船旅情景
ガルダが十年も乗っていた船を降りたのは、ノラについて行くためだったが、ではなぜそうまでしてノラについて行こうかと思ったのかと言うと、当のガルダもよくわかっていない。
刀を入手してから、二人は安宿の一室に陣取って休養を取っていた。
時刻はまだ夕刻にもならない。
部屋には一つしかベッドが無く、ガルダはそこに腰掛けて窓から見える空を見ていた。
外は雲が厚く、小雨もぱらついているのだが、これを閉めてしまうと部屋の中が真っ暗になってしまう。備え付けのランプもあるのだが、燃料は有料であるので、まだ明るい内は窓を開けていたかった。
ノラは既に、床で刀を抱いたまま眠っている。
よく眠る男だ。
船に乗っている間も、時間があれば寝ていた。
*
そもそもノラは、東の方のある港で西に行きたいのだと言って、船員見習いとして船に乗り込んできた。
船はいつだって人手不足だったし、船長は高い船賃と低い賃金の差し引きをふっかけて、小銭で小間使いが出来ると喜んでいた。
その時点でノラは、既に数年の旅をしており、精神的に摩耗しきっているせいで感情らしい感情を見せることもなかった。
船上という限定された空間で、あまり待遇のよくない船員達にとって、無口な流れ者はすぐにストレス発散の対象になった。
下級船員達は何かあれば彼を殴り、何も無くても彼を殴った。
ガルダも、ノラが視界に入る度に彼を殴りつけた。反抗も抵抗もない。ノラは殴られ、蹴飛ばされるままに暴行を受け入れる。
船長はその事実を当然、知っていながらガス抜きの一環として口を出すことはなかった。
ある日、ガルダが忙しく走り回っているときに、倉庫から食堂へと木箱に入ったジャガイモを運んでいたノラとすれ違った。
不意に、むしゃくしゃして彼を突き飛ばした。
ノラが倒れて木箱からジャガイモがこぼれる。それでも、ノラは文句も言わず、ガルダに一瞥さえくれずにのそのそとジャガイモを拾う。
馬鹿にされているんだろうか。
思ったガルダは腹立たしくなり、刃物を突きつけて泣き顔の一つも見てやろうと、腰のナイフに手を伸ばした瞬間、ノラの姿が消えた。
ガルダには空間が歪んだように見えたが、実際はノラが立ち上がってガルダを捕まえただけだった。
圧倒的な速度、無駄のない動き。喧嘩慣れはしていても本格的な戦闘技術の訓練経験がないガルダにはそれが理解できなかった。
ナイフを掴もうとした腕と、そのナイフはノラの両手に収まっていた。もっと正確に言うのなら、ノラの片腕がガルダの利き腕を掴み、鞘に収まっていたはずのナイフをノラが残った手で掴んでいる。ナイフの切っ先はガルダの首に突き刺さっていた。
重要な神経や血管、器官を傷つける直前。
ナイフはためらいなく、そこまでさし込まれて、ぴたりと止まっていた。
船の揺れにも、ガルダの動揺にも関係なく、ナイフの刃先はガルダの首に固定されている。
その瞬間、初めて視線が交差した。ガルダはノラの瞳をのぞき込んだが、なんの感情も読み取れない。ガルダの全身から、滝のような汗が噴き出す。
魚を絞める料理人にだってもう少し感情があるだろう。
ノラにとって殺人が何ら痛痒を伴わないことと、その技術を十分すぎる程に所持していることがわかった。しかし、今更わかったところで。
そう思って目を閉じたガルダの首から無造作にナイフが引き抜かれた。
躊躇いながらも、目を開けると、ノラは何事もなかったようにジャガイモを拾っていた。
ガルダの首からは、血が出ていたが、それが致命傷でないことは自分でよくわかった。
ナイフは元通り、鞘に納まっている。
出血がなければ、白昼夢を疑うほどに元通りだった。
*
ガルダはそれ以来、ノラを避けたが、他の船員達は相変わらず、ノラに暴力を振るっていた。
船の全員がノラの正体を知るのは、ある風の強い日だった。
ガルダ達が乗っている船が海賊の襲撃に遭い、切り込まれたのだ。
接舷して次々と乗り移ってくる海賊の攻撃と、船乗り達の抵抗をノラは、ぼけっと眺めていた。
やがて、船員達が次々と切り倒され、勢いづいた海賊の一人がノラを見つけて斬りかかった。
ガルダは自らも戦いながら、その様子を視界の端で追っていた。
確かに、斬りかかったのは海賊であったが、次の瞬間、振りかざされたはずの曲刀はノラの手に握られており、甲板に転がったのは海賊の首だった。
続いて斬りかかってきた海賊も、ノラの一閃によって頭の上半分が千切れ飛んだ。
三人目の海賊の腹を切り裂き、腸をあふれさせた辺りで、海賊達も船乗り達も気勢を上げるのをやめ、ノラを注視していた。
声を上げ続けたのは、今しがた腹を割かれた海賊だけであったが、それもノラが刃を一降りすると、静かになった。それほど、ノラの動きは異質だった。
数十名の荒くれ者達の乱戦が急に静寂で塗りつぶされ、風と波、それに二隻の船が立てる音だけがその場を支配した。
自分を襲う者がいないことを確認し、ノラは曲刀を放り捨てると、再び乱戦の邪魔にならないように甲板の隅に引っ込んだ。
どこでも熟睡出来るというのは、ある面で才能です。
昔、南ア出身の友人はコンクリートの腕でも寝れると豪語していました。
代わりに、芝生もないところでやるラグビーをクレイジーだとも言っていました。




