第98話 事実の、最も正確な伝達
宇宙の深淵、光さえも道を見失うほどの暗闇に、巨大な時空結晶の塊が静かに浮遊していた。
その内部は、複雑な光の回廊が幾何学的に交差し、一つの巨大な情報処理生命体を思わせる。ここが、五大宗教の最大勢力、Arcane Genesis教の諜報機関「観測評議会・深層分析局」の本拠地、通称「クロノス・クリスタル」である。
その最深部、overrankerたちの意識体のみがアクセスを許される最高意思決定空間。
そこは、純粋な論理と情報によって構成された仮想現実だった。無数の光のラインが神経回路のように走り、完璧な幾何学模様が生成と消滅を繰り返している。
その空間の中心に、ヴィクター・フェイザーの意識アバターが、静かに佇んでいた。
彼の周囲を、十二体の、全く同じ容姿を持つアバター「Quartz Gestalt」が、チアリーダーのように、しかし無音で、応援を示す光のパターンを明滅させている。
彼らを囲むように、さらに十数体の、それぞれが異なる形状と輝きを持つアバターが円環状に配置されていた。白金の輝きを放つ純粋な論理の結晶体、プライマリア・ロジカ。享楽的な光と影が戯れる妖艶な女性の姿、リゼビア・リゼビア。彼女らこそが、Arcane Genesis教の運命を左右する「観測評議会」のoverrankerたちであった。
「――では、これより、調査官A7、ヴィクター・フェイザーに対する喚問を開始する」
空間全体に、絶対的な響きを持つ思考が直接流れ込んできた。介入派を束ねるプライマリア・ロジカの、感情を排した思考パルスだった。
「議題一。貴官は、ルビークロス星系において、評議会の命令『惑星の制圧』を逸脱し、対象Z(醉妖花)及び対象Yとの間に、独断で『一時的共存』とも取れる協定を締結した。これは明確な命令違反である。弁明を要求する」
ヴィクターのアバターは、微動だにしない。
「弁明の必要はない。事実は事実として認める」
彼の合成音声は、この論理空間においても、変わらず平板だった。
「ただし、行動原理について説明する。惑星の『制圧』とは、対象の無力化、あるいは支配下に置くことを意味する。対象Z及びYの永久尽界は、単独での無力化が極めて困難であり、戦闘に移行した場合、予測不能なレベルでの時空連続体の破壊が想定された。よって、武力衝突を回避し、情報収集を優先することは、より大きな『調和』を維持するための、最も合理的な戦術的判断である」
「論理のすり替えだ」
プライマリア・ロジカの思考が、鋭く切り込む。
「貴官の任務は『制圧』であり、『戦術的判断』の裁量権は、この評議会にある」
「異議あり」
ヴィクターは、即座に反論した。
「現場における最適解の選択は、調査官に与えられた権限である。机上のシミュレーションでは予測不可能な『特異点』に対し、硬直したプロトコルを遵守することは、むしろ『非論理的』であると判断した」
その時、享楽的な光を放つリゼビア・リゼビアのアバターが、くすくすと笑うような思念を発した。
”まあ、いいじゃない。ヴィクター坊やの判断で、私たちは貴重な『花』のデータを、無傷で手に入れられたのだから。結果が全てよ”
彼女の言葉に、評議会のいくつかのアバターが、同意を示すように微かに明滅した。ヴィクターを支持する者は、決して少なくないのだ。
プライマリア・ロジカは、その反応を無視し、次の議題へと移った。
「議題二。貴官が引き起こした『エルドラド・ストリーム』。その莫大なエネルギーと、それに含まれる未知の永久尽界法則は、GoldenRaspberry教の異端派『ハイパーレバレッジ全ツッパ友の会』によって、現在、彼らの利益のために利用されている。これは、我が教団の最高機密に属する技術体系を、無断で他勢力に譲渡したに等しい。明確な利敵行為である。これについて、どう説明する」
「それもまた、事実として認める」
ヴィクターは、淀みなく答えた。
「しかし、利敵行為ではない。あれは、意図せざる『公開技術実証』であり、同時に、GoldenRaspberry教という未知のシステムに対する、極めて有効な『ストレステスト』である」
「彼らが、我々の技術の断片を解析し、模倣しようと試みることで、我々は、彼らの技術レベル、思考パターン、そして何よりも、その『限界』を、リスクなく観測することができる。与えた情報は、彼らから得られる情報に比べれば、許容範囲内の『コスト』であると判断した」
その、あまりにも常軌を逸した「コスト」という概念に、プライマリア・ロジカのアバターが、初めて怒りを示すかのように、白金の輝きを激しくさせた。
「その『コスト』が、宇宙のパワーバランスを崩壊させかねないことを、貴官は理解しているのか!」
「理解している。だからこそ、観測を継続する」
ヴィクターのブレない回答に、プライマリア・ロジカの思考が、一瞬、フリーズした。
”ヴィクターの予測、当たる確率93.2%だよ! プライマリア・ロジカのより高い!”
”あら、確率論で語るのは野暮ってもんじゃない? ワクワクするかどうかでしょ?”
”でも、ヴィクターさん、無理しないでほしいな…”
Quartz Gestaltたちの応援の思念が、緊張した空間に、場違いな癒やしをもたらす。
「…よろしい」
プライマリア・ロジカは、気を取り直したように、最後の議題を突きつけた。その思考には、明確な侮蔑の色が滲んでいた。
「ならば、最後の議題だ、ヴィクター・フェイザー。貴官が、この評議会に提出した、特異事象『エルドラド・レゾナンス』に関する公式報告書。その内容について、説明してもらおう」
プライマリア・ロジカの思考と同時に、空間中央に、ヴィクターが提出した報告書のデータが開示された。
そこには、ただ、こう書かれていた。
『なんかすごかった(; ・`д・´)。きれいだった(´ω`)』
「…ヴィクター・フェーザー。これは、なんだ」
プライマリア・ロジカの思考パルスは、もはや怒りを通り越し、純粋な殺意に近い響きを帯びていた。
「貴官は、このArcane Genesis教の最高意思決定機関を、愚弄しているのか」
その絶大なプレッシャーと、プライマリア・ロジカに同調する介入派のアバターたちが放つ絶対零度の敵意を前にしても、ヴィクターは全く動じなかった。
評議会の三分の一を占める中立・観察派のアバターたちは、表示された報告書を前に、完全に思考を停止させていた。彼らの論理回路は、この理解不能なデータに対し、『ERROR: Invalid Format』という表示を繰り返すばかりだ。驚き、困惑、そして純粋な知的好奇心。それらが混じり合った、複雑な思念の波が空間を満たす。
そして、残る三分の一――リゼビア・リゼビアやQuartz Gestaltをはじめとする逸脱派は、もはや歓喜に近い思念を発していた。
”最高だわ、ヴィクター坊や! これぞ既成概念へのアンチテーゼ! ロックで素敵よ!”
”うん、これがいちばん正確なデータだと思う!”
”心が、ぽかぽかする報告書…”
三者三様の反応が渦巻く混沌の中、ヴィクターは淡々と続けた。
「愚弄ではない。事実の、最も正確な伝達である」
彼は、まるで大学の講義でもするように、滔々と語り始めた。
「対象Zと対象Yの共鳴現象は、我々が保有する、いかなる『既存のデータスキーマ』をもってしても、その現象の全貌を記述し、包括すること自体が不可能であると結論した。無理に既存のフォーマットに当てはめれば、情報の99.99999999%以上が欠落し、本質が歪められる。故に、情報の欠落を最小限に抑え、現象の『本質』のみを伝達する手段として、この表現形式を選択した。これは、報告者として、最も論理的かつ誠実な態度である」
その、あまりにもブレない、そして常人には理解不能な「論理」と「誠実さ」を前に、評議会は再び、三者三様の沈黙に包まれた。
プライマリア・ロジカのアバターが、過負荷でショート寸前のように、激しく明滅を繰り返している。
”だから言ったじゃない”
リゼビア・リゼビアの、楽しげな思念が響いた。
”彼こそが、私たちの退屈な『調和』に、最高の『不協和音』を奏でてくれる、最高の道化…いいえ、最高の『先駆者』なのよ”
ヴィクター・フェイザーに対する喚問は、Arcane Genesis教の歴史上、最も不可解で、そして最も刺激的な議論として、後に伝説となるのであった。
そして、この喚問の結果、評議会は、彼の行動を「不問」とせざるを得なかった。なぜなら、彼の「逸脱」を支持するoverrankerが、想像以上に多かったからである。
ヴィクターは、再び、自らの信じる「調律」を続ける権限を、暗黙のうちに勝ち取ったのだ。
喚問が形式上の終結を迎え、プライマリア・ロジカのアバターが冷たい光を放ちながら消え去ろうとした、その時。
「待たれよ」
ヴィクターの合成音声が、初めて自発的に、空間の静寂を破った。




