岩鏡は日から離れる
日が橙色に変化し、あたり一面が少しずつ夕焼けいろに染まりつつあるころ…
資料をもとに、2人がたどり着いたのは、老朽化し今にも壊れてしまいそうなアパートだった。
一見廃墟かと勘違いしそうになるほどとても人が住んでいるとは思えない場所だ。嘉神は資料を見返し住所を確認した。しかし何度も見返したとしても書かれた住所が指し示す場所は目の前にあるアパートだ。
「間違ってなきゃ……あいつが住んでるのはここの203だ」
「わかった」
千華はその廃れた外観を気にも求めず、言われたとうり203の場所へと足を進めた。
2階へ行くための階段を1段ずつ上がる。錆だらけの手すりは触ることも憚られ、一段一段と足を乗せるたびにギシギシと鉄の繋ぎ目が悲鳴を上げていた。
嘉神は本当に大丈夫か内心心配になるがそれ以外の通路がないため仕方なく千華と共に足を進める。
消えたかかった203のプレートが貼られている扉の前にたどり着いた。そのすぐ隣には住民の名前も貼られている。
嘉神は資料を確認し、その名前と照らし合わせた。確かに名前は一致していた。
試しに近くの窓から中を覗いてみるが、カーテンが閉められており隙間から中の様子は伺えそうにない。
人がいる気配も感じられず、念のためインターホンを押してみる。果たしてちゃんと動作してるかも不明だが中からの反応は一切なかった。
しかしながら、思いもよらぬ返答が別の場所から聞こえてくる。
「おいお前たち!何をしてる?」
突如遠くから声が聞こえ、そちらへと顔を向ける。先ほど上がってきた階段の下から2人を見上げて訝しげな顔をする男がいた。
60〜70代の老人だった。少し低めの背丈に腰を曲げて杖をついている。階段をのぼるのが一苦労しそうだ、だから下から声をかけたのだろう。首を上げて保つのもやや辛いのかプルプルと震えているのが見て分かった。
わざわざ声をかけていたということは、このアパートの関係者なのだろう。
「よお、ここに住んでるやつに用があるんだが」
嘉神の言葉を聞くと、老人は目を細めその部屋をじっと見つめる。
しばらくして、誰の部屋かわかると少し眉を下げ哀れみの顔を2人に向けた。
「お前さんたちも金を返してもらいに来たのか」
その言葉の意味がわからず、嘉神は首を傾けた。
***
長話になるだろうと悟り、2人はいったんその場を離れ老人が立つ場所へと移動した。
老人はこのアパートの管理人らしい。老朽化しているが安価な家賃のため住人は少なくない。しかし、あまり見かけない顔だったため2人に声をかけたのだと言う。
嘉神が目的の人物について話を聞くと、管理人は気さくに話をしてくれた。
どうやらかなり金に困っていたとのことだった。
彼がアパートに住み始めたのは数年前。友人に騙され借金の保証人になってしまった彼はほぼ一文無しの状態だった。しかしそれでも最初こそはしっかりと働き家賃も怠らず払っていたのだ。根は真面目な人だったらしい。しかし、先の見えない膨大な借金にくわえ溜まる利息。しばらくすれば彼の人柄も変わっていき、家賃も徐々に滞納するようになっていった。当時、心配になった管理人が彼に話を聞いたら、借金取りが職場にも現れるようになり仕事をクビになってしまったと彼は答えたそうだ。
彼がもう家賃を支払えない状況になっていたのはわかっていたが、住まわせてあげていたのは彼を哀れに思った管理人の優しさからだ。
毎日のように彼のもとを尋ねる人物がいて、その全てが金の請求を目的としていた。金融業者だったり彼の友人、親戚だったりとさまざまで、彼が他所から借りた金額まではわからないが到底彼が返していける額ではないだろうと、管理人も思っていた。
だから千華も嘉神を見かけた時もまた同じような輩だと思い声をかけたとの事だった。
「彼はもう出て行ったぞ」
管理人の物言いからして、出て行ったというのは単に出かけた、という意味ではないことは分かった。
「出て行った?いつ?」
「確か……お昼ごろだったかのぉ」
(千華を襲撃してすぐに出ていったのか…)
早朝に千華を襲撃したが失敗に終わり、嘉神に一度気絶させられ目が覚めた後すぐにアパートに戻りそのまま出て行った、ということになる。
警察に捕まる事や津和吹からの報復を恐れての行動なのだろうか、それにしてもあまりにも早急なやり方に嘉神は頭に疑問を浮かべる。
「彼は、何か言っていましたか」
千華がそう尋ねると、老人はしばらく考えていた。そうして思い出したのか、目を見開いてこういった。
「今まで有難うとわしに礼を言ってきてな。滞納してた家賃を全て払っていきおったわ」
その言葉に嘉神は思わず目を見張る。
一瞬、先刻の千華の予想が頭をよぎった。管理人の話を聞く限り、彼はかなり前から家賃を滞納しているはずだ。借金まである今の彼の状況で一気に返せるはずもない。
「ずいぶん清らかな顔をしてたなぁ……宝くじでも当たったのかねぇ」
羨ましいのぉと老人は小さく笑っていた。
***
___深夜3時
あたりの電気もすっかり消え、月明かりが便りだけのまさに真夜中。千華と嘉神はまだ屋敷に着いてはおらず静まり返った帰路をゆっくりと歩いていた。
「…まさか本当に金を受け取ってたなんてな」
先程まで沈黙が続いていた帰路の中で嘉神がようやく一言そう漏らした。
「これまで私を襲った者は、その後に急に羽振りが良くなり消息を経っている…」
アパートを後にし、予定を変更した千華と嘉神はすぐに別の場所へと向かった。
千華は、これまで襲ってきた人物"全員"を調べると言い出したのだった。流石にその言葉には嘉神も唖然とした。夜10時を回ったところで一旦帰るよう嘉神は千華にうながしたが、当たり前だが聞き入れてもらえずそのまま今の時間帯まで調べる羽目になった。
安心したのは数名他県の者がおりそれが後日に持ち越しとなったことだった。しかし、資料に載っていた住所の殆どが其々さほど遠くない距離にあったことでこのような時間まで調べていた。
そうしてわかったのは、千華が述べたとうりのことだった。
"金銭の受諾は虚偽ではない"
正しく言えば、その可能性があると付け加えるべきだが、千華だけではなく嘉神もその事実を確信していた。
「誰かが金を渡してるってことになるだろ」
「……そうだな」
「問題は誰が渡してるのかだ」
「……そうだな」
千華は同じ言葉をただ返すばかりで、それ以上何も言おうとはしない。考え事でもしているのかと嘉神は表情を伺うが、ただ道の先をまっすぐ見つめているだけだった。
(どうゆう感情だよ、これは)
「本当に津和吹万櫻が、お前を殺そうとしてると思ってるのか」
嘉神がそれを聞いたのは単なる興味本位からだった。普通だったら、本人にするには失礼極まりない質問だろうが、今の千華には何を聞いても問題ないと判断した。あわよくばその質問に多少心が揺れるのではないかとも淡い期待を抱いていたが、残念ながら相変わらずの表情で、淡々とした答えが帰ってくる。
「今の状況だけで判断するならそれが1番正しい」
千華は、まるで他人事のように話す。
自身の身内の話をしているはずなのに、他所の事件の推理をされているような気分になり、嘉神の心情は徐々に濁った物へと変わっていく。
(気に食わない)
単にその感情だけが募っていく。
「あの動画は本物だった、実際に金も彼らに渡っている、後はそれを渡している者を特定すればいい…祖父の真意を掴む手がかりは増えた」
千華の口ぶりからして、さらに先へと調べようとしているのだろう。
なぜそこまで平然としていられるのか不思議でしかたなかった。まるで人間味を感じられない。嘉神には到底理解できないし、理解しようと歩み寄る気にもなれなかった。
当たり前だが、今まで関わってきた人物の中に千華のようなものはいない。どう振る舞えば良いのかわからないから、できればそういう人物とは関わりを持たないことが嘉神の信条だ。しかし、護衛である限り関わらずにはいられない。合わない人間と長く付き合うことは小さなストレスだった。
「お前はそれでいいのかよ」
「…何が」
「身内が本気で自分を殺そうとしている、しかも国民をけしかけてゲームじみたやり方で……普通は嫌だろ……組の奴らだってお前に気を使ってるんだ、だからこの件に関わらせようとしない」
遠回しに"余計なことをするな"という意味を込めていったつもりだが、おそらく千華には通じていない。いや、理解はしているかもしれないが言うことは聞かないだろう。
組の者が気を使っているのは事実だった。特に若頭の栄西はなるべくこの騒動から千華を遠ざけようと必死だった。情報も千華に与えないようにしていた。動画の件も詳しく調べてはいるが"何かの間違い"であることを願いながら調べているに違いない。
しかし、そんな組の者の願いも虚しく、千華には通じないようだ。
「祖父が望むのなら、私は従うだけ」
その言葉で嘉神は悟った。
気遣いなど、この女には不要なのだと。
表現力か、感情そのものか、人としての何かが欠落しているのだこの女は。
「……つまり万櫻の真意がお前の死だとわかれば、それが望みだと言うのなら、お前は死ぬのか」
そう尋ねるが、千華からの返答はない、肯きもしないし、嘉神を見ようともしない。
否定をしないということは、口数の少ない千華の場合、肯定と捉えていいだろう。
「…………気持ち悪りぃな」
嘉神のその一言も拾われることはなかった。