「色ボケ野郎」
『どうして、そんなに嫌がるの?』
遡ること数刻前の、大好きな兄の言葉が忘れられない。
突然千歳に、今日から仕事だよ、と爽やかに告げられて。
強制的に着物を千歳に剥かれ、着替えさせられて。
そして最終的には、ずるずると引き摺られるように千歳と共に都の道中にやってきた。
何故嫌だったのかなんて、そんなこと、言わずとも知れているではないか。
「俺と柚のために集まってくれて、皆ありがとう。
今日はとびきりの歌と舞いを、二人で用意してきたからね」
「きゃあぁ、ちぃさまーっ!!」
千歳はふわりと極上とも言える柔らかな笑みを浮かべ、甘く艶のある声で告げた。
すると、突然降って沸いた、千歳を恋慕うお姉様方の熱狂的な歓声。
まるで地を揺るがすような轟音に、柚は顔をしかめて耳を手で塞いだ。
もう、嫌だ。
こんなムダに色気垂れ流しな迷惑野郎。
どうして、そんな千歳なんかと組むことになったのだろうか。
(……恨むわよ、兄様……)
色とりどりの華やかな着物に身を包み、綺麗な簪で髪を結い上げたお姉様方に囲まれた青年、千歳を不快そうに睨みつけた。
群れからつま弾きにされてしまっている柚は、千歳の視界の隅にすら映っていないだろう。
この調子で仕事なんて、本当に出来るのだろうか。
(……だから、私は絶対に千歳とは嫌だったのよ……)
柚は民衆の面前であることも忘れ、不貞腐れるように唇を尖らせた。
この世界、かげろうの都には「カナリア」という二人一組の芸者達が多く存在する。
そのカナリアは花街が発祥で、依頼された小料理屋の宴席で舞い、都の道を楽器を弾きながら美しい歌声で練り歩く。
時にはカナリアの宴なるものを開いて、同じカナリア同士で腕を競い合う、凛と華やかな独自の催しも圧巻の見所だ。
カナリア達は、玉響座という組織が管理しており、なるにも申請を出し、協議された上で承諾書を貰えなければ名乗れない。
つまり、都を彩る華として唯一認められた芸事の強者達のことである。
「ほら、柚。
いつまでも遠くにいないで、早く俺の方へおいで」
お姉様方に囲まれた千歳がふいに振り返り、これまた眩しいくらいの笑顔で手招きをする。
柚はそんな千歳を、げんなりした様子で見返した。
確かに、こんなに遠くにいては仕事にならないだろう。
でも、正直あんまり気が進まない。
だって、今ここに集まっているお客様のお姉様方は、千歳に会うためだけに、我先にと遥々足を運んで来てるのだ。
(それにほら、ちゃんと見なさいよ千歳。
お姉様方の視線が痛いわ……)
千歳を囲む自分達よりも、柚を優先させることが気に食わないのだろう。
ぎろり、とまるで目の敵のように鋭い視線が沢山突き刺さる。
「…………私、今すぐ帰りたい……」
そして、優しい優しい兄様に泣きついて、これでもかというくらいに甘やかしてもらえたら、どんなに嬉しいか。
そう思ったら、ぼそりと自然に口から言葉が漏れていた。
「駄目だよ、柚。
俺だけの、可愛いカナリア。
俺のために歌って欲しいな……。
小さな頃みたいに、その魅力的な可愛らしい声で」
「千歳……?」
まさか、ここから向こうまで届いたのか。
聞こえないように呟いたつもりだったのに、一体どうして……。
千歳は囲んでいたお姉様方を押し退けて、首を傾げている柚の傍らへとやってくる。
そして。
「いつも俺だけを、見ていてくれただろう……?」
柚に顔を寄せながら、するりと柔らかく首筋を撫で上げた。
「ゃ……っ、千歳……?
ねぇ、どうしたの……?」
首筋を撫でる手も、囁く声も、じんと体の奥に響くほどに甘く優しい。
けれど、いつものちょっと情けなくも柔らかい表情は、そこにない。
無表情なのだ。
向けられる瞳には感情が灯っていなく、まるで無機質な冷たい光を宿す硝子玉。
何もない。
すとん、と感情の全てが抜け落ちたかのように。
柚は思わず、一歩身を引いてしまった。
初めて怖いと思ったから。
今まで自分に甘く優しいと思っていた、その人が。
「君が生まれて十五年……。
ずっと見てきたよ。
見ても見ても、飽き足りないくらいにね」
「……ち、とせ…………?」
反射的に逃げようとした柚の細腰に、すらりと長い腕が巻きついてきた。
「逃げないで、柚
俺の……俺だけの愛しいカナリア……」
そして、千歳の方へと引き寄せられる。
抱え込まれた千歳の腕の中は思っていたよりも広く逞しい。
胸に押しつけられた体に、布越しの体温を感じてしまって、思わず鼓動が跳ねた。
「ぁ…………っ」
「柚……ちゃんと、俺を見て」
千歳は柚の耳に唇を寄せ、息を吹きかけるように囁く。
その刹那、柚の体がひくん、と切なく震えた。
「や……ぁ………っ」
そして、さらに空いている片方の手もゆっくりと近づいて、するりと柚の目にも鮮やかな赤い髪を指で掬い上げる。
その柔らかい柚の髪に、そっと口づけを落とした。
「この、燃えるような緋色の髪も……。
雪にも負けない、真っ白で綺麗な……この顔や肌も……」
冷たい眼差しが、柚の瞳を射抜く。
もう、周りの声も視線すらも届かない。
まるで五感全てが囚われたように、何もかも。
声は、まるで飴玉のように甘くとろけているのに。
眼差しが、千歳の纏う雰囲気が、伴っていない。
「この、美しく澄んだ水晶のような瞳には……俺だけを映して……」
するりと、反射的に瞼を下ろしていた瞳の上を千歳の指先が優しく滑った。
「柚……」
「……い、や……。
やめて……、やめて千歳っ!!」
後から涌き出る恐怖心に耐えられなくなった柚は、思わず声を張り上げていた。
かたかたと、千歳の腕にすっぽりと包まれた体が小刻みに震えている。
そんな柚の姿を、千歳も目で見て、肌で感じているはずなのに。
何を思ったのか、突然ふっと笑いを口から漏らした。
「ごめんね、柚?
怖がらせちゃったかな……?」
「…………え?」
拍子抜けするような、優しい声。
柚はゆっくりと閉じていた瞳を開いた。
無機質な冷たい眼差しは消えて、いつもの優しく温かい色に戻った瞳が柚を映している。
そんな瞳を柔らかく細めて、くすくすと、頻りに肩を揺らして彼は笑っていた。
そう、笑っているのだ、この男。
いつもの、あの優しい表情で。
「本当にごめんね。
俺はただ、嫌がる君を勇気づけてやりたかっただけなんだけど……。
そんなに震えるほど怯えられるなんて、思ってなかったから……」
ごめんね、嫌いにならないで、と頻りに言葉を口に出す。
ぽんぽんと、背中を千歳に優しくあやされるうちに、少しずつようやく状況が飲み込めてきた。
すると、何か。
この男、ただ柚に格好つけてみたかっただけなのか。
「もうっ、ややこしいわよっ!!
無理に格好つけないで!!」
「そんなぁ……。
俺からそれを取ったら、何も残らないよ……?」
だって、これで世の女性達を口説き落としてきたんだから……と悲しげに唇を尖らせる。
そんな千歳を、柚は呆れたように見上げ、ぺしりと彼の胸を叩いた。
「一応自覚はあるのね。
それだけは立派だわ、褒めてあげる」
「……ありがとう、と言うべきなんだろうけど……。 嬉しくない……」
そりゃそうだ。
皮肉を織り込んで、言葉で返してやったのだから。
これで喜んでいたなら、ただの阿呆だ。
もしくは、そういう残念な性癖なのか……。
どちらにしろ、これくらいの意地悪は許して欲しい。
本当に、怖かったのだから。