幸福の玉売りと不幸の玉売り
町の大通りで、一人の娘が何かを売っています。
娘はリンゴほどの大きさの透明な玉を右手に持ち、左手にはその玉がたくさん入ったカゴを提げています。
通りを行き交う人々に、娘は声をかけます。
「幸福の玉は、いりませんか?」
通行人のうちの一人が、娘の目の前で立ち止まり、お金を払って娘が持っていた玉を受け取りました。
その人物は、しばらくその玉をじっと見つめてから、満足そうな様子で立ち去っていきました。
「あなたに幸福が訪れますように」
去っていく客の後姿に、娘は声をかけました。
この娘は、家族が作った『幸福の玉』を売って生活していました。
幸福の玉というのは、様々な人間の幸福な姿をのぞくことが出来る代物です。
幸福な人の姿を見る事で、自分も幸福な気持ちになったり、何かを頑張ったりすることが出来るとして、幸福の玉は町の人々の間で人気でした。
この日も娘は、カゴいっぱいの幸福の玉を売り切って、家へと戻っていきました。
ある日の事です。
娘がいつも玉を売っている場所から少し離れた所で、商売を始める男が現れました。
「……不幸の玉は、いりませんか?」
消え入りそうな、それでいて耳に残る声で、男は通行人に呼びかけます。
男の右手には、幸福の玉と同じくらいの大きさの灰色の玉が握られていました。
娘はこの男の事を知っていました。
少し前にもこの場所で同じように、『不幸の玉』なるものを売っていた男です。
不幸の玉は、様々な人間の不幸な姿が映し出されるもののようです。
前に男がこの場所で不幸の玉を売ろうとしていた時には、通行人たちから『そんなものを売るな。お前のような奴はこの町から出ていけ』と言われたりして、ちょっとした騒ぎを起こしていました。
しかし、今日はその時とは様子が違っていました。
一人、また一人と、不幸の玉売りの男の前で足を止める通行人が現れます。
不幸の玉売りはお金を受け取ると、何も言わずに会釈をして、玉を渡していきます。
気が付くと、不幸の玉売りの前には小さな行列まで出来ていました。
おかしなことはそれだけではありませんでした。
娘が売っている幸福の玉を求める客は、男が現れるようになってから目に見えて減っていきました。
今までは売れ残る方が珍しかったのに、半月もしないうちに売れ残る日が続くようになりました。
娘はもちろん、家族も困ってしまいました。
しかし、不幸の玉売りの男を責める訳にもいきません。
男はあくまで、自分の商売をしているだけなのですから。
「その不幸の玉ってのを買うと、幸福が欲しくなくなるんじゃないのか?」
家族の一人がそう言いましたが、娘は言い返しました。
「そんなのはおかしいわ。幸福な人間の姿を見て、幸福な気持ちになるのは当たり前の事よ。不幸な人間の姿を見ても、幸福は得られないでしょう?」
そう言って今日もまた、娘は幸福の玉を売りに家を出ていきました。
娘は今日も一日中、幸福の玉はいりませんか、と通行人に声をかけ続けました。
しかし、売れ行きはあまり良くありませんでした。
通行人の中には、あからさまに娘の事をうっとうしがる人もいます。
家族の言葉通り、不幸の玉が売れたせいで、幸福を求める人が減ってしまったのでしょうか。
そんなはずはないと考えながら、日が暮れるまで娘は玉を売り続けました。
今日は、幸福の玉がカゴの半分も売れませんでした。
ここまで売れなかったのは初めての事です。
娘は困り果ててしまいました。
これからもずっと、幸福の玉が売れない日々が続くのだろうか。
さすがの娘も、そんな事を考えずにはいられませんでした。
「幸福の玉を、一ついただけませんか?」
背後から声をかけられ、娘はとっさに振り向きました。
それと同時に、娘の顔は一気にこわばりました。
お金を持って立っていたのは、あの不幸の玉売りの男でした。
全身黒づくめの、やせた大男。
その表情は、笑っているのか悲しんでいるのかも良く分かりません。
男の持っているカゴの中には、まだ三つの灰色の玉が入っています。
おそらくそれが、不幸の玉なのでしょう。
「……どうぞ」
男が何を考えているのかは分かりませんが、お金を出して幸福の玉を求めている以上はお客さんとして接しなければいけません。
おそるおそる幸福の玉を渡し、お金を受け取りました。
気が動転していたのか、いつもお客さんにかける『あなたに幸福が訪れますように』というセリフを言うのを忘れてしまいました。
男は軽く会釈をすると、自分の持ち場へと戻っていきました。
すると、どこからか一人の男がやってきて、不幸の玉売りの男の前で立ち止まりました。
「不幸の玉、一つくれ」
不幸の玉売りの男は、不幸の玉をカゴから取り出して客の男に渡しました。
客からお金を受け取ると、不幸の玉売りの男はこう切り出しました。
「お客さん、あなたは運がいいですね。もう不幸の玉は残り三つしかなかったんですよ」
「ああ、そうかい?」
「幸運なあなたに一つプレゼントを。こちらの幸福の玉を、もし良ければ持って行ってくれませんか?」
幸福の玉を差し出された客の男は、顔をしかめました。
「いや、俺は不幸の玉を買いに来たんだが……」
「お金は頂きません。あくまで私からのプレゼントですよ。だれだって幸福な人の姿を見て、幸せな気持ちにひたりたい時があるでしょう? そんな時にお役立ていただければ……」
「やめてくれ! そんなものはいらない!」
そう言うと、客の男は足早に去っていきました。
娘はぼうぜんとしていました。
あそこまではっきりと、幸福の玉をいらないと言われた事に、心がつぶれそうになりました。
その後にも二人の客が不幸の玉売りの元を訪れ、一つずつ不幸の玉を買っていきました。
不幸の玉売りの男が、さっきと同じように幸福の玉を客に勧めましたが、どちらの客もそれを嫌がりました。
最後の客に至っては、不幸の玉売りの男が持っていた幸福の玉を手でたたき落してみせたほどです。
娘にもはっきりと分かりました。
不幸の玉を欲しがる人間は、幸福の玉を嫌がっているという事が。
だから不幸の玉が売れるようになって、幸福の玉が売れなくなったのだと。
不幸の玉を売り切った男は、娘の近くにやってきて言いました。
「私がここで不幸の玉を売るようになったせいで、あなたの幸福の玉が売れなくなったのだとお考えでしょう」
娘は顔を背けました。
今の自分の顔を、男に見せたくなかったからです。
「ですが、それだけではないと思うんです。幸福の玉が売れなくなった理由は」
男は無遠慮に続けます。
「みんな、自分の本当の気持ちに気づいただけなんですよ。この町には不幸な気持ちを抱えている人が多くいる。悲しい時や心がしおれた時、他人の幸福な姿なんて見ても心は慰められない。今まで幸福の玉を買っていた人たちは、ただ周りの目を気にしていただけなんですよ。『自分は他人の幸福を自分の事のように喜べる善良な人間だ』と他人に見せつけたり、あるいは自分で思いこんだりするためにね」
娘は力なく首を振ります。
「不幸の玉こそ、本当に人々が求めていたものなのです。不幸の玉に映る不幸の姿は本当に様々です。隣人に冷たくあしらわれた人、思いがけぬ災難に見舞われた人、家族を支えるために学校へ通う事を諦めた子どもや、妻と娘を失った男とか……」
男は、娘に言い聞かせるようにして語ります。
「不幸な人の姿を見る事によって慰められることもあるのですよ。不幸なのは自分だけではないと思えたり……あまり上等ではないですが、自分より不幸な人間がいるから自分はまだマシだと思えたり、ね」
「でも、それだからといって、幸福な人の姿を見るのが嫌だと思うなんて間違っています……! だれかの幸福な姿を見て、自分も同じように幸福に思えないなんて間違っているわ……!」
娘はやっとの思いで、男に言い返しました。
しかし、男のほうはどこ吹く風と言った様子です。
――見ろよ。あれは幸福の玉売りの娘じゃないか?
――あきれた。幸福の玉が売れなくなって、不幸の玉売りに食ってかかっているのかい?
――聖職者じゃあるまいし、他人の幸福を見て幸せを感じたり出来るかよ。
遠巻きに見ていた通行人が、そんな言葉をもらします。
娘は、自分の売っているものと、自分のやっていることを否定されたような気持ちになり、いたたまれなくなりました。
「……どうやら、あなたに味方してくれる人はいなさそうですよ?」
あざ笑うでもなく、あわれむでもなく、淡々と男は告げました。
娘は顔を伏せて、その場から逃げるように立ち去りました。
とぼとぼと、娘は家へ向かって歩いていました。
この町では、もう幸福の玉は必要とされていないのかもしれない。
他の人の幸福な姿を見て、幸福な気持ちになれる人はいなくなったのかもしれない。
だとすれば自分は、家族はどうなるのだろうか。
そんな事を考えながら歩いていると、向こうから歩いてきた人物に声をかけられました。
「お姉さん、幸福の玉を分けてくれませんか?」
声をかけてきたのは、娘よりも年下と思われる少年でした。
「……幸福の玉が、欲しいんですか?」
泣きはらした顔を隠すようにしながら、娘はたずねました。
「そうだけど……どうかしたんですか?」
娘は質問に答えず、お金を受け取ってから幸福の玉をひとつ取り出し、少年に渡しました。
「……あなたに幸福が訪れますように」
娘にそう言われると、少年はこう答えました。
「お姉さん。今日はあなたにお礼を言いたいんです」
「お礼、ですか……?」
娘には何のことか分かりませんでした。
この少年と面識はなく、感謝されるような事をした覚えも無かったからです。
「実はボク、父親が病気になって、学校をやめて働かなければならなくなったんです。本当は勉強を続けたかったんだけれど……」
娘は少年の話を聞いてみる事にしました。
この少年も不幸な気持ちを抱えているのだろうか、と思いながら。
「そんな時、母親が持っていた幸福の玉を見たんです。そしたら、貧しい生まれにも関わらず、働きながら自分で勉強をして、会社を立ち上げた人の姿が映って……その人はきっと大変だったと思うんですけど、とても生き生きとしていて幸せそうな姿でした」
静かに、それでも力強く少年は語りました。
「それを見て、ボクもくじけないで頑張ろうって思えたんです。一所懸命に働いて、勉強を続けられるチャンスも探そうって……そうしたら、ボクの事を助けてくれると言ってくれる人が現れたんです」
娘は、少年の話をじっと聞いています。
不思議なことに、さっきまでの重苦しい気持ちが和らいだように感じられました。
「ボクは今、その人の会社で働かせてもらいながら、学校にも通わせてもらっているんです。お給料も出してもらって、学費も面倒を見てもらっているんです。その人も幸福の玉を持っていて、『だれかを幸せにすることで得られる幸せがある』と気付いたって言ってくれたんですよ。これはもう、幸福の玉がもたらしてくれた奇跡としか言いようがありませんよね!」
少年はそう言って笑って見せました。
「今度はボクも、だれかを幸福にしたい。そう思うんです。そうだ、もし良かったら、この幸福の玉を一緒に見てもらえませんか?」
少年にうながされるまま、娘は幸福の玉をのぞきこみました。
娘はそれを見ておどろきました。
そこに映っていたのは、まさに今話している少年の姿だったからです。
「こんな事って……?」
娘も少年も、おたがいに顔を見合わせました。
それからどちらともなく、笑い合いました。
「ありがとう。あなたは今日、私にお礼を言いに来たと言ったけど、お礼を言うべきは私の方です」
「えっ……?」
不思議そうな顔をする少年を見送り、娘は家へと歩いていきました。
その次の日。
娘はいつもと全く変わらない様子で、大通りのいつもの場所へと向かいました。
そしていつものように、幸福の玉はいりませんかと、通行人に声をかけます。
それからしばらくすると、不幸の玉売りの男が現れました。
「……昨日あんな事があった後なのに、よく平然と商売をしていられますね」
こちらを傷つけようとしているかのような言葉ですが、相変わらず淡々とした口調です。
「お待ちしておりました。不幸の玉売りさん。昨日の夜、私はある事に気が付いたので、それをお話ししたいと思います」
「何ですか?」
不幸の玉売りの男は、娘を見下ろすように向かい合っています。
通行人の内の何人かが、興味本位で足を止めます。
「まず、あなたの言う通り、不幸な気持ちを抱えている時に幸福な人の姿を見ても慰めにならない事はあるでしょう。それは認めます」
「ほう。つまり私が不幸の玉を売る事を認めると。しかしいいのですか? 不幸の玉が売れれば売れるほど、幸福の玉を欲しがる人はいなくなるんですよ?」
「構いません。なぜなら、不幸の玉が売れるから幸福の玉が必要なくなる、というのは必ずしも正しくないからです」
男は首をすくめました。
「それでも現に、あなたが売っている幸福の玉の売れ行きは悪くなっているではありませんか。これは多くの人々が心に不幸を抱えていて、幸福な人の姿を見る事を欲していないからこそではありませんか?」
「確かに。昨日の私も『人の幸福を自分の事のように喜ぶべき』というような事を言ってしまったのは言葉足らずだったと感じております」
娘はそこまで言うと、一呼吸おいてから語りました。
「自らの心に不幸を抱えていながら、人の幸福を喜べと言われても、受け入れられないでしょう。ですが、このように考え方を変えてみてはどうでしょうか。人の幸福を喜ぶことが、即ち自分の幸福になるのだと。人の幸福を願い、人の幸福を喜ぶ心こそが、自らを幸せにするのだと」
野次馬たちの間で失笑が起こりました。
不幸の玉売りの男は、表情を変えません。
「私は見たんです。幸福な人の姿を見ようとしたら、自らの姿が幸福の玉に映し出されたという少年を。その少年は苦境の中にいましたが、まさに他人の幸福な姿を見て、自らも頑張る事を選びました。そして、今もなお頑張りながら、さらに他の人も幸福にしたいと強く願っているのです」
娘はひるむことなく続けます。
「そのように願う彼自身の姿が、幸福な人の姿として玉に映し出された。これこそが、人の幸福を願うことそれ自体が自らを幸福にする事である、という証拠だと思いませんか?」
野次馬たちの間で、ざわめきが起こりました。
何をバカな事を言っているんだ、という声も聞こえます。
しかし、不幸の玉売りの男は、何かに納得したように小さくうなずきました。
「人の幸福を願う事が、自らの幸福につながる……と?」
「いいえ。人の幸福を願う事それ自体が自らにとっての幸福であるのです」
「しかし、世の中には人の不幸を願う事でしか幸福を得られない人もいるのではないでしょうか?」
娘は幸福の玉を掲げてみせると、こう言いました。
「そうする事で得られるのは慰めであって幸福ではありません。この幸福の玉をのぞいてみて下さい。人の不幸を願う人の姿がここに映ると思いますか?」
それを聞いた男は、小さく笑ってから言いました。
「いいでしょう。あなたがそこまで自信を持って言えるのなら、私は引き下がりましょう。もうこの場所で商売をするのもやめにします」
娘はあっけに取られました。
男があっさりと引き下がった事も意外でしたが、さっきまでいた野次馬たちがそそくさと立ち去った事も意外でした。
「そうだ。これをあなたにお返ししましょう。これは私には必要のないものですからね」
そう言うと、男は娘に透明な玉を差し出しました。
あの時に男が買った幸福の玉です。
「お金は返して頂かなくて大丈夫ですよ。不要だから玉を引き取って頂きたいというだけですからね」
そう言って、男は娘に幸福の玉を受け取らせようとします。
しかし、娘はそれを受け取りませんでした。
「あなただって、幸福を手に入れる権利はあるんですよ? きっとそれはあなたの役に立つはずです」
「幸福なんて、私には何の意味もありませんよ。なぜなら……」
男が言いよどんだのを見て、娘は幸福の玉をちらりと見やりました。
そこに映っていたのは不幸の玉売りの男でした。
その傍らには、彼の妻と思われる女性と、彼の娘と思われる女の子の姿がありました。
「……考えるだけで辛くなるような幸福もあるんです。それなら慰めだけを求める方がマシというものですよ」
男は小さくつぶやき、幸福の玉をポケットにしまうと、ばつが悪そうに立ち去っていきました。
「たとえそうだとしても、あなたにはだれかの不幸を願うのではなく、だれかの幸福を願ってほしいです。あなたに幸福が訪れますように」
あの時に言えなかったセリフを、娘は立ち去る男の後姿にかけました。
不幸の玉売りの男が立ち去った後、娘はいつものように幸福の玉を売っていました。
売れ行きが戻るまで、まだしばらくかかるでしょう。
もしかしたら、前のように幸福の玉が売れる事は無いかもしれません。
それでも、娘は人々に声をかけ続けます。
だれかの幸せを願い、だれかの幸せを喜ぶ事で、自らも幸せになれる人が一人でも増える事を願って。
「幸福の玉は、いりませんか?」