「曖昧な結婚の約束」
「それよりもね、兄様………」
「うんうん、わかった。
ちゃんと後で全部聞いてあげるから。
だから、まずはそのみっともない衣装の裾を、誰かに見られる前に早く直そうね」
「…………あ」
そう冷静に指摘され、柚は自然と視線を自身の裾へ向けた。
捲し上げた衣装の裾から、柚の思わず触れたいくらいに柔らかそうな長い脚が剥き出しだ。
柚は慌てて裾から手を放し、睡蓮に小首を傾げながら、淡くはにかんでみせた。
だって、早く早く会いたくて。
睡蓮と沢山話がしたくて仕方なくて。
その気持ちばかりが先走り、すっかり忘れていた。
「ほら、こっちにおいで。
私が直してあげよう」
「うん! ありがとう、兄様!」
睡蓮は手に持っていた筆を置き、柚へと手招きをする。
それを見ていた柚の顔が、ぱっと瞬く間に輝き、嬉しさで頬を染めた。
「まったく……仕方ないねぇ。
今日、千歳には迷惑かけなかったかい?」
「かけてないわ、大丈夫よ。
むしろ、迷惑かけられたのは私の方だし。
……まぁ……いつも通り、舞いだけは楽しかったけどね」
ぱたぱたと弾むような足取りで近づくと、睡蓮は柚の乱れた裾を丁寧に直してくれる。
その時、ふわりと睡蓮が焚き染めている香の香りが鼻を掠めた。
金木犀の凛と華やかで、とても上品な香りだ。
落ち着いていて物腰も柔らかく、なおかつ上品なこの睡蓮によく似合う。
「楽しかったなら、よかった。
あんなに嫌がってたから、途中で仕事から逃げ出して、さっさと私ところに帰ってくるんじゃないかって心配していたんだよ?」
にこやかに告げられた睡蓮の言葉に、柚は顔を直視出来ずに思わず視線を逸らした。
(……あぁ、やっぱり。
さすがに鋭いわね、兄様)
さすが、たった十九歳という若さで、この玉響座という一座を取り仕切っているだけはある。
花街でも一位二位を争う大規模な運営組織と沢山の人を動かすのだから、観察力に優れていて当然と言えば、当然ではあるのだが。
柚の心の中で帰りたいと切実に願っていたことは、やっぱり見抜かれていたようだ。
「昔はあんなに、ちぃ、ちぃ、って千歳の後ろをついて回って、いっぱい遊んでもらっていたのにねぇ……?」
「ちょっと、兄様。
一体、私がいくつの頃の話してるのよ」
昔を懐かしむように目を細め、ゆったりとした口調でそう告げる睡蓮に、柚は少しだけ頬を赤らめながらそう言い返す。
そんな昔のことをわざわざ出してこなくていいのに……。
柚にとってあの頃は、甘くもあり苦くもある、色々な意味で複雑な記憶しかない。
そう言えばそんなこともあったな、くらいの程度で記憶の隅っこにあるくらいで十分なのに……。
少しずつ視線が離れていく柚に対して追い討ちをかけるかのように、睡蓮は言葉をこう切り出してきた。
「そうそう、ちょうどその年頃だったんじゃないかな。
柚、千歳のお嫁さんになるって嬉しそうに言ってただろう?」
「……え?」
柚も恥じらうお年頃になったのかな、と睡蓮は柔らかく微笑んで、首を傾げてみせた。
「う……、それ、は……。
まぁ…………、うん……言ってた、かなぁ……?」
首を傾げたままの睡蓮を見ながら、柚はしどろもどろに答えた。
確かに、覚えてる。
お嫁さんになるって、信じて約束してたこと。
千歳も、優しく笑って頷いてくれて。
すごく、嬉しくて幸せだった。
忘れたことなんて、一度もない。
大好きだった。
今だって嫌いじゃない。
でもそれは、あくまでも幼い頃の曖昧な約束だ。
千歳だって、それを覚えてくれているのかわからないし……。
だからこそ、柚が散々千歳は嫌だ、誰よりも大好きな愛しい兄と一緒がいいと頑ななのだ。
何となく、千歳は柚だけの存在でいてはいけない、と一緒に成長して、花街の代表格として兄の睡蓮とともに名を馳せる姿を見せられる度に感じていた。
今日初めて一緒に大きな仕事を任されてみて、改めて痛感したのだ。
千歳の花街での圧倒的な存在感を。
玉響座を一歩出ただけで、「千歳様」「ちぃさま」と四方八方から声が掛かる。
周りに侍るお姉様方を一人一人ちゃんと丁寧に対応するのも、一流の芸者の証だ。
その背中を恨みがましく、みっともない妬心混じりの眼差しで見つめながら歩く自分が、ひどくちっぽけに思えて情けなくて。
あぁ、この人は。
自分だけが独り占めして、閉じ込めてはいけない。
私じゃダメだと、そう思ったから。