101話 『危険な手術』
八十八重宇段大天幕、その第五幕。暁鐘統合元帥の私的な領域であるはずの天幕は、その主の性質を反映してか、華美な装飾を一切排した、機能的で広大な空間だった。そして、その一角に設けられた医局は、さらに異質な空気を放っていた。
影という概念が存在しないかのように、天井全体から放たれる色温度の高い純白の光。その光に照らし出されているのは、塵一つない白磁の床と、壁一面に整然と並べられたガラスシリンダーの群れだ。
シリンダーの中では、透き通った特殊な液体に満たされ、かつてこの宇宙に存在した、あるいは存在し得たかもしれない、異形・奇形の生物組織が、永久尽界によってその時を止められ、静かに浮遊している。それらは、おどろおどろしさとは無縁の、ただ静謐な「医学標本」として、学術的な美しさすら湛えていた。
その医局の中央。無機質な手術台の上に、瑚沼崎益雄は静かに横たわっていた。
彼の傍らには、六つの腕を胸の前で組んだ暁鐘統合元帥が、不動のまま佇んでいる。
「…益雄殿。本当に、悔いはないか」
暁鐘の重々しい声が、静寂に響く。
「今更ですよ、元帥殿」
益雄は、天井の白い光を見つめたまま、穏やかに答えた。
「みつらぼしのあの子たちを守るためだ。それに、まな板の上の鯉が、今更ジタバタしても見苦しいだけでしょう」
「しかし、これから行うのは、ただの手術ではない。貴殿という存在の、再定義だ。もはや、元の貴殿には戻れぬかもしれん」
「はは、元から人間とは言い難い身の上ですよ。今更です」
その飄々とした会話を、どこか楽しげな、しかし絶対零度の響きを持つ声が遮った。
手術用のトレイに、見たこともない形状の、しかし完璧な滅菌処理が施されたであろう器具を並べながら、執刀医が振り返る。その白衣には、いつもは付けるであろう、悪趣味なフリルやレースは一切なく、ただ機能性だけを追求した、無駄のないデザインだった。
「雑談はそのくらいにしていただけますかな」
ノキ=シッソ首席補佐官の表情には、いつもの飄々とした笑みが浮かんでいたが、その瞳の奥には、一切の感情を排した、冷徹な光が宿っていた。
「いやはや、面白いことになりました。あのひな鳥…淵晶帝は、私が貸してあげたオモチャで、本気でこちらから醉妖花様を奪う気でいるらしい。実に愉快だ。実に、面白い」
彼の言葉には、自らが作り出した盤面の上で踊る駒を眺める、かすかな喜びが滲んでいた。
「もちろん、私一人でも、あの程度の座興の後始末はいつでもできます。ですが」
ノキは、ふっと笑みを消した。その口調は軽やかだが、内容は重い。
「私の個人的な『面白さ』と、我が主の御庭の『安全』。これを天秤にかけるまでもないでしょう? 小鳥が害虫を駆除するならともかく、花芽を食べようとするならば、庭師としては、当然の務めです」
彼の瞳には、リスクを徹底的に排除し、状況を完全に掌握しようとする、冷徹な支配者の光が宿っていた。
「元帥殿の体組織で他人を再構築するなんて、狂気と冒涜の極みを支配すると宣言するようなもの。我がごとならよくやりますよ。ですが、これ以上の『保険』もないでしょう?」
ノキは、益雄へと向き直った。その視線は、執刀医が患者に向ける、冷徹で分析的なものだった。
「益雄さん。貴方が選ばれた理由は、もうご存知のはずだ。貴方の血筋は、元帥殿の本体…宇宙の狭間に潜む『それ』から枝分かれした、まあ、遠い遠い親戚みたいなものです。そして、貴方の『人喰い』という本質が、元帥殿の力を取り込むための、唯一の鍵となり得る」
彼は、まるで簡単なレシピでも説明するかのように続けた。
「いわば、ジェネリック暁鐘統合元帥の創出。それが、この手術の目的です。成功すれば、我々は月跡に匹敵、あるいはそれ以上の存在を得る。失敗すれば…まあ、その時はその時。別のプランを考えます」
ノキは、ラテックスの手袋をはめる音すらも優雅に響かせると、メスを手に取った。いや、それはメスではない。彼の指先から伸びた、永久尽界そのものが形作る、光の刃だった。
「では、始めましょうか」
光の刃が、益雄の胸元に、触れるか触れないかの距離で、静かに下ろされていく。血も、肉が裂ける音もない。ただ、益雄という存在の境界線が、その光によって滑らかに、そして静かに「開かれて」いった。
「まずは、貴方の頑健な身体を構成する永久尽界を分解しながら、元帥から切り離した永久尽界に溶け込ませます。あなたの体を構成する永久尽界は消失に近い状態になるでしょう。その状態で貴方の本質、つまり魂を構築する永久尽界を維持できるかは施術の正否を問わず貴方次第です。」
ノキの額に、極度の集中により眉がかすかに動いた。暁鐘統合元帥は、自らの六つの腕のうちの一本を、静かに手術台へと差し出す。その腕から、闇が滲み始めた。
人造の神を創造する、あまりにも危険な手術の幕が、静かに切って落とされた。
ノキの指先から伸びた光の刃が、益雄の胸元へと沈み込む。しかし、そこに肉を裂く感触も、血が滲む光景もない。益雄という存在の境界線が、まるで夜の闇に引かれた光の線のように、静かに、そして滑らかに「開かれて」いった。
「…これより、第一段階に移行します」
ノキの呟きと同時に、彼の背後に複雑怪奇な幾何学模様を持つ、彼自身の永久尽界が展開された。それは、無数の歯車と神経回路が絡み合った、巨大で精密な天球儀のようであり、医局の純白の光を乱反射させ、壁一面の標本シリンダーに無数の虹色の影を落とす。
執刀医は、今や二つの全く異なる対象に、その意識と能力を完璧に分割していた。
一方の手――光の刃を握るそれは、益雄の身体を構成する永久尽界の深層へと潜り込んでいく。まるで未知の大陸の地図を読み解くように、彼の肉体と魂を繋ぎ止める無数の法則の結び目を特定し、一本一本、解きほぐし始めた。益雄の頑強な肉体は、物理的な形を保ったまま、その存在としての定義だけが、静かに、そして確実に分解されていく。
そして、もう一方の手は、暁鐘統合元帥の腕へと伸ばされた。その腕から滲み出す「闇」ごと、まるで精密部品を切り出すかのように、光の刃が寸分の狂いもなく腕の根元を切断する。切断面からは血一滴流れず、ただ宇宙の深淵そのものが覗いていた。
切り離された元帥の腕は、ノキの永久尽界に制御され、手術台の上でゆっくりと分解を始める。筋繊維が、骨格が、神経網が、それぞれ最小単位の永久尽界情報へと変換されていく。それはもはや手術ではなく、神の体組織という最高級の素材を用いた、異次元の「鋳造」作業だった。
手術台の上で、益雄は己の肉体の感覚が消失していくのを感じていた。残されたのは、暗闇に浮かぶ、剥き出しの意識の核――彼自身の「本質」だけだった。
そこへ、神の体組織から変換された情報の奔流が流れ込もうとする。魂ごと喰らい尽くされかねないそれに、益雄の本質「人喰い」が、生存本能から無意識に牙を剥いた。喰うか、喰われるか。その根源的な闘争のただ中で、彼はノキの課した命題を、ただひたすらに遂行し続けていた。
その傍らで、暁鐘統合元帥は、失われた腕の切断面を静かに見つめていた。やがて、その虚空から、現実には存在しないはずの「何か」と繋がるかのように、無数の黒い糸が出現し、瞬く間に新たな腕を再構成していく。
その再生の瞬間、再構築中の益雄の意識が、その黒い糸を介して、一瞬だけ、宇宙の狭間に潜む元帥の「本体」と強制的に接続された。
時間も空間も意味をなさない、絶対的な存在の奔流。益雄の魂は、その奔流に飲み込まれる寸前で、ノキの永久尽界によって寸断された。しかし、その魂には、既に神の視点、あるいは深淵の記憶の断片が、消えない傷のように刻み込まれていた。




