第119話 『傲慢な「求愛」』
時間すらも凍てつき、物理法則が意味をなさなくなった虚無の檻の中で、ヴィクター・フェイザーの意識は、白いノイズの海に沈みかけていた。
自己の消失。英雄としての記憶の摩耗。そして、「さいなまれる大樹」としての、甘美で残酷な本能の覚醒。
だが、その完全なる消失の寸前で、一筋の光が――瑠璃色の、揺るぎない「観測」の光が、彼の意識の核を繋ぎ止めた。
『――ヴィクター。起きて』
耳元で、いや、魂の芯で、ローラの声が響く。
それは命令ではない。絶対的な信頼と、彼が彼であることを疑わない、強烈な肯定。
『――「虚無」は、世界を終わらせるためにあるんじゃないわ。彼女(醉)の通る道を、綺麗にするためにあるのよ――』
カッ、と。
ヴィクターの思考ユニット(魂)の中で、エラー音が止んだ。
代わりに、新たなコマンドラインが、焼き付くように走る。
<< System Reboot... Override Authority: "Trust" >>
<< Role Definition Updated: "Guardian of the Path (Road Clearer)" >>
「……了解した」
ヴィクターは、ヘルメットの奥で静かに目を見開いた。
彼は、もはや暴走する大樹の芽ではない。
彼は立ち上がる。主君のために露払いをする、忠実なる「黒衣の従者」として。
「行こう。……素晴らしい『宴』の始まりだ。
紫星城の床が、音もなく、しかし物理的な抵抗を無視して透過するように割れた。
そこから現れたのは、泥や瓦礫ではない。
一切の色を持たない、純白の「虚無」の柱。
それが、玉座の間の天井まで突き抜け、降り注ぐ「死の雪」と、城を圧壊せんとする「亡霊花ヶの影」の間に、絶対不可侵の壁となって立ちはだかった。
「お待たせいたしました」
白き虚無の中から、漆黒の機体――『False Harbinger』が、音もなく滑り出る。その姿は、先ほどまでの禍々しさを完全に制御し、研ぎ澄まされた刃のような冷徹さを纏っていた。
「ヴィクター……!」
植物化の進んでいたローラの身体から、緑色の侵食が嘘のように引いていく。彼女の意識は、ヴィクターの機体とリンクし、その侵食を「観測」によって除去しているのだ。
玉座に立つ醉妖花は、現れた黒騎士を一瞥し、満足げに口角を上げた。
「遅いわ、ヴィクター。エスコートの準備は?」
機体から、ヴィクターの合成音声が響く。
「万端だ。貴殿のドレスの裾を汚す塵は、この『虚無』が全て拭い去ろう」
ヴィクターが機体の腕を振るう。
物理的な衝撃波ではない。
彼が放ったのは、空間に存在する「死」の概念そのものを、一時的に「無かったこと」にする、局所的な因果消滅領域。
醉妖花から見て、亡霊花ヶの影へと続く直線上の空間。
そこに舞っていた死の雪、漂っていた腐臭、そして絶望的な圧力。
それら全てが、ヴィクターの振るった腕の軌跡に合わせて、綺麗さっぱりと「消失」した。
まるで、レッドカーペットを敷く前の、徹底的な清掃のように。
そこには、塵一つない、清浄なる「無」の道が開かれた。
「上出来ね」
醉妖花は、その道を、優雅に歩き出した。
彼女は、頭上を覆う巨大な影を見上げる。
それは、銀河団一つを容易く飲み込むほどの絶望的な永久尽界と、触れれば魂ごと凍りつく死の冷気を放っている。
だが、醉妖花は怯まない。
彼女は、ドレスの裾を翻し、まるで舞踏会のパートナーに手を差し伸べるかのように、虚空へ向かって右手を伸ばした。
「さあ、ご挨拶なさい」
醉妖花の声は、鈴を転がすように美しく、そして絶対零度の冷たさを帯びていた。
「貴女は『死』。万物を終わらせる寂滅の王。……でも、その虚ろな心は、本当は何を求めているのかしら?」
彼女の本質――【超越汎心論】が発動する。
それは、対象を物理的に破壊する力ではない。
あらゆる存在、あらゆる現象、たとえそれが「死」という概念そのものであっても、そこに「心」を見出し、強制的に「こちら側」へと振り向かせる、根源的な『魅了』の力。
『――貴女は、安らぎを与えたいのではない。貴女自身が、満たされたいのでしょう?――』
醉妖花の言葉が、物理的な音波を超え、亡霊花ヶの影の核へと直接染み込んでいく。
『――偽物の安らぎで誤魔化すのはおよしなさい。貴女のその底なしの空虚を埋められるのは、死の静寂ではないわ――』
醉妖花の瞳が、妖しく煌めく。
『――私よ。この私、醉妖花という圧倒的な「美」と「支配」だけが、貴女の存在意義を満たしてあげられる――』
巨大な影が、震えた。
それは攻撃の予兆ではない。
あまりにも高貴で、あまりにも傲慢な「求愛」を前にして、存在の根幹が揺さぶられているのだ。
死とは、生の対極にあるもの。
ゆえに、生者からの恐怖、拒絶、あるいは諦めを糧とする。
だが、目の前の少女は違う。
彼女は、死を恐れないどころか、死を「口説いて」いる。
「私のものになりなさい」と、当然のように命じている。
その、圧倒的な「格」の差。
『――ア、アア……――』
影から、呻き声のような、あるいは感嘆の吐息のような音が漏れた。
「膝を折りなさい。無粋な雪など降らせていないで、その身を以て、私を飾り立てなさい」
醉妖花が、伸ばした手を、くい、と下へ向けた。
その瞬間。
紫星城を押しつぶさんばかりに膨れ上がっていた巨大な影が、崩れた。
形を保てなくなったのではない。
自らの意志で、その巨体を縮め、低く、低く、醉妖花の足元へと滑り込ませたのだ。
それはもはや、脅威の影ではない。
王の足元に敷かれる、最高級のベルベットの絨毯のように、恭しく平伏する「下僕」の姿だった。
そして、影の中に飲み込まれていた『Kristallpalast』が、まるで王への貢ぎ物を差し出すかのように、そっと、丁寧に吐き出された。
「……信じられない……」
吐き出されたKristallpalastの制御室で、我に返ったアメシスト・ミューが、モニター越しの光景に息を呑む。
12人の姉妹たちを悪夢に陥れ、世界を終わらせようとしていた「死」そのものが、たった一人の少女の言葉に、震えながら跪いている。
「これが……この世界の、正しい姿よ」
地下で、ローラが呟いた。
彼女の瑠璃色の瞳が、その光景を「観測」する。
死は消えない。恐怖も消えない。
だが、それらはもはや、世界を支配する理ではない。
醉妖花という、絶対的な「美」を引き立てるための、暗い背景。
彼女のドレスを飾る、黒いレース。
「観測完了。……『死の跪拝』、確定」
ローラの観測によって、その上下関係は、宇宙の揺るぎない「事実」として固定された。
静寂が戻った玉座の間。
醉妖花は、自らの足元に平伏した巨大な影を、カツン、とヒールで踏みしめた。
「……良い子ね」
彼女は、冷たく、しかし慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。
「貴女のその虚ろな忠誠、悪くないわ。私の庭の『影』として、飼ってあげる」
そして、彼女は顔を上げ、影の向こう側――次元の彼方に潜む「本体」を見据えた。
「さあ、案内なさい。貴女の体の元へ」
醉妖花の命令を受け、足元の影が蠢く。
次元を切り裂き、亡霊花ヶの本体が潜む「嘆きの玉座」へと続く、最も安全で、最も速やかな「道」を開くために。
世界を絶望させる「死の影」は、今や、女王の凱旋を導く「案内人」へと自ら務めを変えた。
「参りましょう、皆様」
醉妖花は、ノキ、ヴィクター、そして意識を取り戻したローラたちを振り返り、優雅に告げた。
「本物の『美』を、餓えた者に、与えなくてはね」
その背中は、もはや守られるべき少女のものではない。
宇宙の全ての理を――生も、死も、虚無さえも――その掌の上で弄ぶ、「悪役令嬢」にして「太母」の、絶対的な威厳に満ちていた。




