103話 「前進」
八十八重宇段大天幕、第四天幕。
そこは、時間という概念が存在せず、故に空間という境界もまた意味をなさない領域だった。始まりも終わりもない、無限の「今」だけが広がる純白の虚無。神、あるいはそれに準ずるほどの存在でなければ、この場に立つことはおろか、その存在を認識することすら叶わない。
その純白の中心に、二つの影があった。
一人は、涼やかな青年――否、あらゆる時間と存在を超越した神、華命玉天。その佇まいは、風にそよぐ柳のようにしなやかでありながら、宇宙の全ての法則をその身に束ねるかのような、絶対的な静けさを湛えていた。
そして、もう一人が、手術を終えたばかりの、瑚沼崎益雄だった。
彼の外見は、以前と何ら変わらない。しかし、その瞳の奥に宿る光は、明らかに異質なものへと変貌していた。それは、かつて彼が持っていた人の温かみとは違う、宇宙の深淵そのものを覗き込むかのような、静かで、そして底知れない輝き。
「…では、始めようか。益雄殿」
華命玉天の声は、音としてではなく、益雄の魂に直接響き渡った。
「お手柔らかにお願いします、とは言いません。全力で参ります」
益雄もまた、思考で応える。彼の周囲の純白の虚無が、彼の意志に呼応するように、わずかに黒く揺らめいた。それは、彼の中に宿った、暁鐘統合元帥の力の残滓――「闇」だった。
「結構。君という『新たな理』が、この世界にどのような影響を及ぼすのか。世界の維持者として、見定める必要がある」
華命玉天はそう告げると、すっと右手の指先を上げた。
ただ、それだけの動作。
しかし、益雄の全存在が、見えざる絶対的な法則によって「固定」された。動けない。思考すらも、純白の虚無に縫い付けられたかのようだ。
これが、神の力。世界の理そのものを制定する、絶対者の権能。
「ぐ…ッ…!」
益雄は、内なる力の全てを振り絞り、その束縛に抗う。魂の奥底で、神威の奔流を喰らい尽くした「人喰い」の本質が、再び牙を剥いた。
――喰らう。
この、自らを縛る「理」そのものを、喰らい尽くす。
彼の周囲の「闇」が、急速にその濃度を増し、華命玉天の定めた「理」を侵食し始めた。純白の虚無に、黒い亀裂が走る。
「ほう…」
「世界の法則を、喰らうか。面白い。ならば、これはどうかな?」
華命玉天が、今度は左手の指先を、静かに下ろす。
瞬間、益雄を縛っていた「固定の理」が消え、代わりに、彼の存在そのものを「消滅」させるための、新たな理が制定された。
黒い亀裂は、より強力な純白の光によって瞬時に修復され、益雄の身体――否、彼の存在そのものが、足元から光の粒子となって霧散し始める。
「――まだだ!」
益雄は吼えた。思考の咆哮が、虚無を震わせる。
彼は、自らの魂に宿した神威を、完全に解放した。それは、もはや彼自身の力ではない。宇宙の狭間に潜む、暁鐘統合元帥の「本体」から流れ込む、根源的な力の奔流。
霧散しかけていた彼の身体が、闇のオーラを纏い、再構成される。
そして、彼は一歩、踏み出した。時間も空間もないこの領域で、初めて「前進」という概念を、自らの意志で創造したのだ。
その一歩は、華命玉天の定めた「消滅の理」を、強引に踏み破った。
純白の虚無に、確かな足跡が刻まれる。
その光景を前に、それまで益雄を試すかのように厳しい視線を向けていた華命玉天の表情が、ふっと和らいだ。
「…見事だ。益雄殿」
彼の声には、魂に直接響きながらも、どこか穏やかな響きがあった。
「君は、確かに、神の領域に足を踏み入れた」
そう言うと、華命玉天は両手を広げた。
彼の背後に、この宇宙の全ての始まりと終わり、あらゆる因果と法則が描かれた、巨大な曼荼羅のような光輪が出現する。
「これより、君の『神威』を、この世界に正しく『刻印』する」
純白の虚無の中で、益雄という新たな神は、自らが踏み破った「理」の残滓と、己の内に満ちる底知れない力の奔流を、ただ静かに感じていた。
その彼の前に立つ、涼やかな青年の姿をした神――華命玉天は、それまでの厳しい「試験 官」としての表情を解き、まるで完璧な数式が証明されたのをその目で目撃したかのような、静かで、知的な満足感に満ちた微笑みを浮かべた。
「暁鐘の『闇』を喰らい、私の『理』すらも自らの糧とするか。ノキは、この庭に、実に興味深い『新たな法則』を咲かせたものだね」
その態度は、感情的な歓迎ではない。世界の維持者として、自らが管理するシステム(世界)に誕生した、予測不能で美しい「新たな変数(益雄)」の出現を、冷静に、しかし高く評価しているものだった。
華命玉天は、涼やかな佇まいのまま、理を説くように語りかける。
「さて、益雄殿。君という『新たな理』が生まれた以上、それをこのまま放置しておくことは、世界の調和を乱す要因となりかねない」
「この庭の全ての理は、ただ御一方…庭の主である骸薔薇様の御心へと収束する。君という存在を、主の御前で披露し、その御心に適うものか否か、審判を仰ぐ必要がある。それが、この庭に新たに咲いた花の、定められた『儀式』だよ」
彼の提案は、親切心からではなく、世界の秩序を保つための、必然的なプロセスとして、極めて事務的に、しかし有無を言わせぬ響きで語られた。
益雄は、その言葉の真意を理解し、静かに頷いた。
「そこでだ」
華命玉天は、世界の構造を解説するかのように、静かに告げる。
「主への言上には、君という『理』の本質を示すための『サンプル』が必要だ。君の魂の輝き、その根源的な法則の写し身を、私に預けてほしい」
「私がそれを解析し、主が最も理解しやすい形で言上しよう。君という複雑な『数式』を、主という絶対的な『公理』に、正しく接続するためにね」
それは、未知の法則を既存の法則体系に組み込むための「仕様書」あるいは「APIキー」を要求するような、極めて技術的で冷静な提案だった。
益雄は、この神の、感情を排した合理性を前に、しばし黙って華命玉天を見つめ返していたが、やがて、ふっと息を漏らすように笑った。
「…あなた様も、大概、物好きでいらっしゃる」
彼はそう言うと、自らの魂に深く潜り、その本質たる「人喰い」の権能を、一つの黒い宝珠のような形に凝縮し、具現化させた。それは、彼の魂そのもののかけら。
華命玉天は、その宝珠を、未知の鉱物を鑑定するかのように、冷静な興味を持って受け取った。
「ああ、素晴らしい。実に美しい『解』だ。これならば、主もきっとご満足されることだろう」
彼が宝珠を握りしめた瞬間、儀式は完了した。
華命玉天の背後に浮かんでいた巨大な曼荼羅の光輪から、一本の静かな光の糸が伸び、益雄の魂へと静かに触れる。それは、華やかな「祝福」ではない。世界の法則に新たな存在が組み込まれたことを示す、静かで厳粛な「承認」の光だった。
「これで儀式は完了した。君はもう、ただのバグではない。この世界の新たな『理』の一つとして、正式に認められた」
華命玉天は、最後に静かな笑みを浮かべた。
「…さて、庭師が不在の今、君を主に紹介するのは、私の役目だ。最高の舞台が、君を待っているよ」
その最後の言葉は、友人への呼びかけではない。世界の調和を愛する者が、新たに見つけた美しい変数(益雄)が、これからどのような役割を演じるのかを、心から楽しみにしている、純粋な期待感の表明だった。
純白の虚無の中で、二人の神は、それぞれの役割を静かに確認し合った。それは、宇宙の法則を書き換える、あまりにも重大な儀式でありながら、どこか、新たな定理の証明を見届けた研究者たちの、静かな満足感に満ちたやり取りのようでもあった。




