第一話 血染めの姫君
「妾に楯突こうとは良い覚悟であるな、雑魚人間めが。そっ首を落としてやろうか」
「……あたしはただ、ミュリオ様と」
「あれを馴れ馴れしく呼ぶでないわ」
とある王宮の廊下で、二人の人物が対峙していた。
片方は、とても小柄な桜色の髪の少女。もう一人は、群青色の髪を靡かせる背の高い少女だ。
二人の間に流れる空気はとても心地いいものではない。
敵対。桜色髪の少女は挑戦的に睨みつけ、群青髪の少女がそれを冷ややかに見下ろしている。しかしその敵対は、一瞬で終わった。
ごと、と桜色髪の方の首が不自然に傾げ、血を撒き散らしながら地面に転げ落ちたからである。
「あ、ぇ?」
「大して力もない。口だけのつまらん女じゃな。……高貴なる妾の手を煩わせるな」
群青色髪の少女――ビアトリクスという名の彼女は、自らの手で首をかき切った少女に向かって呟く。
しかし物言わぬ死体となった桜色髪は何も答えない。ビアトリクスは亡骸を蹴り飛ばし、静かに歩き出した。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
この世界には龍人族という種族がある。
龍の国に住まい、外界とは関わらずひっそりと暮らして来たので昨今まで伝説なのではと疑われていたが、とある小国の賢者と呼ばれていた男が龍の国を訪れたきっかけに彼らの存在は公になった。
ビアトリクスは、そんな龍人族の姫である。
人間によく似た見た目をしてはいるが、額から突き出た二本の白い角や口から覗く鋭い牙、鋭利な刃物を思わせる尾などを見れば人間でないことは一眼でわかるだろう。そして何より人間離れした美貌の持ち主だった。
種族が違うといえ、人間から見ても魅力的……それどころか絶世の美女と言えるであろう彼女。
しかしビアトリクスは全ての人類から恐れられ、倦厭されていた。
――血染めの姫君。
誰が呼び出したか知らないそのあだ名は的確だった。
今まで一体何人を殺めてきたか彼女自身ですら記憶していない。「高貴な妾に逆らう身の程知らずには決して容赦などしない」、それが彼女の在り方だった。
ビアトリクスを疎み愚かにも戦いを臨んできた人間の英雄と呼ばれた男や聖女と名乗る女でさえも、ビアトリクスを前にはまるで相手にならず、今は墓の下だ。
それは当たり前の話で、龍人族の中でも比べ物にならないほど強い古龍の再来と言われるビアトリクスを人間ごときが殺せるわけがないのである。
そんな彼女であったが、唯一苦手とする相手がいる。
それは――。
「こら、また人殺しをしただろう! 何度言ったらわかるんだ。人間の命は尊いものだと、長命である龍人である君だからこそわかるのではないのか!?」
「……」
金髪碧眼の、いかにもなキラキラオーラを纏った男。
ビアトリクスの婚約者である愚かな人間の青年――その名を、ミュリオという。
彼は人間の国の王太子だった。
彼はとても口うるさい。
やれ、人を殺すな。やれ、愚物にも友好的な態度を取れ。
人間界では普通なのであろうが、ビアトリクスにとっては意味のない道徳や倫理。「つまらん」と一笑してやりたいのに、彼のオーラを前にその気が起きなくなってしまう。彼女がこれまでに出会ったことがない類の妙な人間だった。
「またそなたか。そなたに言い寄ろうとし、妾に楯突いた愚かな羽虫を一匹捻り潰したまでのこと、いちいち文句をつけるでないわ。妾の温情で婚約者としてやっているのじゃ、今すぐ破棄し、この手で殺めてやっても良いのじゃぞ? それをそなたは理解しておるのか」
「理解しているが、納得はしていない! 私は常に正しいことを求め、行動している。君の理不尽に最後まで抗うだろう」
「力のない人間のくせに、大口を叩く。言動と実力がまるで見合っておらぬではないか」
「私は理不尽が嫌いなんだ。
確かに婚約者のいる私に言い寄ろうとする令嬢は多い。それが正しいことだとは私も思わない! だが死に値するほどの罪ではないだろう。そんな理不尽を、私は無くしたい」
どこまでも都合のいいことをペラペラと捲し立てる。
本来であれば彼に嫌悪感を覚えてもいいはずなのに、ビアトリクスの胸に沸くのはムラムラとした何とも言えない感情だけ。その正体がわからなくて、ビアトリクスは歯噛みした。
「そなたといると、調子が狂う」
だから、この男は苦手なのだ。
なぜこんな男を父は婚約者などに据えたのだろうと、心底腹立たしく思うのであった。