第7話 迷いながら、悩みながら
六月中旬に入ると雨が増えていき、外に出られる機会が減っていく。雨が降っている時は入水制限がかかる。海が荒れるといくら安全海域とはいえ危険性がないと保証できないからだそうだ。
「来る日も来る日も柔軟……体を、動かしてえ……動かさないと爆発しちまう……」
「破片は回収しておくからな」
「そこは爆発する前になんとかしてくれないか!?」
海老沼の愚痴に付き合うのもいい加減飽きてきた頃。俺たちは放課後、護崎診療所にお邪魔してリハビリスペースの一角を借りて柔軟をしていた。
「さすが、柔らかいな」
「柔軟はスポーツの基本だからな」
海老沼は長座体前屈で体がべったり着くくらいに柔らかかった。がたいのいい長身がダイナミックに折れ曲がっている。
「一つ聞いていいか?」
代わって俺が海老沼に背中を押されていると、背後から声が聞こえてきた。
「何だよ」
「舞原の症状って、どれくらい進行してるんだ?」
「ああ……」
いつか聞かれるだろうと思っていたことだった。
今も夏乃は、向こうでリハビリを受けている。海老沼はその姿を熱心に見つめていた。気になるのは当たり前のことだと思うが、俺の口から全て話してしまうのは躊躇われたので、軽く病状を説明するだけにとどめることにした。
「肢帯型筋ジストロフィーってのは、筋ジストロフィーの中では比較的軽い病なんだ。夏乃の症状もそこまで深刻じゃない。ただ、足の筋力低下の進行が若干早くて、中二の時から車椅子を使ってる」
「比較的軽いと言っても難病なんだろ? 少し調べたぐらいの知識しかないが……」
「まあ、な」
「よく普通に学校通ってるな」
「それは夏乃の意向だ。『どんなにしんどくても学校には行きたい。今までいけなかった分を取り戻すためにも』──だそうだ。HDも護崎さんに止められたんだけどな、夏乃が譲らなかった」
海老沼はしばらく無言でいたが、
「……強い子、なんだな」
少し苦しそうに、一言だけ言った。
「ああ、強いよ。俺たちの想像もつかないくらい長い間、あいつは一人で戦ってるんだ」
「俺の馬鹿みたい健康な体を分けてやれればいいのにな」
冗談めかした台詞をだったが、声音だけは真剣だった。
と、そこに新たな来客が現れた。
「ナツ~、お疲れ様」
姫宮だ。陸上部が終わってからそのまま来たのか、額にはうっすらと汗が浮かんでおり、制服の襟でパタパタ扇いでいる。お菓子などが入ったコンビニの袋を下げ、笑顔で夏乃に手を振っている。
「わ、ヒメだ! やっほー」
手を振り返す夏乃。仲睦まじい姉妹のような光景だ。
「おたくのところの幼馴染、あんな笑顔できるのな……」
海老沼に聞いてみるも、やれやれと首を振っている。
「ありゃ男には見せない顔だな」
「レズなのか」
「レズかもしれない」
「聞こえてるわよそこの馬鹿二人!」
顔面に鬼を宿した女が顔を赤くしてこちらを睨みつけてくる。その割にあまり迫力がないのは、小顔で可愛らしい顔立ちだからだろうか。小物感がすごい。
「私だって笑うことくらいあるし、なによりレズじゃないから!」
「え~、私ヒメのこと好きだよ?」
キーキー怒る姫宮の背後から夏乃が抱きつく。すると姫宮は「キュッ」という意味不明な音声を発して硬直した。
「にゃ、なにを言って、や、私だってナツのことは、その、好き……だよ」
「ほっぺたあか~い! もー、ヒメは可愛いにゃ~」
「やめて! や、やめてぇ……はぅ……」
「おたくのところの幼馴染、恍惚とした表情をしてるぞ」
「ありゃ男には見せない顔だな」
「レズなのか」
「……レズだな」
「ち、違うって言ってんでしょ! 私はちゃんと……男が好きよッ!」
三対一で様々な角度から責められた姫宮がいよいよ限界そうなのでここらでやめておくとしよう。
俺たちは終始ニヤニヤしながら筋トレへと移った。
☆★☆
「遼」
俺たちの横で体育座りをしている姫宮が虚空に目を向けながら言った。
「もう陸上部には戻ってこないわけ?」
「……」
しばらく無言でいた海老沼は「んー」と首をひねって、
「分かんねえ。戻るかもしれないし、このままかもしれない」
「でも、まだ毎日走ってるんでしょ?」
「練習云々ってより、もう日課だからな」
「いつでも戻ってきていいのよ」
海老沼は、少し苦そうな顔をして答えた。
「ああ、ありがとう」
それから、その場の空気を嫌がったのか海老沼は一度トイレに行くと言って行ってしまった。この場には、向こうでリハビリに専念している夏乃を除けば俺と姫宮だけになった。
「姫宮、聞いていいか?」
「なんで海老沼遼が陸上部をやめたのか、でしょ?」
先手を取られて言葉に詰まる俺に、姫宮は膝に顔を埋めながらぽつりぽつりと語った。
「それが、分からないのよね。分かってるのは、辞めたタイミングは全国大会が終わった直後で、理由が『熱が冷めた』ってことだけ。まあその理由も本当かどうかは分からないけど」
俺は、この間の夏乃の言葉を思い出していた。
──『みんな、悩みを抱えながら生きてるんだよ。君だって、私だって』。
そして、海老沼だって。
──きっと、そういうことなんだろう。
「私は、全国大会のレベルの高さにビビったんだと思ってるのよね。あいつ、努力しなくても才能だけで行けるところまで行けちゃうヤツだったから、きっと限界を感じたんだと思う」
「へえ、よく見てるんだな」
「ふん、何年一緒だと思ってんのよ」
普段ツンツンしてるので分かりにくいが、姫宮は周りをよく見ていて、困っていると話を聞いてくれる……そんな、友達思いの少女なのだ。
なかなか海老沼が戻ってこず、それからしばらく姫宮は海老沼の愚痴を言ったり、世間話をしたりとよく喋った。俺は聞き役に徹していたのだが、久しぶりに姫宮とまともに会話できた気がした。
「あのさ」
話題がひと段落したところで、姫宮が一つ聞いてくる。
「もうすぐ夏祭りがあるじゃない?」
「ああ、来月だったか」
「それでさ……、よければ、一緒に行かない?」
意外な提案に、俺は思わず姫宮の方を見たが、姫宮はそっぽを向いていて表情までは分からなかった。
「俺とか?」
「他に誰がいるのよ」
「そりゃそうだな……」
「で、答えは?」
「いや、うん、いいよ。断る理由はない」
「……そ。なら、詳しいことはメールで」
「分かった」
「大切な話があるから、絶対来なさいよ! ドタキャンとか許さないから!」
……大切な話?
「そ、そこまで念を押さなくても……」
『大切な話』。そう聞いていくらか想像できるものはある。夏祭りという舞台と、そこで話したい大切なこと……。
「夏祭りか。もうすぐそんな時期なんだな」
七鳴島では、学校が夏休みに入ると同時に夏祭りが開催される。これは季節的にもその頃にはもう暑くなっているという点と、観光客を招く戦略上の理由からだ──と、市長である夏乃の親父さんが言っていた。
夏が来る。
ただの学生にとっては楽しい長期休暇。部活に精を出す人もいるかもしれない。島外に出て遊びに行く人もいるかもしれない。
だが。
俺たちにとっての『青春』はこの島の海にある。
七鳴島公認ハイドリア・ダンス公式大会。
開催は八月二十日。
海の魅力に取り憑かれた少年少女たちの戦いは、残り二ヶ月というところまで迫っていた。
漠然とした予感。
確信はない。
だけど。
きっと。
──何かが変わる、夏が始まる。




