生まれる前から軽んじられる
その問い掛けに広大の動きは止まった。
フォークを置く。
そして多歌が用意してくれた珈琲に口をつけた。
「――勘だな」
「そう」
多歌は頷いた。
「まずそこから説明してくれる? これからどうなるのか? そういう勘なんだよね? だからコーダイくんは不安になってるってことで良いのよね?」
「……凄いな。お見通しだ」
「これだけ話してくれればね。それで――」
「このままAに行ってしまったら、戻って来れない気がするんだ」
広大は自分の勘を簡潔に説明した。
しかし、その勘が意味する事とは「Bの消失」であり、即ち「多歌の消失」になる。
では世界が入れ替わるきっかけとは……
「……眠れないね」
「そう眠れない。眠いんだけど眠れない。お腹をいっぱいして……なんて理由は今考えたんだけど、眠るタイミングは本読んでるときでも良かったのかも……」
「コーダイくんが、迷ってるのもわかる」
またあやふやになりかけた広大を多歌が強い口調で断定した。
さらに続ける。
「それで、良いことをしてるから、それで報われるように……Aに戻りませんように。そういう理屈だね」
「人から言われると……何をしてるんだ、って思うな」
やはり諦めたように、広大は独りごちた。
「――その辺りね」
再び、多歌が断言した。
「何が?」
広大としては、そう応じざるを得ないだろう。
「コーダイくん、何でもある一定のところに来ると突き放す……って言うより、自分の望みを捨てるよね。いや、後悔をしたくないという想いがあるのかな」
そんな情け容赦のない多歌の分析に、広大はただ淋しく笑うだけ。
肯定であるのか。
それとも――
「――僕はどうも『不倫』という関係性で生まれてきたらしい」
不意に広大が告白した。
一瞬、その告白を受け止めきれない多歌。
ただ、声だけは抑え込んだ。
「もちろん、そうと教えられたわけではない。でも苗字が変になっていたり、思い出せる傍証は沢山あるんだ。それを踏まえて記憶を探っていくと……やっぱりどこか変なんだよ。親戚の対応も。それに母親の様子も」
「それ……は……」
声を絞り出す多歌。だが、そこから先が続かない。
「最初はやけに慎重に。そういう期間が過ぎると、何だか下に見られてるんだよな。親戚の集まりとかで。わかりやすい例を挙げれば、気付けば僕の持ち物や本とか、そういうものが無くなっていたりするんだ。目の前で取られる事も。それを母親は『仕方ない』と言って諦めさせるんだ」
その告白で、多歌の脳裏に広大の言葉、仕草、それにこの部屋の様子さえも意味を持ち始めた。
広大は――自分の物を持ちたがらない。
窺える読書量だけでも、もの凄い数になるのに。
だけど、広大の部屋に本棚は無い。趣味らしき物も無い。
買おうとしていたコンポも、最初からミニコンポだ。
穿った見方をするなら、それからも「どうせ無くなるのだから」という諦めを感じとれるのではないか?
だが、広大は「欲」がないわけではない。
欲しいものがあり、それが奪われる経験が多かった――だから最初から諦める。
それでも、どうしても欲しいものがある時は、努力して、運を味方に出来るような行いを心掛けて……
「――こんなところが僕の思う『原因』だな。他に思いつかない」
多歌の混乱、あるいは迷いが収まるのを見計らって、広大が告げた。
恐らくそうなのだろう、と多歌は心の内だけで頷きを返す。
「広大に何の責任も無い」と励ます――などという発想は多歌にはない。
それは効率的ではないからだ。
まず多歌は広大の目の前でわかりやすく補助線を引いた。
おかしくなっている広大はそのままで良い。
解が無いのが解――そんな式は時々現れるし、広大も解を理解していないのだろう。
では、その状態を利用して他の解法を模索する。
城倉の情報を提出する。
今の広大の告白の代償ではなく、あくまで解法の一環として。
城倉という男がどんな人間であるか? ――それは広大も想定出来てないだろう。
ある意味では、広大の真逆の為人なのだから。
再び多歌が補助線を引いて広大を再分割。
それに「運」の解釈――多歌はそれを念入りに分解していった。
つまり広大はどうなれば「運が良い」事になるのか定義していない。
だから、これほどおかしくなるのだ。
しかし逆に言えば、それが広大の「隙」だ。
その隙に付け込んで、多歌が望むこと。
それは――
「……ああ、わかった」
解に至り、多歌は思わずこぼした。
その声に誘われる様に多歌の瞳が真っ直ぐに広大を捉える。
「…………何が?」
その視線から逃れるように、身を縮込ませながら広大が辛うじて問い返す。
「その説明は後回し。とりあえずケーキやめよう」
「え? いやさっぱりわけが……」
「わけのわからないまま、私を引っ張り回したコーダイくんの文句は受け付けないことになってるから」
「いや、ケーキ……なんでもない」
恐らく、何故いきなりケーキを残す事から始めるのか?
その理由が広大には想像出来なかったのだろう。
もっともこれに関しては、多歌も「そういうものだろう」と“あたり”を付けているだけなのだが。
その“あたり”は、続いてこんな指示を広大に出すように多歌に告げた。
「次は、お風呂ね。シャワーじゃ無くて、ゆっくり温まって」
「あ、ああ。じゃあ、締めなんだな」
どこかホッとしたような表情を見せる広大。
もちろん終わるはずは無いのだが、それを伝えて広大を緊張させては話がおかしくなる。
多歌は無表情を心掛けて、折角用意したコーヒーを一口含む。
苦い。
砂糖を入れ忘れている。
こういう事は、まったく自分向けじゃ無い――人を嵌めるなんてことは。
そう再確認した多歌だったが、ここで「やめる」という選択肢は選べ無いのだ。
そのあと二人は、順番にお風呂を使いながら、細々したことを片付ける。
広大はニュースや二瓶からの連絡を待っていたが、動きはない。
巻目が動いていたとしても、そこまで早急に結果が出るのか――それは見当もつかないのだ。
出来る事は確かにやり終えた。
……と広大は感じているが、それはやはり「勘」でしかない。
そんな風に焦れる広大に、風呂上がりでTシャツ姿の多歌が声を掛ける。
いや、そんな軽い調子で説明出来る雰囲気では無かった。
何しろ多歌はこう告げたのだから。
「――城倉准教授とキスしたことはあるの」