヶの放つ「死の波紋」が最も濃く渦巻き、月跡やほたるの機体さえも腐食させようとしていた爆心地に、一人の青年が音もなく現れた。
華命玉天。
彼は、宇宙空間であるにも関わらず、素足で虚空を踏みしめていた。その身に纏うのは、簡素な衣のみ。リレイフレームのような装甲も、結界すらも展開していない。
それでも、襲い来る「死」の概念は、彼の肌に触れることすらできず、その数センチ手前で霧散していく。
彼は、散歩の途中で立ち止まったかのように優雅に、右手を上げた。
そして、人差し指で、虚空に一本の線を引く。
「止まれ」
ただそれだけで。
星系を飲み込まんとしていた黒い波濤が、ピタリと「停止」した。
時間が止まったのではない。
物理的な慣性が消えたのでもない。
この空間における「死ぬ」という結果、「腐敗する」というプロセス、「進行する」という因果が、世界のルールブックから一時的に除外されたのだ。
「私がここにいる限り、世界は老いず、滅びず、ただ在り続ける。……ここはまだ、終わる場所ではないよ」
華命玉天は、凍りついた黒い波紋を眺め、つまらなそうに鼻を鳴らした。
彼の本質は「維持」。
どれほど強大な破壊の力が働こうとも、彼が「在る」と定義したものは、その状態を強制的に維持される。それは、エントロピーの増大すら否定する、神域の権能。
だが、彼にできるのは「止める」ことまでだ。
押し寄せた莫大な「死」の質量そのものが消えたわけではない。ダムが塞き止められたように、行き場を失った呪詛が、境界線で渦を巻き、今にも決壊しようと軋みを上げている。
「さて、溜まったゴミは掃除しなくてはね。……益雄殿」
華命玉天が、背後を振り返る。
空間が歪み、まるで水面下から浮上するように、一人の男が転移してきた。
瑚沼崎益雄。
かつての人間の姿を保ってはいる。くたびれたスーツに、どこか人の好さそうな中年男性の顔。
だが、その背中には、目に見えない、しかし誰もが本能で理解できる「何か」が揺らめいていた。
それは、阿修羅や明王を思わせる怒りの形相であり、同時に、飢えた野獣が涎を垂らす捕食のオーラ。
ノキの手術によって暁鐘統合元帥の神威を宿し、ヴィクターの甘美な猛毒を喰らい続けた結果、彼は人の枠を外れ、「人造の神」として完成されていた。
益雄は、華命玉天によって「停止」させられた、星団規模の死の塊を見上げた。
それは、普通の生物なら視界に入れただけで発狂するほどの、純粋な悪意と絶望の集積体だ。
しかし、益雄は、ネクタイを緩め、静かに手を合わせた。
「……頂きます」
彼は、大きく口を開けた。
物理的な顎の開閉ではない。
彼の背後に揺らめく「捕食のオーラ」が、概念的な巨大な顎となって顕現し、宇宙空間を上下に裂くように展開した。
益雄が息を吸い込む。
すると、華命玉天によって止められていた「死の概念」そのものが、物理的な質量を持った濁流のように渦を巻き、益雄の口腔へと吸い込まれていった。
「な……っ!? アレを、喰ってるのか!?」
ミントが、モニター越しに絶叫する。
毒を。呪いを。死を。
概念的な汚染物質を、物理的なエネルギーとして咀嚼し、嚥下する。
それは「浄化」などという生易しいものではない。もっと原始的で、もっと冒涜的な「捕食」だった。
真空の宇宙に、空間がきしむごとき咀嚼音が響く。
「ぐ、ぉ……ッ!!」
益雄の皮膚が裂け、内側からまばゆい光と、どす黒い闇が同時に漏れ出す。
神の体を得たとはいえ、「死」そのものを喰らうことは、体内で爆発を連続して起こされているに等しい激痛を伴う。彼の内臓は焼け爛れ、血管は破裂し、肉体は崩壊と再生を秒単位で繰り返している。
その余波だけで、周囲の時空が粉砕され、消失していく。
それでも、益雄は喰らうことを止めない。
亡霊花ヶが送り込んだ、数十億年分の死の集積を、たった一人の胃袋が飲み干していく。
やがて、眼前の宙域を埋め尽くしていた黒い波が、最後の一滴まで吸い尽くされた。
「……ッ、ぷはぁッ……!」
益雄は、大きく息を吐き出した。
吐き出された呼気は、虹色の熱線となって宇宙の闇を切り裂いた。消化しきれなかったエネルギーの余剰放出だ。
彼は、口元の血(それは赤ではなく、金色の光だった)を袖で乱暴に拭い、ニヤリと笑った。
その笑顔は、かつての温厚な中年男性のものではなく、敵を喰らい尽くして哄笑する、荒ぶる守護神のそれだった。
「……不味い。泥と腐肉、それに古びた油の味だ」
益雄は、腹をさすりながら、忌々しげに吐き捨てた。
「だが、腹には収まる。これなら、もう少し皆を守れそうだ」
彼の身体からは、先ほどまでとは比較にならないほどの神威が溢れ出していた。敵の力を喰らい、己の糧とする。最強のタンク役が、ここに誕生していた。
「見事な健啖家ぶりだ。……だが」
華命玉天の涼やかな瞳が、宇宙の深淵を見据える。
益雄と華命玉天の介入により、前線の崩壊は食い止められた。
だが、彼らが処理したのは、あくまで亡霊花ヶから溢れ出した「余波」に過ぎない
。
宇宙の深淵から、巨大な「黒い花」が、その全貌をゆっくりと現し始めた。
それは、惑星サイズなどという生易しいものではない。多宇宙そのものを苗床とする、絶望的な規模の「死」の具現。
その花弁がわずかに開いただけで、華命玉天が展開していた「維持の理」に亀裂が走り、益雄の再生速度が追いつかなくなる。
「……量が、違う」
益雄が呻く。彼の胃袋はまだ余裕がある。しかし、これ以上喰らえば、彼自身が「死」に変質してしまう。
紫星城の司令室で、ノキ=シッソが冷徹に告げた。
「限界ですね。華命玉天様と益雄殿の防波堤も、本体の質量の前では数分と持ちません。……次の手を」
彼は、通信回線を開いた。
接続先は、紫星城の地下、ではなく。
今や戦場の最前線、益雄たちのさらに前に位置取っている、漆黒の機体へ。
『――状況は把握している』
『False Harbinger』から、ヴィクター・フェイザーの合成音声が返った。そこには、迷いも、恐怖もない。あるのは、静かな覚悟だけだ。
『華命玉天殿と益雄殿が作った一瞬の隙。……これを無駄にはしない』
ヴィクターの声が、わずかに熱を帯びる。
『許可を求める。Yggdrasil-System、限定解放。私の「本質」を、武器として使用する』
ノキは、一瞬だけ苦渋の表情を浮かべた。
それは、ヴィクターが「さいなまれる大樹」の一部となることを意味する。下手をすれば、亡霊花ヶを倒した後に、ヴィクターという新たな災厄が世界を飲み込むことになる諸刃の剣。
しかし、ノキは即座に承認した。庭師として、最悪の中で最善を選ぶために。
「ええ。毒を以て毒を制す。庭師としては最悪の手ですが、枯れるよりはマシです。……戻ってきてくださいよ、お兄様」
『……善処する』
ヴィクターの機体が、内側から破裂するように変形を開始した。
漆黒の装甲が弾け飛び、機械的なパーツが融解し、再構築されていく。
その中から現れたのは、禍々しくも美しい、透き通るような「白」だった。
それは、雪ではない。光でもない。
「存在の完全な消去」を具現化した色彩。
亡霊花ヶの「死」に対抗しうる唯一の力、「虚無」。
「……現れろ。さいなまれる大樹よ」
ヴィクターの背中から、光の翼のように、巨大な白い枝が広がった。
それは物質的な枝ではない。空間の亀裂そのものが、枝の形をとって成長していく。
白い枝は、宇宙空間を侵食し、迫りくる亡霊花ヶの「黒い根」に絡みついた。
接触した瞬間。
絡みついた場所から、音が消える。光が消える。色が消える。
「死ぬ」ことすら許されない。「無」へと還元されていく。
亡霊花ヶの侵攻が、物理的に削り取られて止まった。
「死」の概念が、「虚無」によって相殺されたのだ。
だが、その代償はヴィクター自身に跳ね返る。
コックピットの中で、ヴィクターの精神は白く塗りつぶされようとしていた。
視界がホワイトアウトする。感情が、記憶が、真っ白なキャンバスに巻き戻されていく。
(これが……虚無……甘美だ……)
思考が溶ける。
戦う理由も、守るべきものも、全てがどうでもよくなるような、絶対的な安らぎ。
このまま、全てを終わらせてしまえばいい。自分も、敵も、世界も。
自我の境界線が溶け、彼自身が「個」を失い、大樹そのものになろうとした、その時。
『戻ってきてヴィクター! 貴方は木じゃない! 私たちの夫よ!!』
『消えないで! 私たちが貴方を定義する!』
『貴方のカタチは、ここにあるわ!!』
絶叫が、彼の精神に突き刺さる。
機体に強制接続したQuartz Gestalt(12姉妹)たちの声だ。
彼女たちは、自らの構成データ、その命とも言えるリソースを犠牲にして、ヴィクターの 精神を現世に繋ぎ止める「楔」となった。彼女たちの愛と執着が、虚無の海に打ち込まれた杭となり、ヴィクターの自我を繋ぎ止める。
「……ああ。そうだったな」
ヴィクターの瞳に、理性の光が戻る。
彼は、白く染まりかけた視界の中で、背後の紫星城を、そしてその地下で眠る少女のことを思った。
「私は、ここで枯れるわけにはいかない」
白い大樹が、亡霊花ヶを押し留める。
それは、自らを薪にして燃え上がる、最期の、そして絶対的な防壁だった。
神が喰らい、維持者が支え、虚無の樹がせき止める。
宇宙の理すら歪む極限の均衡。
しかし、それすらも時間の問題だった。亡霊花ヶの圧倒的な質量が、ヴィクターの虚無をも飲み込み、益雄の許容量を突破し、紫星城へと届こうとしていた。
「……チェックメイト、ですか」
ドミニエフが、杖を落とし、天を仰ぐ。
彼の「全ツッパ」も、ここに来て尽きた。金で買える時間も、もう残っていない。
その絶望の淵で。
紫星城の地下深く、「開かずの間」。
巨大な繭の傍らで、植物化から回復し、祈るように座っていたローラが、カッ、と目を見開いた。
彼女の瑠璃色の瞳が、戦場の悲惨な現状ではなく、その先にある「確定すべき未来」を捉える。
「――いいえ、違う」
ローラは立ち上がり、黒曜星の刃を抜いた。
彼女は、目の前の巨大な繭に向かって、叫んだ。祈りではなく、叱咤激励のように。
「ここで終わる物語じゃない! ここで『咲く』物語よ! 起きなさい、醉! あなたの庭が、荒らされているわよ!!」
彼女の「観測」が、未来を決定づけた。
宇宙の真空に、硬質な音が響いた。
ヴィクターでも、益雄でも、華命玉天でもない。
戦場を満たしていた「死」と「虚無」の圧力が、唐突に、霧散した。
否。
「塗り替えられた」のだ。
紫星城の繭に、亀裂が走る。そこから漏れ出したのは、光ではない。
圧倒的な「極彩色」だった。
赤、金、青、白。
あらゆる色が混ざり合い、しかし濁ることなく、鮮烈な「生」と「美」の波動となって、宇宙空間へと広がっていく。
亡霊花ヶの黒い根が、その極彩色に触れた瞬間、恐怖したように縮こまる。
ヴィクターの白い虚無が、その極彩色に触れ、穏やかなただの「機体」へと戻っていく。
轟音も衝撃もなく。
ただ、世界の主役が交代したことを告げる、絶対的な静寂。
割れた繭の中から、一人の少女が、ゆっくりと姿を現した。
黒漆の髪は宇宙の闇より深く、真珠の肌は星々より輝き、ラピスラズリの瞳は全ての理を見透かす。
その背後には、亡霊花ヶすら霞むほどの、巨大で、妖艶で、そして神々しい「花」の幻影が咲き誇っていた。




