夏の雷鳴
急な雨だった。
山の中にある店だから、天候の急変は珍しくない。
店は代々、峠の茶屋として経営してきたけど、僕の代で思い切って店をカフェに改装してみた。
近くに別荘地が造営されるから、それを当て込んだと言う訳だけど、そう甘い話では無かった。
店に来るのは殆どが地元の人で、注文するのはカフェのメニューではなく、主に茶屋時代から引き継いだ、定食類だ。
一応、地元名産の豚肉を使った生姜焼き定食が人気で、観光客もたまに来る。
最初から、ドライブインみたいなのにすれば、良かったのかな。
雨も激しくなってきたので、閉店前だけど店を閉めようかと思った。
実際、もうこの時間にお客さんが来ることは滅多になく、閉めても問題ないだろう。
そんな時だった。
いきなり、店の扉があいたのだ。
「いらっしゃいませ!」
お客さんだと思い、私は歓迎のあいさつをした。
しかし、そのお客はどこかおかしかった。
お客は黙って窓際の席に座り、メニューを開いていた。
なんだか、様子が変だった。
もしかして、自殺をしようとしているのか?
ここは自殺の名所ではないけど、時々そういう感じの遺体が発見される。
自殺か事件か、迷宮入りが多いらしい。
そんな場所だから、色々な噂が飛び交う。
やれ殺された若い女性が、タクシーで実家に帰ったとか。
自殺した男性が、自分の遺体のある場所の地図を残していったとか。
いずれにせよ、すべてデマだと思う。
何故なら、こういった話はいつもどこか、矛盾するからだ。
昨日と今日で、話す内容に微妙な違いがあり、そこを質問すると、ああ、そうだった、そうだったで終わるからだ。
しかし、こんな大雨の日に、わざわざこんな山中のカフェに立ち寄る一人の男性の存在は、やはり気にはなる。
しかし、詮索をするのは詮索好きの地元の連中だけで、別荘族を相手にする僕としては、詮索するのは控えないといけない。
時々、訳アリカップルを見かけるからだ。
噂好きのおばさんなんか、必ずこう言うからだ。
「ねえねえ、あれって、きっと不倫よ」
次の日には、きっとこうなる。
「道ならぬ恋って、奴よ。心中するかもよ」
やばそうな話だけど、おばさんが楽しそうに話すから、重い話には聞こえないのが不思議だった。
「おばさん、何か飲まないの?」
「ああ、お水ね」
そうだと思ったよ。
一応、地元の人間関係は大事だから、コーヒーは淹れてあげるけど。
砂糖をドバドバ入れて飲むから、赤字は必至だ。
糖尿病になるぞと思うけど、案外長生きしそうだよ。
こっちの方が、先にお陀仏しそうだ。
でも、今日に限って、その噂好きのおばさんはいない。
「まあ、こんな天気だしね」
雷が鳴った。
少し、ビビったけど、お客さんは微動だにしなかった。
まだ、メニューを見ていた。
そう言えば、お水を出していなかったなと思い、ピッチャーからお水をコップに入れようとしたら、中は空だった。
お水をピッチャーに入れ、氷を入れる。
レモンも隠し味に加え、コップに注いだ瞬間、急にお腹が痛くなってきた。
何だ?
その時だ、お客さんがこっちを見ていた。
目が赤かった。
気のせいだ。
でも、やはり耐えられないのでトイレに駆け込んだ。
すると、僕を呼ぶ声がした。
「うお~い、うお~い」
何だ?人の声か?
山のこだまのようで、どこか違うような気がする。
僕は急に、怖くなった。
トイレから、出られなくなった。
しばらくすると、外が急に静かになった。
僕はホッとしたけど、トイレのドアの外に、何か異様な気配がした。
外に誰かいる?
どうしよう?
どうしたらいいだろうか?
また、雷の音がした。
僕は、頭を抱えてしまった。
僕は訳の分からない、恐怖に取りつかれた。
こんなことは、初めてだ。
いや、子供の頃におばあちゃんに聞かされた、地元の怖い話を聞いた時だった。
あの時、あまりにも怖くて、夜中にトイレに行けずに漏らしてしまったことがある。
それ以来だ。
ここはトイレだから、漏れる心配はない。
でも、いつまでも居られない。
なんだったっけ?
あ、あくりょうたいさん!
ええっと、ナムアミダブツだったっけ?
とにかく、神さま仏さま、誰でもいいから助けてください。
すると、店のドアが開く音がした。
助かった。
きっと、あの噂好きのおばさんだろう。
僕は急いでトイレを出たけど、店内には誰も居なかった。
あたりを見ても、何の気配もしなかった。
僕はふと、さっきまでいた、お客さんのテーブルを見た。
メニューはきちんと仕舞われ、まるで最初から誰も居なかったみたいだ。
でも、椅子が濡れていた。
椅子の足元も、濡れていた。
よく見ると、出口まで転々と濡れた跡がある。
「い、一体誰が?」
でも、そこには誰も居なかった。
さっきまでの大雨も、今は小雨になっていた。
気のせいだったのか?
すると、いつもの噂好きのおばさんが店にやってきた。
こんな時間に、しかもこんな天気に来ることないのにと思ったけど、今は助かったと思う。
「何だい、こんな天気でまだやってるなんて」
「もう、閉めるよ」
「ええ?せっかく来たんだからあ、水ぐらい飲ませなよ」
「ああ、分かったよ」
僕はさっき作った、レモン入りの水を出した。
「で?今日はどうしたの?」
「ああ、聞いてよ」
どうせ、何も言わなくても喋るだろうけど。
「あのね、この先の渓谷で、車が飛び込んだんだって」
「事故かな?」
「きっと、心中よ」
「いや、この天気だから、運転ミスじゃない?」
「この天気って、晴れてるじゃない?」
「そんなはずは」
外は確かに、雨はやんでいたどころか、星すら見えた。
「あの雷は?」
「雷?鳴っていたかい?」
「鳴っていたよ」
「気のせいじゃない」
「そんなことは」
「大丈夫かい?今日はもう、店閉めたら?」
いや、あんたのせいで閉められないんだけど。
でも、さっきのお客さんの話をするべきか悩んだけど、結局黙ることにした。
そんなことを話したら、このまま、ここに居座られそうだから。
山の天気は変わりやすい。
きっと、どこか別の場所の雷鳴だったんだろう。
「ねえ、知ってるかい?」
おばさんが僕の後ろに、立っていた。
まるで気配を感じなかった。
「雨の日にはね」
おばさんの目が、おかしかった。
いや、この人はいつものあのおばさんなのか?
「あ、雨の日には?」
おばさんはただ、笑っていた。
驚くほど、とても大きな音がした。
雷が鳴ったようだ。
近くに落ちたようだ。
店のガラスが、振動しているからだ。
ふと、あたりを見ると、そこには僕ひとりだった。
おばさんは居なかった。
僕は慌てて、店を閉めて、麓の家に戻った。
そこは、日常があった。
妻がいつものように、僕を出迎えてくれた。
ここなら、安心だ。
「あ、お帰り」
「ただいま」
「ねえ?どうしたの?」
「うん、何が?」
「何か、様子が変だよ?」
「ああ、そうそう。店にさ、変な人が来たんだよ」
「どんな?」
「それはさ」
「ねえ、それって」
「え?」
「それって、わたしのこと?」
あたりが、真っ暗になった。
雷が落ちて、停電になったようだ。
でも、妻の目が暗闇の中なのによく光り、僕をじっと見ていた。
「ねえ、それって」
「ち、ちがう、ちがうよ」
「ねえ、なにがちがうの?」
僕は家を飛び出した。
外は真っ暗で、雨も降っていた。
「あなた?どうしたの?」
妻だった。
「君こそ、こんな天気にどうしたの?」
「お義母さんが、玉子が余ったから、取りに来いって」
「そ、そうか」
「ねえ、家に入らないの?」
「え?」
「どうしたの?」
「いや、なんでもないよ」
家の中は、明かりがついていた。
停電も復旧したらしく、テレビも点いていた。
「テレビも点けっぱなしじゃないか?」
「あれえ?消したはずだけど」
「やれやれ。ニュースでも見るか」
僕はテレビのリモコンを操作するけど、チャンネルが変わらなかった。
「あれ?電池切れかな」
「どうしたの?」
「いや、リモコンが電池切れをしたようだよ」
返事が無い。
「お~い、新しい電池はあるのかい?」
返事が無い。
テレビの音が、急に大きくなった。
「あれ?」
テレビは普通に映っているけど、どこか変だった。
ふと、後ろに気配があった。
きっと、妻だろう。
「ああ、電池を」
後ろを振り返らなければ、良かった。
後悔しても、遅かった。
雨の日は、気を付けようと思った。