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第3話 深き青の世界へ

肢帯型したいがた筋ジストロフィー』。


 発症時期はまちまちで、幼年期の発症もあれば十五、六歳での発症例もある。デュシエンヌ型と呼ばれる重いタイプの筋ジストロフィーに比べれば比較的症状の進行は遅く、呼吸器に障害が出なければ生存率も高いのが特徴だ。

 ただ、遺伝子解析でも半数以上は原因が分からず、有効な治療法は存在しない。筋ジストロフィーの患者は、一生その病気を背負って生きていくしかない。

 夏乃と出会ったのは、俺が家の都合でおばさんの家に引き取られた小学生の頃だ。その時にはもう夏乃はこの病を発症していた。リハビリや薬の効果で抑えてはいるが、年を重ねるごとにほんの少しずつ症状は進行している。

 彼女が車椅子に乗り始めたのは中学二年の春だった。

 泣きながらリハビリする彼女を見てきた。

 不登校になりかけた彼女を、日に日にやつれていく彼女を、泣き腫らした目で俺を睨みつける彼女を、見てきた。

「俺がお前を支えるよ」──なんて、無責任なことを言ったのは小学校の卒業式当日だったか。

 日数ギリギリで卒業要件を満たした少女のために、俺は卒業証書を届けたのだ。あの時のことは、今でもよく覚えている。


 ──「次は、みんなと一緒に卒業しよう」。

 ──「だから、また学校に行こう」。

 ──「俺がお前を支えるよ」。


 夏乃は躊躇いつつも、小さく頷いてくれたのだ。変わるために。このままで終わらないために。定められた運命に逆らうために。

 そして、風向きが変わり始める。

 変えたのは、俺たちが小学生になる少し前に発表された、とある大発明があった。

 名を、『反水圧適応因子アンチハイドロファクター』といった。当時小学生だった俺たちには原理は理解できなかったが、要は「海でサカナみたいに泳げる装置」だ。もちろん、好奇心旺盛な小学生である俺も、引きこもっていた夏乃も魅力には抗えず、こぞって海に飛び出した。

 そこに、救いがあった。

 少しずつ症状が進み、不登校になりかけた夏乃だったが、一つだけ彼女に救いをもたらすものがあった。

 それが、海だ。

 反水圧適応因子アンチハイドロファクターによる潜水には、ほとんど力を必要としない。軽く手や足を動かしただけで、因子の反作用で素早く泳ぐことができる。それは、足の筋力が衰えていた夏乃にとっても同じだ。彼女は、海でなら健常者となんら変わらず泳ぐことができたのだ。

 学校へ行くのが嫌になると、少女は海へ出た。ひたすらひたすら泳いだ。海は彼女を差別しなかったから。

 俺と出会ったのも、不登校になりかけた時に救ってくれたのも、そして二人で進んでいこうと決めてからも、すべての要因は海に繋がっていた。

 ──中学に入った頃、最大の転機が訪れる。

 夏乃が泳ぐ姿を記録に残そうと、夏乃の親父さんが動画を撮影した。

 夏乃の泳ぐ姿は美しい。小学生の頃から泳ぎ続けてきたという練習量もあるが、足を揃えて水を蹴る姿が人魚姫のようで、ひたすらに美しいのだ。

 もっと多くの人にこの美しい姿を見せたいと思ったのだろう、親父さんはその動画をネットの動画サイトにアップロードした。

 それが、すべての始まりだった。


『七鳴島に棲む人魚姫 難病筋ジストロフィーの娘が自由に海を泳ぐ』


 公開から一週間で200万再生を突破。当時非常に注目の集まっていた『反水圧適応因子アンチハイドロファクター』に関するトピックであったことも後押しし、難病の少女が自由に海を泳ぐという感動的な光景に、多くの人が心を動かされた。

 ──まさかそれが、七鳴島の観光客を何倍にも増やすことになるとは誰も思わなかったが。

 七鳴島の市長でもある夏乃の親父さんは、この機会を見事に利用してのけた。

 そして、七鳴島のさらなる観光客誘致のために考案されたのが、新スポーツ『ハイドリア・ダンス』であり。

 無事に一緒に中学を卒業した俺たち二人が今、そのスポーツに青春を捧げようとしているのであった。


☆★☆


 翌日。

 俺たちは登校に時間がかかるので朝は早い。登校時刻からかなり余裕を持って家を出る。

 そして、いつものように夏乃の家に迎えに行き、車椅子を押しながら坂を登っていると。


「手伝おうか?」


 そんな声がかかる。俺と夏乃が振り返ると、そこにはいかにも体育会系な、短髪の少年がいた。


「君は確か……」


 高二になり、クラス替えしてまだそれほど時間は経っていない。俺はとっさに名前を思い浮かべることができなかったが、夏乃が代わりに答えた。


海老沼えびぬまくんだっけ?」

「そう。海老沼遼えびぬまりょう。よろしくな」


 スッと手を挙げ、白い歯がキラリと光る。

名前を聞いて思い出した。確か去年、陸上の全国大会で準優勝だかで、全校集会で表彰されていたヤツだ。


「浪川、いつも舞原のこと押しながら坂登ってるだろ?」

「ああ、そうだね」


 俺はキラキラ笑顔の海老沼に気圧されながら返事をした。


「だから、手伝おうかと思って声をかけたんだよ」


 絵に描いたような親切心溢れる好青年だ。俺はその思いやりに感謝しつつ、


「いや、これは俺の筋トレも兼ねてるから手伝ってもらわなくても大丈夫だ」

「ありがとね、海老沼くん」

「はあん。なるほど。いやいや、そういうことならいいんだよ。にしても、浪川もなんかスポーツやってんのか?」


 海老沼は興味津々という顔でこちらを見ている。俺はどうしたもんかなと困惑しつつ、取り敢えず名前を出してみる。


「ハイドリア・ダンスって知ってるか?」

「ん、ああ。名前は知ってるぞ。俺は昔っから陸でいかに早く走るかしか考えてこなかったから詳しくはないが」

「あ、あはは……」


 俺は夏乃と顔を見合わせて苦笑する。たまに俺たちを見て声をかけてくれる人はいるが、スポーツのことまで聞いてくるヤツはなかなかいない。


「ハイドリア・ダンスって面白いか?」


 俺たちに合わせて歩きながら、海老沼は前を向きつつ尋ねてきた。


「ああ、そりゃ楽しいから今も続けてるんだが……興味があるのか?」


 HDハイドリア・ダンスはまだプレイ人口が多くない。一年に一回、発祥の地であるここ七鳴島で大会を開く程度のものだ。仲間が増えるなら嬉しいのだが、海老沼は陸上の練習が忙しいのではないのだろうか?


「興味か。興味は……あるな」

「なら、お試しでやってみようよ! 海老沼くん、運動神経抜群だろうしきっとすぐ上手くなると思うよ!」


 夏乃が車椅子から乗り出すように海老沼を勧誘する。夏乃はまるで宝物を見つけた子供のように目を輝かせて、HDの魅力を力説し始めた。


「お、おう……分かった、分かったから。それ以上乗り出すと落ちちまうぞ」


 海老沼は夏乃をなんとか宥めようとしている。最近夏乃は仲間探しに躍起になっているようで、積極的に声をかけているようだ。うちの学校でも既に何人かプレーヤーはいるし、成果は着実に出ている。


「じゃあ、今日の放課後! 着替え持って海岸に集合!」

「おう!」


 威勢のいい返事に夏乃も満足げに頷く。

 海老沼は学バンを腕に引っ掛け、両手を頭の後ろに組んだ。


「しっかし、舞原市長が舞原のために考えたのがきっかけなんだっけか。分け隔てなく楽しめるスポーツって……なんか、いいな」


 ようやくたどり着いた校門を抜け、玄関で靴を履き替えた。


「あと浪川のことヒョロヒョロの根暗だと思ってたけど、世の中分からないもんだな」

「一言多いよ……」


 それを聞いた夏乃がバッっと振り返り、


「ほら~! やっぱり前髪長いからそういう印象になるんだよ! 切りなよ、ただでさえワカメみたいな癖っ毛してるのに」

「髪はいいだろ髪は!? 俺はこの髪に誇りを持っているんだ」

「そのさあ、よく分からないプライドは早く捨てた方がいいよ。髪の毛切るまで蓮太のことワカメおうじって呼ぶよ」

「夏乃のその知識はどこから来てるんだよ!」

「お父さん」

「ああ、なるほど……」


 マニアックな知識の出処はどうやら親父さんだったようで。


「お前ら、仲良いのな……」


 置いてけぼりを食らった海老沼が、じっとりとした視線を向けていた。


☆★☆


 授業の記憶はないので飛ばすこととする。

 放課後である。


「リアクターの使い方は知ってるか?」

「ああ、友達と遊ぶときとかにチョロっと使うくらいだけどな」


 早速水着に着替えた俺たちは、堤防の先端に集合していた。五月だが肌寒くはない。水に飛び込んでも、リアクターによって因子で覆われているのでさほど寒さを感じることはない。ただ、リアクター起動前後などで濡れる機会はあるので、水着になる必要はある。


「手首と足首にそれぞれ制御装置をつけて、首の本体で操作……だっけか」


 反水圧適応因子発生装置アンチハイドロリアクター、通称AHR、もしくはリアクター。

 手首足首に腕時計大の制御装置を装着し、首の親機が発生させる因子を体の周りに定着させる。また、親機や子機に何らかの故障が発生しても、子機である制御装置の残りいずれかが生きていれば機能を保てるという、一種の安全装置の役割も果たしている。

 これらの装置群をまとめてリアクターと呼んでいる。


「競技用の設定に変えるのは時間がかかるから、今日はとりあえずこのままだね」


 夏乃の言葉に海老沼は「競技用の設定なんてあるのか!」と、いちいちいいリアクションを返していた。

 俺たちは軽く準備運動を始める。そこで海老沼がコソコソとこちらに寄ってきた。


「なあ、一つ聞いていいか」

「どうした、やっぱり怖くなったか?」

「ちげえよ。そうじゃなくて……」


 海老沼は声を潜め、前方で意気揚々と腕を伸ばしている夏乃を見ながら、


「もしかしてお前は、舞原の水着を拝み放題なのか……?」

「そりゃいくらでも見られるけど、拝むってほど尊いものではな」

「拝み放題なんだな?」

「…………まあ、間違ってはいないな」

「……ほーん」


 なんだその顔は。「ほーん」じゃないんだよ「ほーん」じゃ。


「毎日のように見てたらありがたみもいつかなくなるんだぞ。水着を見ても何も感じられなくなる方が悲しいとは思わないか?」

「お前なあ、男が女の水着を見て何も思わないなんてことがあると思うか……?」

「質問に質問で返すんじゃないよ。しょうがないだろ、もう夏乃の水着なんて十年くらい見てきたんだから」

「十年! お前ら、本当に長い付き合いなんだな。いや、だからこそお前にはアレの凄さが分かんねえのか……」

「?」


 海老沼はさらに声を潜め、耳元で小さく呟いた。


「舞原……あいつ、とんでもなく美人じゃないか?」


 丹念に足のチェックをしている舞原を、後ろから眺める。

 確かに。いや、言われるまでもない。

 水着はセパレートタイプの白を基調としたビキニ。腰に巻かれたパレオが非常に似合っている。病弱ゆえの肌の白さと、病弱の割には発育のいい胸が「水着を着る」という行為に秘められしパワーを最大限まで引き出していた。

 スタイルの良い夏乃には、水着がよく似合うのだった。

 総合評価、文句なしの「美人」。


「まあ、言われてみれば……」

「だろ? やべー、舞原めっちゃ綺麗じゃんか……。羨ましいよ、あんな美人な幼馴染がいるなんて。付き合ってないのか?」

「まあ、そういうのはないよ。兄妹に恋愛感情抱かないのと同じだ」

「そうか。まあ、向こうがどう思ってるかは分からないけどな」

「……」


 俺は海老沼に背中を押してもらいながら柔軟をする。


「てか海老沼、HDに興味があるってそれ(みずぎ)が狙いか?」

「いやいや、そんなことがないと言ったら嘘になるがな」

「嘘になってるじゃないか」

「しょうがないだろ。男の本能には抗えない」

「お前ほど本能に従って生きてる人間もいないと思うけどな。ていうか、陸上はどうしたんだ?」


 背中を押す手が止まる。


「陸上は……やめた」


 顔は見えなかったが、影を帯びたその声音から何かあったことだけは察せられた。


「さっきから何を話してるの?」

「ん、ああ、舞原の水着が似合ってるって話をな」

「なっ、おま」

「あらあらあらあら、蓮太ちゃんは普段そういうことを口に出さないから新鮮でとっても嬉しいわね」

「そんな喋り方じゃないだろお前……」


 頰に手を当てにっこり笑う夏乃。

 なんか一瞬睨まれたような気がするが気にしない。目が笑っていないのも何かの間違い。怖い。


「さて、それじゃあ蓮太、お願いね」

「は、はいっ」


 夏乃は軽く足をいじりながら「よし、今日も大丈夫」と呟くと、俺に向かって手を差し伸べてくる。俺はいつものようにそれを受け取って、肩を貸して立ち上がらせて堤防の縁に座らせる。


「よし、それじゃあ行こうか」

「おお、緊張だな」

「じゃ、お先に!」


 夏乃は軽く手を挙げるとスッと海へ降りていく。


「さて。今から海に飛び込む訳だが、オススメの入り方があるんだ」

「?」


 キョトンとする海老沼を連れ、十歩ほど下がる。


「空中で首のスイッチを入れるんだぞ」

「……?」

「カウント、スリー」

「あっ、」

「ツー」

「お、お、お、」

「ワン──」

「うおおおおおおおおああ……ッ」


 慌てる海老沼を問答無用で引っ張り、


「ゴーッ!」


 スタートを切る。

 一歩、二歩、三歩。徐々に速度を上げ、最後には全速力で思い切り助走をつけて駆け出す。そして──

 堤防の縁を蹴り、果てしなき自由の世界へ飛び出す。

 風をその身に受け。

 両手を広げて。

 無限の可能性を秘めた舞台へ。

 さあ、この言葉とともに始めよう──



 ようこそ──深き、青き、自由の世界へ。

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