「高級芸者・カナリア」
「柚は、落ちてくれないんだね……」
「何でそこで残念そうなのよ」
しょんぼりと眉尻を下げる千歳に、柚は冷ややかな視線を送った。
あぁ、もう。
本当に、腹が立つ。
一体何を考えているのだろう、この男。
いつもしないことを、こんな民衆の面前でやらないでほしい。
しかも、千歳を求めて遥々足を運んできた、お姉様方の前で堂々とだなんて。
彼女らの、嫉妬の餌食行き決定ではないか。
「……さぁ、柚。
お集まり頂いたお客様方を、これ以上お待たせ出来ないよ」
「…………うん」
そんな心情を知ってか知らずか、千歳はいまだに納得していない様子の柚の背中を二回優しく叩き、笑みを溢す。
そして、ゆっくりと柚の頬に手を伸ばし、するりと撫でた。
「大丈夫、俺が傍にいるよ。
小さな頃みたいに、俺の楽の音で自由に楽しんで舞ってごらん」
そう優しく囁き、千歳はこつんと額を合わせてくる。
この仕草、本当に昔から変わらない。
小さな頃、柚は人見知りで、なかなか人前に出れなくて。
多くの人の前で舞うのが、怖かった。
そんな柚の手を引いて、大丈夫だよと励ましてくれながら、今みたいに優しく頬を撫でて額を合わせるのだ。
毎日それを積み重ね、頑張って。
今こうして、カナリアとして認定してもらえるまでに成長出来た。
非常に気に食わないが、千歳は、柚の芸者人生の大切な恩人である。
あの頃のまま、誠実でしっかりと芯のある男だったなら、素直に千歳と仕事を頑張れたのに……。
どこでどう道を踏み外して、こんな残念な色ボケ野郎になってしまったのだろう。
千歳のこと嫌いではないから、すごく勿体ないと思う。
あの頃の優しい日々に戻れるのなら、今すぐにでも戻るのに。
それはどうしたって無理だから、なおさら悔しい。
「…………うん。
大丈夫、カナリアの名がかかってるもの。
やるわ、私」
一の字に結んでいた口をやんわりと緩ませ、真っ直ぐに千歳をみつめた。
すると、千歳はその視線を受け止めて、頷いてくれる。
ただそれだけのことに心強さを感じながら、柚は帯に挟み込んでいた扇を手に取った。
「さぁさぁ、皆さま方!
暁の都を彩るカナリア芸者のお通りだ!
道を開いておくれ!」
ふわりと袖と裾を鮮やかに翻し、千歳は都の道の中心に群がるお客様を振り返る。
そして、凛と張りのある美しいその声を道中に響かせた。
「まだまだひよっこカナリアではありますが。
……その名に相応しく、皆さま方を魅せましょう」
千歳は懐から取り出した漆塗りの横笛を構えながら、ふわりと艶やかに笑んでみせる。
その瞬間、耳を塞ぎたくなるほどの騒音が嘘のように消えた。
『それは美しき、徒桜』
音の無くなったその空間に響いてきたのは、まるで鈴を転がすように澄んで淀みのない、美しい歌声だった。
『水面に散る花を』
柚の背後から、まるで導くかのような、ゆったりと伸びやかな千歳の奏でる旋律が流れてくる。
それに合わせて歌を紡ぎながら、ぱらりと扇を広げた。
ひらりと、ゆっくり滑らかに扇を翻す。
まるで、ひとひらの花びらが舞うように。
『ひとつ、花筐に拾い
ふたつ、我が花衣にて飾り
みっつ、其方の雲鬢を彩りましょう』
この歌は、思い出だ。
まだ柚が舞を覚え始めた五歳頃の、大切な。
その頃から、千歳の奏でてくれる笛の音は大好きで、よく子守唄の代わりに聞かせてくれた。
けれど、ある日「彼はね、お歌が上手だよ」と兄からそう聞かされて、どんな歌声なんだろうと気になってしまって。
歌って欲しいと千歳に頼んだら、優しく微笑みながら頷いてくれた。
そして、覚えて一緒に歌えるようになるまで、ずっと毎日のように柚を膝の上に乗せて歌ってくれた。
この歌は、柚が初めて覚えたものだ。
『ゆらゆら、ゆらゆらと
揺蕩ふ花桜』
とある姫に恋をした青年が、結婚して欲しいという求婚を歌にした、この「徒桜」。
今日、この歌を選んだのは、千歳。
俺達が舞うのだから、と沢山ある歌の中から選んで柚に持ってきた。
俺達らしい見世物にしようじゃないか、と清々しく笑いながら。
その時の千歳の顔を思い出して、柚はふっと笑んだ。
彼は、柚の嫌いな性質ともいえる、色気垂れ流しな迷惑野郎であることはさておき。
千歳の奏でる楽の音は、誰をも凌駕する。
もしかしたら、我が家、玉響座を引き継ぐ兄も敵わないだろう。
そんな楽で舞っているのだから、楽しくないわけがない。
『玲瓏な香籠に籠めましょう
其方が消えぬように』
するりと袖から覗く白い手を、裾の合わせ目にかける。
そして、はらりと控えめに捲って翻した。
耳に心地いい、千歳の奏でる美しく緩やかな旋律。
一定の流れで紡がれる旋律は、舞う柚を導いてくれる、大切な道標だ。
その流れに乗って、柚は裾を摘まんだまま、ゆっくりと回転する。
赤の鮮やかな髪を、さらりと靡かせながら。
『泡沫のこの身が潰ゆくまで』
歌うたび、舞うたびに、思う。
なんて、幸せな姫だろうと。
ひとりの青年から、こんなにも愛されて。
この身、この想い全てをかけて、守ると歌に込めて贈られる姫がとても羨ましい。
『千代に八千代に奏でましょう』
いつか。
いつか、そんな恋をしてみたいと思う。
たったひとりの誰かに愛され守られて。
自分なりの幸せの中で、生きてみたい。
『其方へ天伝ふ仙楽と共に……』
柚の歌が終わると同時に、ゆったりと鳴り響いていた笛の音が、消えていく。
ちらりと視線を向けてみると、千歳は柚を見ていた。
視線が重なると、柔らかな笑みを投げ掛けてくる。
よく見ると、口が僅かに動いていようだ。
──楽しかったかい?
もちろん、楽しかったに決まってる。
柚は満足げに満面の笑みを千歳へと返していた。