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脛に傷 -安兵衛長屋物語-


 上野寛永寺から、辰巳の方角へ五町。下谷稲荷にほど近い裏小路の奥に、安兵衛長屋と呼ばれる貧乏長屋があった。

 大家の安兵衛は、齢六十を越えた物静かな年寄りだ。元はとある大店の次男で、長らく家業の手伝いをして商売に勤しんできたが、四十を過ぎた頃に病で体を壊し、仕事を続けることが困難となったことから、分家を許されるとともに生計のためにと数棟の貸家を譲り受け、なかば隠居のような形で暮らしている。

 派手な生活を好むでなく、毎日のおまんまが食えれば充分という欲のない質のおかげで、家賃は安く取り立ても厳しくはない。住人にとってはこの上ない良き大家であった。

 ただしそのせいで雨漏りを修繕する金にも事欠く有様だったが、世の中というのは良くしたもので、住人の中には大工などもおり、ちょっとした修理などは手軽に引き受けてくれる。

 他にも手に職を持つ者はおり、住人同士で何かと助け合いながら、それなりに日々の暮らしを営んでいた。


 そんな貧乏長屋に男が越して来たのは、木枯し吹きすさぶ、霜月も末の寒い日のことだ。

「今日から入る、松吉さんだよ。仲良くやっとくれ」

 安兵衛が、井戸端にたむろする女房たちに、大きな風呂敷包みを背負った男を紹介する。

 風呂敷の中身は、おそらく布団の上下だろう。貧乏人の持ち物といえば相場だが、男の痩せた身体には不相応に大きく見える。

 男は陰気そうに眼を伏せたまま、僅かに頭を下げる仕草をみせた。


「松吉さんかい、よろしくね」

「わかんないことがあったら何でも聞いとくれ」


 居合わせた女房達がにこやかに声をかけるも、応える様子はない。

 見てくれは二十歳過ぎあたりかと若そうだが、痩せぎすで不愛想。右の頬に引き攣れたような火傷の跡と、裾から覗く左の脛に大きな傷があった。

「部屋は一番奥だ。ついといで」

 松吉はふたたび無言で皆に頭を下げると、左脚を引きずるようにして安兵衛の後について行った。


「なんだい、ありゃあ」

「愛想のない男だねえ」

「それにあの傷、どこかで悪いことして逃げてきたんじゃないのかい?」

「おお怖い」


 松吉はその日、部屋から出てくる様子はなかった。

 その後も毎日何をしているのやらいないのやら、部屋に籠ったまま仕事に出る気配もない。おせっかいな女房が戸の隙間から覗いてみたりしたが、一日中寝転がったまま天井を見上げているだけの様子だった。

 それでも飯時には出掛ける姿が見えたが、居合わせた者に挨拶するでもなく、左脚を不自由そうに運びながら俯いたまま通りに消えていく。

 その陰気な姿に長屋の連中は大層気味悪がり、障らぬ神に祟りなしと声をかける者もなかった。


 ところが、それから一月ほど経ったある日のこと、長屋を訪ねて来た客人に女房たちは驚いた。


「こんにちは。こちらに、松吉さんという方はお住まいですか」


 歳の頃は十五・六。仕立ての良い小袖に身を包み、髷を飾る花のかんざしにも負けぬ笑顔がまぶしい、見るからに育ちの良さそうな娘だ。

 井戸端にたむろしていた女房の一人が呆気にとられながら奥を指差すと、娘は「有難うございます!」と頭を下げ、大ぶりの風呂敷包みを手に部屋へと向かった。

 そして戸を叩きながら「松吉さーん! 入りますよー!」と、返事も待たず中へ入って行く。

 程なく、怒鳴り声が響いて来た。


「てめえ、どうしてこの場所を! 何しに来やがった!」

「あたいから逃げようったって、そうはいきませんよ! あんたの居所なんて、ちょいと調べればすぐに判っちゃうんだから!」

「うるせえ! とっとと出て行きやがれ!」

「はいはい、このお重を置いたら帰りますよ。どうせろくなもん食べてないんでしょ」


 だが娘は一向に帰る気配はない。「出ていけ!」「はいはい」と松吉をあしらいながらドタバタと、どうやら掃除でもしているらしい物音を響かせていた。

 日が暮れかけた頃になって、娘はようやく外に出てくると、上気した顔で女達にペコリと頭を下げ意気揚々と帰って行く。

 暫くすると「畜生!」と松吉が飛び出して来た。


「松吉さん、どこへ行くんだい?」

「うるせえ! 女買いに行くんだよ!」


 と、左脚を引きずるような不格好な足取りで、何処へともなく駆けて行った。


「なんだい、ありゃあ」

「さあねえ」


 娘は、その後も度々長屋を訪れるようになり、その度に松吉と怒鳴り合いを演じる。そのうちに女房たちとも顔馴染みになり、素性も知れることとなった。

 名は加代。浅草の紙問屋、大間屋の娘だった。

 松吉との関係を聞くと「あたいの良い人」と嬉しそうに笑う。

 だが松吉はどう見ても堅気とは思えず、一方の加代は大店の娘だ。この二人が付き合う云われがどうしても想像できない。

 そして加代が帰った後には、松吉は決まって夜の街へと出かけて行く。まるで当て付けのようにだ。

 健気に通い続ける加代に対し、松吉の評判は下がる一方。そのせいでもなかろうが、当人の顔つきもますます不機嫌になっていく。

 長屋の住人たちは二人の間柄に首をひねりながらも、物怖じしないどころか喧嘩を楽しんでいる風にさえ見える加代の様子に、いらぬ心配はするだけ無駄と静観を決め込む。

 そんな日々がしばらく続いた。


 事件が起きたのは、年も明けた正月の雪の夜のことだ。

 その日、街中で喧嘩騒ぎが起きた。腹を刺されたのは松吉だった。

 一命を取り留めはしたものの、担ぎ込まれて数日は意識も戻らず、長屋には医者やら坊主やらが入れ代わり立ち代わり。加えて町方までも取り調べに通いつめ、騒然とした日々が続く。

 そして松吉の枕元には、涙で眼を腫らした加代の姿があった。


 大間屋の旦那も顔を見せるようになり、おかげで住人達はやっと詳しい事情を聞くことが出来たのだった。


「松吉さんは以前、鳶をしながら火消しの役を務めておりました。三年前の大火で店を焼かれた時に、加代はあの方に命を救われたのです。

 松吉さんは、その時の怪我が元で職を失いました。私どもは恩人に出来る限りの手を差し伸べ、あの方も快く受けてくれておりました。

 でも加代が十五になり、松吉さんと夫婦になりたいと言い出した頃から急に、娘を邪険に扱いだしたのです」


 そりゃそうだろうと、皆は頷く。

 大店の娘と、ろくな稼ぎもないあぶれ者では釣り合うはずもない。相手を思えばこそ、悪者になってでも身を引こうとするのが情というものだ。


「それにしたって酷すぎるよ。あんな良い子にあそこまで冷たくして、挙句に喧嘩で大怪我して迷惑かけるなんて」


 すると大間屋は、慌てて手を振った。


「違うんです。松吉さんは、加代が悪い奴に襲われそうになった所を、助けてくれたんです」

「えっ、なんだって」

「じゃあ」

「はい、加代が遅くまでここに居座るものですから。帰りが心配で、いつもこっそり後をつけて見守ってくれていたと。加代もまるで気付いていなかったそうです」


 皆が顔を見合わせる。


「岡場所通いじゃなかったのか」

「松さん可哀そうだよ」

「ああ、加代ちゃんもねえ」

「あの方には、大切な娘を二度も助けていただきました。この御恩は、一生をかけてでもお返しさせていただくつもりです」


 加代はその後も変わることなく、長屋に通いつめた。少しだけ変わったのは、明るいうちに帰るようになったことと、怒鳴り合いが聞こえなくなったこと。

 松吉がようやく外を歩けるようになったのは、まだ風の冷たい二月半ばのことだった。


「おお、寒い寒い」

「お天道様も、もうちょっと頑張ってくれるといいんだけどねえ」

「まあ、今年は雪が少ないだけマシってもんさね」

「長屋の屋根が抜ける心配だけはしなくていいからね」

「あっははは」


 女房たちの井戸端談義も、相変わらずだ。


「こんにちはー」

「あら加代ちゃん、今日も大荷物だね」

「ええ、あの人には早く元気になってもらわなくちゃなりませんから」

「聞いたかい、あの人だってさ」

「おお、熱い熱い」


 加代は、あははと笑い返しながら奥の部屋へと消えていく。

 それから暫くすると、二人が連れだって出てきた。


「おや、お出かけかい?」

「はい。お天気が良いので、ちょっとお稲荷様まで梅の蕾を見に行こうかと」


 加代が答えると、松吉も照れくさげに眼を伏せたままペコリと頭を下げる。

 手を繋いで去っていく二人の背中を、女房達も笑顔で送り出す。


 空は青く、吹く風にも仄かな梅の香りを憶えるよう。

 案外、春は近いのかも知れない。




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