第2話 少女を縛る枷
東京都の遥か南。そこに浮かぶ群島の一つに七鳴島はあった。
人口約3000人、島面積は27.35㎢程度。主要な産業は漁業と観光である。
海の透明度が高いことで有名だが、これまで観光客はさほど多くなかった。
話を過去形にせしめた最も大きな要因は、『反水圧適応因子』の発見である。
反水圧適応因子、通称『AHF』。または単純に『因子』と呼ぶ。この因子について簡単に説明すると、こうである。
──「人間が海で生活することを可能にした因子」。
2016年──現在から十一年前──に、日本のある研究チームによって発表され、世界中を激震させた。
その因子は、海中で人間と海水との間でクッション材の役割を果たし、海水を反発する。人間がこの因子を纏って海へ入ると、魚と同じ──いや、それ以上のスピードで自由に動き回ることができる。反作用を利用した高速移動が可能なのだ。もちろん、全て反発するのだから水圧の影響も全く受けない。
また、反発した海水は少量ずつ分解されており、因子の内側にいる人間に酸素として供給される。これによって、人間のほぼ完全な独立水中行動が可能となった。この因子を発生させるためのデバイス──『反水圧適応因子発生装置』(通称AHR、もしくはリアクター)は、研究によって実質的なバッテリーフリーを達成、そして小型化が進んでおり、今や首につけるチョーカー型の親機と手首足首にそれぞれ装着するベルト型の子機のみとなった。
世紀の大発明であった。
何せ、地球は半分以上が水で覆われているのである。活動できる土地が突然二倍以上になったようなものだ。もちろん当時は蜂の巣をつついたような大騒ぎ。大混乱どころの話ではなかった。
しかし、これを開発した日本の開発チームは頭が良かった。
事前に大混乱を見越し、政府に働きかけて全国に向けてリアクターの使用におけるガイドラインを発表。また、安全水域を制定し、サメなどの危険な海棲生物などが生息する海域に人間が立ち入れないようにした。
こうした努力により安全は保たれ、人間の海への進出はすぐさま成し遂げられた。
つまり。
人類は、海を手に入れたのだ。
☆★☆
開け放たれた窓からは、五月にも関わらず暖かい風が吹き込んでいた。カーテンがそれに合わせてふわりひらりと舞い、見ているうちにまるで催眠術にかけられたような眠気が押し寄せてくる。
俺は外の世界に思いを馳せ、それを紛らわせる。
すぐそこには青い海が広がっている。水面に反射した光が左右に不規則に揺れる。鶴海高校は島の中でも高い位置にある上、海からも近い。窓から覗けばどこからだって海を見ることができ、嗅ぎ慣れた潮の香りが鼻を突いた。
「潜りたい……」
ぼそりと漏れた一言は、初夏の陽気に包まれ、風に解けて消えていく。
ああ、あの自由な世界で泳ぎまわりたい。海の中は、陸上よりよっぽど自由だ。
360度、見渡す限りの青。何に縛られることもなく、すべてのしがらみを忘れて、ただまっすぐに、まっすぐに、あの深い青の向こう側へ──
「──……い、おーい」
その声に、俺は現実世界に呼び戻された。その声の主は、一つ後ろの席から手を伸ばして、俺の背中をツンツンつついている。
「そんなに憂鬱そうな顔しなくても、もう学校は終わったからね」
「んお……?」
見ると、クラスメートたちは談笑しながら教室から出て行く。帰りのホームルームはとっくに終わり、先生の姿もなかった。後方の窓側の席だからか、先生も気づかずに何も注意しなかったらしい。
「いつの間に……」
「で、そうやって君がボケーッと外を見ている間、私はずっと待たされることになる訳なんだけど」
ぶすーっと頬を膨らませ、肘をついて半眼でこちらを睨む少女。
「悪かった、悪かったからつつくのをやめてくれ。それはもうつつきではなく突きだ。みぞおちを的確に狙った突きだ」
「ひねりを加えるのがポイント」
「やかましいわ」
俺は突きを放つ手を掴むと、そのまま肩を貸して立ち上がらせる。後ろに置かれていた車椅子まで運び、座らせる。
「いつもすまんね、蓮太」
「いえいえ、お安い御用ですよ夏乃嬢」
わざとらしいやり取りを交えた後、バッグを背負って車椅子を押す。エレベーターを使って一階まで降り、玄関で夏乃の靴を履き替えさせた。この学校のエレベーターは教員用だが、夏乃には特別に使用が許可されていた。
学校から出ると、五月の風が一層強く感じられた。夏乃の長い黒髪とセーラー服のスカーフが風に吹かれて揺れる。
「今日はリハビリの日だっけか」
「そうだね。今日は海はナシかな」
「しゃーないな」
「ごめんね」
「毎回毎回謝るなよ」
「キリがないもんね」
あははー、と笑う夏乃。俺は何も言わず、車椅子を押していく。
校門を出ると坂になっている。この学校は坂の上にあるので、車椅子を押して登校するのは毎日一苦労だ。
ブレーキをかけながらゆっくりと坂を下っていく。
七鳴島には、今日もゆっくりとした時間が流れている。
坂の下では、海に遊びに行く子供たちが砂浜に集まっていた。
「楽しそう」
夏乃が羨ましそうにそれを眺めている。
「明日は土曜日だ、いくらでも海に潜れるさ」
坂を下っていくと、少しずつ緑の割合が減り、代わりに人工物の割合が増えていく。比較的田舎っぽい島だが、漁港の周りは発展しており、商店街や市役所のある島の中心部はいつも賑やかだ。近年の観光客増加の影響はやはり大きい。夏祭りの時期になるとさらに人は増え、砂浜はパラソルでいっぱいになる。既に海開きはしているが、さすがに今の時期海で遊んでいるのは地元民くらいだ。
「うし、着いた」
この七鳴島で一番大きい病院である護崎診療所。院長の護崎良治さんが俺たちを迎えてくれた。四十代だが、ガタイが良く生気漲るナイスおっさんである。
「こんにちは。今日もよろしくお願いします、院長」
夏乃が車椅子に座りながらお辞儀をすると、院長は「律儀だねえ」とヒゲをいじりつつ、
「さて、今日も頑張ろうな。夏乃ちゃん」
と言い、ニッカリと笑った。俺たちは院長の後ろをついて、奥の部屋へ進んだ。
俺の役目はここまで。あとは看護師さんに任せて、見守るだけだ。
俺は部屋の端で壁に寄りかかり、夏乃のリハビリの様子を眺める。夏乃は見られたくないらしいが、「俺がいないと帰ることもできないだろ」と返したら「む~~~」と唸ったのち、その後は何も言ってこなくなった。
「ゆっくりでいいからね」
「はい、っ……」
看護師さんに支えられつつ、手すりを利用して一歩、また一歩と足を進める夏乃。額には汗が浮かび、苦しげな表情は見ているだけで辛い。
「進行具合はどうなんですか、院長」
隣で同じように様子を見ていた院長に問う。院長は苦い顔で頭を掻き、
「現状、筋力の衰えは止まってる。リハビリ頑張ってるからな、夏乃ちゃん。特効薬はないが、最新の医学に基づいて薬もかなり投与してる。副作用が怖いが、夏乃ちゃんはそれにも耐えてるんだ。強いよ、あの子は。ただ──」
「ただ?」
院長の言葉に影が差す。恐る恐る聞き返すと、
「体力的に……ではなく、精神的に持つかどうかが分からない。いくら強い子だって言っても、彼女は高校二年生だ。まだ、子供なんだ」
────難病、だった。
俺が彼女に初めて出会い、その病気の話を聞かされた時、思ったものだ。
「神様は、なんて残酷なんだ」、と。
その病気は、高校二年生の少女に背負わせるには、あまりに重くて。
舞原夏乃──彼女は今も必死にリハビリに励み、その病気に抗っていて。
一人で、孤独に、戦っていた。
その病名を、『肢帯型筋ジストロフィー』と言い──
2027年現在、未だ有効な治療法が確立されていない──まぎれもない難病、だった。




