宝石商人と才能石2
◇
狐に化かされた気分だ。
確かにいつの間にか眠ってはいたが、こんなに時間が経っているとは――。
周囲にある木や糸巻きのようにビルを覆う蔦のせいで、日光が入りにくい。いつでも薄ぼんやりしているせいでこんなに眠っていたのだろう。
――だとしても寝過ぎ。
自分の情けなさに小さくため息を吐く。
もう冬も近いというのに、外で八時間近く寝ていたなんて。最近いろいろあって疲れていたのかもしれない。
「物は?」
差し出された商人さんの手に巾着袋を乗せた。中にはビニール製の小袋がある。
商人さんは、小袋の中に入っていた石を手のひらに転がした。
「――ダイヤモンドか」
どこからともなくルーペを取り出すと、小さな石を観察する。
ダイヤモンドといえば、宝石の中でもっともポピュラーな石だ。一般的に無色透明なその石は、もっとも硬い鉱物でも有名で、装飾品の他に工業用にも用いられている。
商人さんは、手のひらに乗せた石を一通り見たあと、部屋の奥へと行ってしまった。
ここで立ちぼうけなのだろうか。
ぐるりと周囲を見渡す。
天井まであるガラス戸付きの棚には色とりどりの無数の石が並べられ、その前を遮るようにある長机には、これまた負けじと本が積上がって壁を築いている。それが両端にあるものだから、常に一方通行ですか通れない。タワーと化した本や書類を崩せば、下敷きになりそうだ。が、通路の先、店の奥はまた違うのだろう。
このまま本が積み重なっていけば、証明の光さえ遮りそうだと思ったときだ。
「これはどこで拾ったんだ?」
奥から歩いてくる商人さんが、手に持つ小瓶を振りながらこちらに向かってくる。どうやら石を小瓶に移したらしい。
「経緯、ですか」
問えば商人は深く頷く。
「そんなに大した話でもないですけど」
前振りを入れながら、二週間前のことを思い出す。
「実は私、転職して今月から新しい職場で働き始めたんです」
まだ仕事にもなれず、帰り際にトイレに寄り、鏡に向かって大きなため息を吐くのが習慣になり始めていた。
まだ始めたばかりなのだ。慣れなくて当たり前だと思う一方、ミスを繰り返している自分に焦りと憤りを感じイライラが止まらない。気分を変えるため、両手をきれいに洗う。本当は顔を洗いたいところだけど、会社で化粧を落とす気にはなれない。
冷たい水の感覚が頭の芯まで届くようだった。
鬱蒼とした感情を洗い流したあと、鞄の中からハンカチを取りだそうと広げたとき、鞄の内側にあるポケットの中で何かが煌めいた。それが今小瓶に入っている石である。
「石に気付いたのはちょうど一週間前でした」
「前職は?」
「宝石業界です。でも、もちろん盗みはしていませんし、同僚にも確認してもらいましたが、社内で紛失したダイヤはありませんでした」
「なるほど。同業者ってわけか」
同業者――なのだろうか。今は全く別の職種についているから違うと思うけど。
「じゃあ、石についてもそこそこ詳しいな」
「い、いえ、私は資格とか持っていなかったし……」
「違う。そういう意味じゃない」
ど、どういう意味なのよ。
商人さんは、カンカンっと爪でガラス瓶を小突いたあと、大きなため息を吐いた。
「石には魂が宿る。ダイヤモンドの逸話は知っているか」
「逸話、ですか」
「そう」と彼は言うと、積み上げられた本の壁に手を突っ込んだ。そして一冊の本を取り出す。
「じゃあ、呪いのダイヤは?」
「し、知りません!」
ダイヤに呪いとかあるのか。
でも、前の職場の先輩も言っていた。「石には何か不思議な力がある」と。お客さんの中にも「母の形見」といって宝石を持ってきた人は確かにいた。
だけど、お守り的な話じゃなくて呪いって――。
「知らないか」
商人さんはそう呟くと頭をかき乱した。態度からしてめんどくさいという気持ちが十分すぎるほど伝わってくる。
「『世界的に有名なダイヤモンド』と言われているダイヤは十四あるといわれている。その中に『呪いのダイヤモンド』と呼ばれる、ホープ・ダイヤモンドというダイヤがある」
そう言って商人さんは、見開いた本の写真を指さした。
『呪いのダイヤモンド』なのにホープ(希望)なのかと思いつつ写真を見る。一見、どこにでもありそうな普通のブルーダイヤモンドだ。
ダイヤモンドと言えば、無色透明な石を想像することが多い。けれども、ブルーやイエロー、ピンクなどの色もあり、これらはファンシーカラーと呼ばれている。天然のファンシーカラーダイヤは、色にもよるが無色のダイヤよりも高値で取引されるほど希少性か高い。
「ホープ・ダイヤモンドは、歴代の所有者に不幸をもたらしたと言われるダイヤモンドだ。有名な所有者はルイ16世とその妃、マリーアントワネットとかな。さすがにマリーアントワネットは知っているだろう? フランス革命で斬首された王妃だ。そのあとも所有者を転々としながら、ことごとく不幸を招いたと言われているが、確証がないものも多いと言われている」
呪いのダイヤモンド、か。
実物を目の前にしているわけではないが、写真からでもその青色の美しさがよくわかる。
綺麗なダイヤモンドにしか見えないのになあ。
宝石は、長い年月をかけ地球が作り出し、永遠に失うことのない輝きを持つ宝だ。人一人よりも長い年月、世界を見て回る宝石は、まさに時代を駆ける旅人ともいえる。
「それで、だ。この石を持っていてどうだった?」
「ど、どうって?」
小首を傾げれば、目の前で盛大なため息をつかれた。
「俺がこんなに懇切丁寧な前振りをしたのに」と商人さんは呟くが、一体私は何と応えればよかったのか――謎だ。
「だから、この石を持ち始めて変なこととかいつもと違うこととか起きなかったかって聞いているんだよ。宝石業界にいたんだったら、この手の話、一つや二つ聞いたことがあるだろう。それが自分の身に起きていないかって聞いてるの、俺は」
「え、あ、そういうことですか」
だから「石についてそこそこ詳しい」と言ったのか。こういう不思議な話を耳にする機会が一番多いのは、石を扱う人間だ。でも生憎、私が働いている間にそういう石の話は聞いたこともないし見たこともなかった。
「――石に気づいてから特別妙な出来事は……なかったと思います」
一瞬脳裏をよぎることがあったが、あれは関係ないだろう。なにせ石を見つける前のことだ。
「そうか」
そう言って男は小瓶に目を落とした。
「この石、少し預かるぞ」
「え……」
「何だ」
「い、いえ」
メガネ越しにのぞく商人さんの鋭い眼光に怯み、結局才能石なのか宝石なのか聞くこともできず、追い出されるように店をあとにした。
3
「馬ッ鹿じゃないの!」
鋭い罵声に身が縮まる。
静かなピアノ曲が流れる店内に、その声は一段と大きく響いた。
「アンタそれ、騙されたのよ! 詐欺よ詐欺!」
「そ、そんなこと――」
「あるわよ!」
そう言って目の前でアイスティーを一気に飲み干した。美人が怒ると怖い――日を置かず二度目の経験だ。
久々に会わないかと話を持ちかけたのは、私。例の石の件について、いろいろ世話を焼いてくれた真由美にお礼と報告をするために呼んだのだが、まさか説教されるはめになるとは。
「アンタ、ちゃんと北川町のショップに行ったんでしょう? それならまだ――」
「ちょ、ちょっと待って!」
今、聞き捨てならない言葉を聞いた気がする。
「北川町のショップじゃなくて、川北町のショップでしょ? ビルの二階にある……」
真由美の表情が固まる。
「……店の名前は?」
店の、名前。
あの店に名前はあったっけ――。
そのとき、ふと脳裏をよぎったのは古びた木製の扉に掘られていた、落書きのような文字。
「『星の家』――だと思う」
途端、真由美は大きく肩を落とした。
「華菜、ごめん。――あたしが悪かった」
「ちょ、ちょっと、真由美。どうしたのよ」
手のひらを返されたような態度に、ただ狼狽えるしかない。
何かとんでもないことになっているような気がして、心臓が大きく鳴り始めた。
「ちゃんと電話で話をすればよかった」
「ちょっと待って。真由美、何の話?」
こちらを見る社内でも屈指の美人に先ほどの勢いはなく、「本当にごめん」と謝られる始末である。さっぱり状況が掴めない。
「実は――」
嫌な予感は的中した。
真由美が教えてくれた才能石に詳しい人がるというショップは、川北町の隣町、北川町にあるショップだという話だった。
「あのとき、店の名前までわからなくて、書かなかったあたしが悪かった」
「え、じゃあ私、真由美が教えてくれたのと別のところに行って、石の鑑定を依頼したってこと?」
こんな近場に才能石に詳しい人間が二人もいることに驚きだ。
世間は以外と狭いのだなと思っていたら、頬をつつかれた。
「何?」
「アンタ今、とんちんかんなこと考えていたでしょう?」
とんちんかんとは、失礼な。
「事の重大さ、わかっている?」
「事の重大さ?」
「身元がきちんとしていない人間に、才能石かもしれない石を取られているのよ?」
「預けているだけだよ?」
「だから、そういう手口で才能石を盗んでいるのかもしれないじゃない」
言われてみれば、確かに。
「すぐに行って、返してもらいなさい。その方が絶対にいい」
真由美の真剣な表情を前に、首を縦に振るしかなかった。
会計を済ませ真由美と別れたあと、その足で本屋へと向かった。才能石は、現存する宝石と同じ姿で現れると言われている。そのため、才能もその石言葉に近いのではないかという噂を耳にしたことがあった。
真由美はああ言っていたが、そもそも才能石じゃない可能性もあるのだ。
目的の書籍のあるコーナーまで行くと、足を止める。
人付き合いが苦手で彼氏もいない。周りの友達は結婚して子供までいる。それなのに、私は――。
田舎の悪い風習に当てられているだけと思い込んできたけど、心のどこかでいつかは素敵な人と出会って、子供を授かり、両親と同じように家庭を築きたいと思っている。
でも、常に受け身の姿勢で、周囲に気を配れるほど器用でもなければ、人と話すことも苦手。それに愛嬌もなければ見た目も平均以下。いいところなんて一つもない。それは、私が一番わかっている。
ぼんやりと色とりどりの背表紙が並ぶ、本棚を見る。
腕を上げる気力も失って、代わりに大きなため息が出た。
もう、帰ろうかな――そう思ったときだ。
「ねえ、聞いた? また通り魔が出たらしいわよ」
唐突に耳に飛び込んできた言葉。最近このあたりに出現する「通り魔」の話だ。恋人だろうか、若い男女がそんな話をしながら私の背後を通り過ぎる。
「最近多くね? てか、まだ捕まってなかったのかよ」
「捕まってないよー。だから、日が暮れたあとの一人歩きはやめた方がいいってニュースで言ってた。だからー」
「わかってるって、送っていくから。もうちょっとつき合ってよ」
騎士のいるお姫様って感じだなあ。
ちょこっとうらやましいと思いつつ、私はもう姫ってわけにもいかないなと心の中で笑う。
自分の身は自分で守らなければならない。
時間を確認すれば、もう五時半を回っている。外は暗くなり始めていた。
「もうこんなに暗いの」
私が立ち止まっても、時間は止まってくれない。
冴えない、取り柄のない私の才能かもしれない石。あのダイヤモンドは、私にとって星のような小さな希望かもしれないのだ。
真由美のアドバイスに従い、急いで例の石の鑑定を依頼した宝石商人のいる廃墟のようなビルへ向かった。