表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

口跡

作者: 雨森 夜宵

 言葉なんて、と千夏は語気を荒げた。言葉なんて何の役にも立たないのよ。貴方がいくら愛してるだの大切にしてるだの言ったって、あたしには何にも伝わらないの。そうやって言葉ばっかり重ねて満足してるのは貴方だけで、あたしは何一つそこから受け取れやしないのよ。もう、本当に……馬鹿みたい。千夏はぎゅうっと眉間に皺を寄せた。怒りに見開かれたままの目から涙が零れ落ちていった。目尻の下がった優しい眼差し。私はそれが例えようもなく好きだった。それでも、きっと言葉では伝わりやしないんだろうなと思った。千夏は次の言葉を待っているようだったが、涙が後から後から落ちていくだけだった。見開かれたままの目の中で濡れた瞳が私を映している。小さな影になった私はそこから私自身を見つめていた。お前が悪いんだろうよ、と瞳の中の私が言う。お前が悪いんだろうよ。この女に触れてやらなかったお前が。好きなら態度で示せばよかったのに。抱き合って、キスをして、その愛とやらの限りで抱いてやらなかったお前が悪いんだよ。私は思わず口答えをしそうになる。でもお前、愛すると抱くってのは全然別の話じゃないか。


 千夏。


 呼びかけたはいいものの、後に言葉が続かない。開け放したままの口が呼吸に乾いて疼き始めて、結局私は口を閉じた。何を言おうとしたのか考えても、何故か私の中には何も残っていなかった。そもそも何かを言おうとしたのかどうかさえはっきりとはしなかった。実は千夏がこのまま激昂して出て行ってくれることを望んでいるのかもしれないとさえ思われた。そして一度思いついてしまったそれは瞬く間に自分の頭の中を満たしていって、言葉が出てこないどころか何かを言おうという気持ちさえ私の中では失せて、とうとう私は声を出すことさえ諦めて中途半端な溜め息をついた。もうどうでもいいような気がした。本当にいいのかと問われればよくないのだろうが、少なくとも今は随分とどうでもいいことのように思われてならなかった。私が完全に萎えてしまった後も千夏は数秒間私が何事かを口にするのを待っていた。相変わらずその瞳の中では私が私を見つめていた。瞳の私の態度は実に傲岸不遜と言うべきものだった。ほとんど変わり映えのしないシルエットが僅かに疲労を帯びていた。面倒くさい、と瞳の中の私が言う。お前は自分の正しいと思うことをしたのに何故責められているんだ。面倒くさい。どうせ何を言ったって今この女が納得することはない。お前は結局言葉で小細工をしようとして失敗したのさ。小細工をすること自体に失敗して、その上まだこの女とにらめっこをする必要がどこにある?

 はあ、と千夏は大きすぎる溜め息をついた。その拍子にまた涙が溢れた。なんでこんな時にだんまりなのよ。何とか言いなさいよ。それを聞いた私は本当に心の底からうんざりしてしまって、思わず目の焦点を彼女から外した。ぼやけた視界に映り込む彼女に私は言った。


 言葉じゃ伝わらないんだろ。何にも。


 明らかに傷ついた顔をした千夏がぎゅっと顎に力を込めたのと私の中にこれは言い過ぎたぞという感覚が生じたのがほとんど同時で、千夏が立ち上がったことに気付いた時には既に勢いよく横っ面を張られていた。衝撃で思わず目を閉じると瞼の裏に浮かんだのは千夏ではなく、千夏の瞳に映っていた私の影の、その醜くひしゃげた輪郭だった。目を閉じて張られたままの姿勢でいる私に最低、と吐き捨てて、千夏は荒々しく物音を立てながら出て行った。

 ピンヒールの足音が全く聞こえなくなってから、私はゆっくりと目を開けた。黒光りする床は拭ったような跡をそこら中に残している。ここが千夏の予約した居酒屋の片隅であることをこの時になって初めて思い出したのだった。話があるのと呼び出された居酒屋でまさかそんなことを問われようとは夢にも思わなかったのだ。貴方もしかしてセックスできないの、などと。馬鹿にしているのか、と羞恥のあまり私は搾り出すように言った。じゃあどうしてあたしを抱いてくれないの、もしかしてあたしだからダメなの、と問うたところまでは彼女も冷静だったが、もうあたしのこと愛してないの、と言い始めたあたりから急に雲行きが怪しくなり、それに苛立った私が答えたのを聞くなり千夏は烈火のごとく怒り出して、遂には私の横っ面を張ってどこかへ行ってしまった。

 君が性的に餓えているなら付き合わないことはないさ、でも私が求めているのはもっと穢れのない、純粋な愛なんだ。そんなものと一緒にしないでくれ。

 目の前のジントニックを呷る。多少言いすぎたかもしれないという気もしないでもなかった。だが、私だって嘘をついたわけじゃない、とも思う。傷つけてやろうという気がなかったとは言わないが、そもそも私はそういう人間なのだ。そういう愛し合い方を望んでいると伝えただけに過ぎない。それが理解できないのなら私と一緒にいる方が余程彼女のためにならんだろう。言葉から何も受け取れないのなら、私の隣にいるということはひとりでいることとほとんど変わらないに違いない。彼女は離れて正解だったのだ。こんな男と一緒にいるより余程。負け惜しみのように繰り返しながら、皿の上のつくね串にこれでもかと七味をかける。これも彼女は嫌いだった。自分の皿へ移してからかけても、まるで親の敵か何か睨みつけるように顔を顰めて眺めていた。ほら、と私は内心で呟いた。君の嫌いな七味をこんなに山のようにかけて焼き鳥を食うんだぞ、この私は。良かったじゃないかこの場にいなくて。こんな男と七味まみれのつくねを食う生活は君には耐え難いものだろうな。それでもこれまで君に「どうして七味をかけないんだ」なんて訊いたことがあるか? ないね。一度もない。君にも好みというものがあることを私は知っているからだ。互いの好みを尊重して許して寄り添う、それが愛ってもんだろう。君が抱いて欲しいというならそりゃあ私は君を抱いたさ。ただ、愛していない相手だから抱けないだなんて、そんな馬鹿げたことを言われたせいで少しかっとなって妙な言い方をしちまっただけで。

 本当は……。

 その先を打ち消そうと真っ赤なつくねを口へ入れると、多過ぎる粉末が処理できずに少しだけ噎せた。塩にしたからだ、と言い訳にしか聞こえない思考が頭の中に満ちていく。本当はタレが好きなのに、まあ嫌いなわけでもないしと彼女に合わせて塩にしたのがいけなかったのだ。タレならしっかりつくねに絡みつくはずの七味がバラバラの粉のまま乗っていたものだから、こうして情けないことになっているに違いない。結局、私は彼女とは合わなかったのだ。とことんまで相性が悪い。去って後もなお私の思いと裏腹に動いていく彼女のあり方は私のあり方に沿うはずもない。一度そう思ってしまえば、もう記憶の中にある彼女の姿の悉くが相性の悪さを提示しているように思われてならなかった。目の前にある飲みかけのカルーアミルクだってそうだ。甘い酒は正直好きではないし、牛乳も好んで飲もうとは思わない。今日履いて来たやけに踵の細い靴もそうだ。あんなもの、例え私が女だったとしても履きたくはない。青あざのような色のマニキュアだってそうだ。喪服ばりに黒で揃えた服とバッグも、およそ人間の体の色として似つかわしくない金色のアイシャドウも、鮮血を塗ったとしか思えない唇も、真っ直ぐに私を見つめる濡れた瞳も。どれも私のあり方に合わない。合わないから、合わないからこそ、私は。

 彼女と一緒にいない方がいい。

 そうだ。私はひとりでいる方がいいのだ。好きで抱かずにいる女に不能の疑いをかけられることも、七味をかけるだけなのに顔を顰められることもない。ぐびぐびと音を立てて酒を飲んだって、ほら。誰からも非難されない。すいません、と張り上げた声は思いの外大きくて少し怯みそうになるのを意識的に叱咤しながら、結局自分は今何に負けそうになって何に勝とうとしたのかよく分からなくなりつつ、長芋のわさび漬けとハツを二本、適当な日本酒を一合、やや不審なくらいに張り上げた声量で店員に伝える。動揺する様子もなく注文を受けて去っていく店員はきっと酔っ払いの対応に慣れていて、自分もそういった厄介な酔っ払いの一人として認識されているのかと思うと急に虚しさが込み上げてきてどうにもならなかった。苛立ち紛れに灰皿を引き寄せて鞄の中から手探りでシガレットケースを取り出す。金属製のそれはロングサイズで二十本が収まる仕様だが、生憎私はロングを好まない。

 思えばこれも彼女がくれたものだった。煙草を吸わない彼女なりに気を遣ったのだろうが、隙間があれば中で煙草がかぽかぽ動き、かといってぎっしり詰めると今度は取り出すのにえらく手間がかかる。開けて数えてみると残りは九本だった。九本ね、と八本になったフィルターの断面を眺めて私は思う。大抵吸い始めると五本は欲しくなる。新しい箱は前の箱が完全に空いてから買いたい性分なのに、これでは四本吸うに留めるか先に一箱買って五本目を間に合わせるかしなければなるまい。この中途半端に欠けた一本を私から受け取ったのは他ならぬ千夏だった。初めての一本は彼氏から貰うって決めてたんだ、と千夏は嬉しそうにそれを咥え、四苦八苦して火をつけた後盛大に噎せた。最初の煙は着火するために吸い込むものだから肺に入れずに吐き出せと言ったのに、彼女は見ていて分かるほどはっきりとそれを吸い込んでげほげほやった挙句、煙草なんて吸うもんじゃないねと涙目で言ったのだった。そういえばあの時もカルーアミルクを頼んでいたような気がする。吸い方に問題があるのだとふかし方を教えてやればなかなか器用に煙を吐き出して、肺への吸い込み方もほんの少し咳き込んだくらいですぐ身につけた。そうして掠れたような煙を吐き出しながら手元のグラスを傾けて、がびがびになった喉にちょうどいいねこれ、と笑って見せるなどした。一口飲めば、と言うのを断った。私はジントニックで構わなかったからそう伝えたまでだ。その時もやはり千夏は変な顔をして心なしか乱暴に煙を吐いたのだった。

 結局千夏という女性はそういう人間なのだ。私が何と言おうと最初の煙を吸い込まずにはいられない。これと気に入ったカクテルを延々飲み続けるし、何事にも理想像を作り上げようとする。この部分は私にも覚えがある。ただ。

 ぼう、と音を立てたライターの炎を吸い込む。ただ、彼女はそのための実験や冒険を惜しまない。細く煙を吐き出す。私はそうではない。もっと怠惰で風任せだ。私と彼女とは少し似ていて、それ以外の実に多くの部分においては全然違う。ただその少しの重なりが、私と彼女をこれまで寄り添わせてきたものなんだろう、とも思う。煙草を置いて箸を取る。ぱくりと口に押し込んだチキン南蛮が悲しいくらいに脂ぎって口内にねっとりとまとわりつく。これから帰って寝るだけの人間には明らかに多過ぎるカロリーは彼女の注文したものだ。その粘りを洗い流すようにジントニックを呷って溜め息をつく。どうしてこう、人がいなくなるとその痕跡ばかり目につくようになるのだろう。吸い込んだ煙が強すぎて思わず噎せる。煙草なんて吸うもんじゃないねと言った千夏のくしゃりと歪めた目元を思い出す。嫌になる。こんなにも物事の隅々にまで染み込むほど傍にいた相手なのに反りが合わなくて適わない。とことんまで反りが合わなくて、だというのに、確かに私は彼女のことを大切に思っている。不能と勘違いされるほどに性的な交わりを拒むほど、純粋な想いで彼女の隣にいたかったのだ。それなのに。ただ、自分は決して身体目当ての付き合いなんかをしたいんじゃないんだと、そう伝えたかっただけなのに。

 言葉なんて、と吐き捨てた千夏。

 確かに言葉では何も伝わらなかった。だが、言葉以外で伝える術を私は持ち合わせていない。何を考えようが何を思おうがどう足掻いたって飛び出してくるのは言葉で、しかもその言葉のどれもが伝えたいことを掠めるだけの曖昧で誤解を招くようなもので、じゃあ私に何が残されているのかと思うといいやそんなものはないのだという感覚が急に強い力を持って私の胸ぐらを引っ掴むようだった。ぐらぐらと揺さぶられて、気が遠くなるような感覚さえ覚える。

 それが酔いなのか絶望なのかも分からないままに私は席を立ち、訳も分からないまま便所の個室に飛び込んでそのまま流れるように胃の中のものをぶちまけていた。影になった便器の中に先程飲み下したチキン南蛮に乗っていた小ネギがそっくりそのまま浮かんでいて余計に気持ち悪くなって再度吐いた。口の中が吐瀉物の味に満たされるようでまた込み上げた吐き気を胃の中身ごと垂れ流す。今になって回ってきたらしいアルコールとニコチンとタールとが私の胸の中を高速で回転しているような気がした。生理的な涙が出たと思ったら後から後から溢れて止まらず、私は乱雑にちぎったトイレットペーパーで口を拭った後それを便器に投げ入れたところで何もかもが嫌になってしまって、その場にしゃがみこんだまま押し殺した声で叫びながら泣いた。何故泣いているのか自分でもよく分からなかった。なんで、どうして、という言葉が回復の余地のない惨めさをまとって脳裏に代わる代わる響いた。なんで。どうして。私はこんなにも、こんなにも。その先が出てこない。こんなにも、こんなにも。こんなにも、なんだと言うんだ?

 問うても答えはない。分からないのだ。答えとなるかもしれなかったものは何かのようで何でもない荒いペースト状になって真っ白な便器の底へ沈んでいるに違いない。


 こんなにも君のことを。こんなにも君のことが。


 ぐるぐると渦を巻く言葉を何度も胃の中へ押し戻しているうちにそれは千夏の声に聞こえてきて、堪らず立ち上がって便器のレバーを押し下げた。渦巻く水は呆気なく私のチキン南蛮だのジントニックだのつくねだの、それとなんだかよく分からない私の苦しみのようなものを押し流してなかったことにした。涙の跡をつけ目を泣き腫らした気味の悪い男だけが個室に取り残された。口の中にまだタルタルソースの味がする。その奥から微かに漂う苦い煙草の匂いが臭くて堪らないような気がした。吐けるものは胃に残っていたが、吐きたいという衝動の方はすっかりどこかへ流れ去っていた。手洗いで何度か口を濯いで嗽をして、席へ戻った時には長芋のわさび漬けとハツと徳利と猪口とがこぢんまりとテーブルの上に並べられていた。店員は空いた皿を片付けていったらしい。飲みかけのカルーアミルクを置き去りにして。

 私は三分の一ほどを浅く残したカルーアミルクを見つめた。琥珀色を帯びた白をぼんやりと目から取り入れていた。その残り僅かな液体は漬け物にも焼き鳥にも絶望的に合わないと思われた。ほとんど癖のように煙草を咥えて火をつけたものの、酒と煙と胃液とに洗われた喉はがらがらに荒れ果てて血も流さんばかりだった。残り二センチほどだったジントニックも一気に呷ってまだ足りない。乾ききった喉がひび割れている。通りすがりの店員にお冷を頼んだもののどうにも我慢ならず、日本酒よりはいくらかマシだろうと目の前の、彼女が置いていったグラスの中のそれを一口含んだ。甘ったるさ。アルコールの匂い。コーヒーの香り。牛乳の風味。なめらかに嚥下されて内壁を撫でていく。

 美味しくないわけじゃない。それどころか余程、ざらついた喉には心地よい。千夏が前に言っていた通りだ。千夏の言葉は必要な情報をまっすぐ私に届けるのに私自身の言葉はちっとも近道を用意しようとしない。灰皿に置きっぱなしの煙草から濃い煙が立ち上がって不意に目を焼く。強く瞑ったそこからまた涙が出てきて頬を伝う。咄嗟に手に取ったおしぼりで目を押さえ、お冷を運んできた店員が心配したのか声をかけてくるのを大丈夫ですの一言で追い払って、細く開いた視界にお冷のグラスを探す。一気に三分の一ほどを飲み干すといくらか気持ちはマシになって、半ば手探りのようにしながらハツの串を摘んだ。しなやかな肉の感触は咀嚼していて心地いい。いくらか開くことのできるようになった視界で徳利を傾け、ひんやりとした猪口を口元へ運べば、鋭く辛い飲み口はハツの油分を洗い流して爽やかだった。そこへ長芋のわざび漬けを放り込む。瑞々しい音を立てていたそれはあっという間に粘りを帯び、わさびの香りが鼻へと抜けていく。千夏はこのどれも、自分から注文したことがない。

 空になったグラスをさりげなく通路際へ置いていくらもしないうちに通りすがりの店員が呆気なく持ち去って、私の視界には千夏のいた形跡がなくなってしまった。嬉しいと言えば、それは間違いなく嘘になると思った。明らかに今ここにあるのは喪失感と呼ぶべき代物で。寂しさと、言ってしまえばそういうものであって。

 わさびがつんと目の方へ抜ける。実に今日はどうかしていると思う。こんなにも涙腺の緩かった日など今までにあっただろうか。ハツを噛み締める。繊維の一本一本を噛み切っていく音が頭の中を満たしていってまるで彼女との繋がりがぶちぶちと切れて消えていくようで怖くて、壊れたように延々涙を零しながら肉を口に入れて噛んで嚥下して口に入れて噛んで嚥下して嚥下して嚥下して、落ち着く気配のない呼吸と心拍の乱れをどこへやることもできずに嚥下して嚥下して嚥下しきれなくて、どんなに乱暴に食べて飲んで吐いて泣いたって煙の向こうからそれを止めてくれる人のいないことに突き当たって、ああ、と吐いた息が震えながらアルコールの匂いを撒き散らした。ほとんど吸わないままフィルターの際まで焦げた吸い殻を荒く揉み消して灰の山へ転がす。絶望的な確信が心臓を差し貫いて私を殺した。私は。そうだ。そうだった。私は。

ずっとこうなることを恐れていた。

 こうなることに、怯えていた。

 結局私は彼女を大切にすることしか考えていなくて、それは彼女に寄り添うということとは全然別の何かだった。彼女に何ら危害を加えない安全な男なのだと思わせることしか頭になかった。決して彼女を否定しなかった。決して彼女を責めなかった。決して彼女に触れなかった。全部が、彼女が傷つかないことだけを考えてやっていたその全てが、軟弱で折れやすい私自身を守るための方策でしかなかった。彼女を受け入れもしない、退けもしない、全ては分厚い壁に隔てられた私自身の中に閉じて。

 言葉なんて何の役にも立ちはしない。当たり前だ。私自身が閉じていて何が伝わるのだろうか。何もだ。何も伝わりはしない。結局私は何も伝えることができなかった。当たり前だ。ずっと自分が傷つかないことにしか興味のなかった男が伝えられることなんて、煙草の吸い方くらいくだらないことばかりだ。そのくだらなさが千夏を苦しめた。傷つけないための行為で彼女は傷ついた。それが私を傷つけ苦しめる。どうせ苦しむなら私だけが苦しめばよかった。そうすれば彼女は傷つかなかったし、彼女の傷で私が苦しむこともなかったはずだった。

 みっともない。全ては回り回って自分のために過ぎないだなんて。今ほど心の底から千夏を抱きしめたいと思ったことがないなんて。抱きしめたい。手を繋いでキスをして胸と胸とで触れ合ってその吐息を口内に受けて交わりたい。考えなかったわけじゃない。ずっとそうしたかった。ただ、千夏がそれで傷つくのも、私がそれで傷つくのも耐え難かっただけで。ぐるぐる回る思いを噛み砕いたわさびの香りと一緒に飲み込む。ねっとりと内壁を流れ落ちていく。涙を拭う。ああ。どうかしている。猪口を満たして空ける。じわりと喉を焼かれてほうと息が漏れる。私の中の何かが腑に落ちる。


 携帯のバイブレータが唸っている。ぼんやりと手に取って眺めれば、着信画面に表示されているのは千夏の番号だった。

 ――このまま切ろうか?

 いや。一瞬迷って、結局すぐに通話ボタンを押した。耳に押し当てたスピーカーからはざらついたノイズばかりが聞こえてきて、黙り込んで聞いているとそれが不規則ながらも波のようなリズムを持っていて千夏の呼吸なのだと分かった。千夏が確かにこの通話の先にいることを感じた。心地よいリズムに心臓が痛む。この女を私は傷つけた。


「……私だけど」


 突っ慳貪に言えば、千夏は僅かに口ごもってから溜め息をついた。


「……あのさ」

「うん」

「その……」

「……うん。まあ、何。その、さっきは言いすぎたかな……って。思って」


 むず痒いような苛立ちが広がる。違う。君が私を傷つけたんじゃない。私が君を傷つけたんだ。間違っている。でも、そう考える君は私に似ている。


「あんな質問、答えられる方がおかしいよね……どうしてあたしを抱かないの、なんてさ。もしかしてなんか事情があるかもとか、そういうこと、全然考えてなかった」


 そんなことじゃない。そんなことは別にどうだって。


「構わないよ」

「え?」

「私にも問題があった。私も、ちゃんと伝えられなくて。君を傷つけた」


 ふっと、沈黙が降りる。


「……そう」


 寂しげな響きを含んで千夏が言う。


「じゃあ、さ。……あたしたち、これで終わりにしようか」

「終わり?」

「そう、終わり――」

「待って」


 引き止めてから思う。私は彼女の傍にいない方がいいんじゃなかったのか?

 いいや。

 記憶の中の千夏の瞳。その中の私が言う。心底追い詰められて澱んだ目で叫ぶ。お前はこの女の傍にいろ。みっともなく縋り付いて呼び戻そうとするくらい大切な女の傍にいろ。それがお前の望みだ。それが「私の」望みだ。吼えろ。望みを叶えろ。お前の大事な言葉で。お前が縋り付いてしがみついて自分の壁にしようとした言葉をぶっ壊せ。投げつけろ。差し貫け。お前の言葉で。お前の望みを乗せて飛ばすんだ。

 そんなことを言ったって、と千夏の呼吸を聞きながら私は問う。

 言葉で何が伝わるというんだ?


「……ねえ、何? 何とか言ってよ」


 何とかって、何だ。

 小細工はなし。飾りもなしだ。欲しいものを言え。呼べ。叫べ。吐け。お前の望みを言ってみろ。お前の欲しいものを、飲んで、食って、吐いて、泣いて、喚いて、叫んで、どんなに苦しんだって言葉じゃなきゃ手に入らないもの、掴め。放すな。最後まで食らいついて飲み干して語り尽くせ。


「千夏」


 口に出してからすぐ、奇妙な可笑しさが私の中を緩く吹き過ぎて余韻を残した。

 随分と惨めなもんだ、追い縋るというのは。


「千夏。戻ってきて、くれないか」


 通話の先で千夏は長々と息を吐いて――――。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ