第20話 エピローグ
しばらくは、誰も、何も言わなかった。
それはもしかしたら、この試合を戦い抜いた俺たちへの敬意だったのかもしれない。
夏乃はリングの外に弾き飛ばされて、そしてブザーを聞いた瞬間、その場で立ち尽くしていた。
この場にいる全員が、舞原夏乃を見ていた。
何秒経過しただろうか。まだ時間が遅く感じている俺には、永遠にも思えた。
だが、そこでようやく。
「──やられた」
一言、口に出し。
「──くっそ……ぉ……」
その数秒遅れて、感情が表に溢れ出した。
「…………悔しい、悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しいッッッッ!!!!!!!!」
慟哭。
涙が次々と流れ落ちていくのが見えた。拭っても拭っても、涙は夏乃の頬から零れ落ちていく。
俺は野暮かもしれないと思いつつ、夏乃に語りかけた。
「きっと、その感情が一番大切なんだと思う」
今の夏乃に聞こえているかどうかは分からない。それでも、言っておきたかった。
「悔しさってさ、何よりも強い感情なんだよ。それを忘れちゃったら、辛いとか、悲しいとか、そういう感情ばっかり目立っちまう」
「ぇぐ、ぁ……ぅうあああああ……っ」
「俺も最近それを、思い出したんだ」
「悔しい……悔しいよ……ッ!」
「ああ。けどな、俺はそれを999回も経験してるんだぜ?」
「……っ」
「だから、またやろうな」
「ぁ……」
「次があるなら、リベンジの機会もある。これで終わりなら、お前はその悔しさのまま終わるってことだ」
「……嫌だよ」
夏乃は首を横に振る。
「……嫌だ、このまま終わるなんて、絶対にできない」
「なら──」
「次の試合に向けて練習、か」
「頑張ってくれるか?」
「……うん」
そして、その瞬間だった。
誰かが拍手を始め、そしてそれに続くように、拍手が湧き上がっていく。数秒もしないうちに、温かい拍手が会場全体を包み込んだ。
「すごかったぞー!」
「お疲れさまーっ!」
そんな声がかけられる。戸惑う夏乃の隣まで泳いでいき、俺は今も目を拭う夏乃に笑いかけた。
「全部、俺たちに向けられたもんだ。夏乃、お前から生まれたスポーツは、これだけの人の心を動かしたんだ」
「────っ、ああ………」
再び溢れ出す涙。しかし今度の涙は温かく、そして笑顔の戻った頬を流れ落ちていった。
「私は、一人じゃなかったんだね……」
そうだ。 俺はその笑顔が見たくて、ここまでやって来たんだ。
「救われたよ、蓮太。ありがとう、全部君のおかげ──」
「違うぜ、夏乃。俺はお前を救っただけだ。みんなを笑顔にさせたのは、お前の力だ」
「……ぇ?」
「さっきも言ったろ?これだけの人の心を動かしたのは、お前から生まれたスポーツなんだ。俺は、協力しただけだよ」
「……うん、そうだね。でもやっぱり、ありがとう。君がいなくちゃ、ここまで来れなかった」
夏乃が手を振ると、一際大きな歓声が上がった。
──最終結果、31-30。
七鳴島公認ハイドリア・ダンス公式大会は、空前絶後の大激闘で幕を下ろした。
☆★☆
「やっぱ、お前はすごいやつだよ。蓮太」
親友の意地を見届けた少年が言った。
「よく頑張ったね。お疲れ様……浪川君。夏乃」
心を通わせた二人の大切な友達を羨ましそうに見つめる少女が言った。
「これがハイドリア・ダンス……?これが本物の……HDなの……?アタシの知らない世界、アタシの見たことのない景色────」
異国から来た少女は、目の前で起きた奇跡に心を震わせていた。
「……成長したね、蓮太」
生中継を見ていた女性は、息子のような存在の成長を確かに感じ取り、一人微笑んだ。
「リハビリ、頑張ってよかったな。夏乃ちゃん」
看護師たちとテレビを囲んでいた男性は、少女の頑張りがちゃんと報われたのを見届けて、仕事に戻った。
「夏乃、お前は私の……いや、この島の誇りだ」
娘の奮闘を見て、父親は一人泣いていた。
学校のクラスメートが生中継を見ていた。
島中の人間が、その試合を見届けていた。
カメラが捉えたその奇跡は、日本中の人間が──いや、世界中の人間の心を動かしていく。
ハイドリア・ダンス。
小さな島の、たった一人の少女から産声を上げたその競技は今、島を越え、国を越え、そして世界中へ広がろうとしていた。
☆★☆
大会は全日程を終え、表彰式へと移った。夕焼けに染まった浜辺は喧騒に包み込まれている。あの興奮を忘れられない観客たちが、主役の登場を今か今かと待ち構えていた。
『七鳴島公認ハイドリア・ダンス大会、表彰式を行います!』
実況の水無瀬さんが、興奮冷めやらない様子で声を上げた。同時に、観客たちの歓声が夕焼けの浜辺を賑わせる。
『まずは第三位、来栖アリサ選手!』
………………。
だがしばらく待っても、用意された特設の表彰台に名前を呼ばれた少女が登ることはなかった。
『え、なになに? ……はい、え? あ、なるほど……ふむ……分かりました』
何やら運営スタッフに耳打ちされた水無瀬さんは、頷くと再びマイクをとった。
『えー、来栖アリサ選手は、「このあとすぐに出る定期便に乗って本州に戻らないと国に帰れなくなる」とのことで、母親に怒られて帰ったそうです』
どれだけギリギリまで居座っていたんだ、と俺は心の中でツッコミを入れた。
『そこで、来栖選手からメッセージを受け取っておりますので、この私、水無瀬深鈴が代読いたします!』
水無瀬さんは一度呼吸を整えると、読み上げた。
『──「レンタ! すぐに戻ってくるから足を洗って待ってなさい! ちゃんと責任取りなさいよねッ!」以上です』
「すげえ個人的なメッセージだな!?」
てか、足を洗ったら俺が悪いことをした人みたいになるんだが……。
「って、え?」
そこで、気が付く。
──すぐに戻ってくる?
あいつが……この島に戻ってくる?
「──ははっ」
強力なライバルの登場に、俺は一人笑った。来年の夏も、楽しくなりそうだ、と。
「蓮太、ちょっと」
俺の前で車椅子に座っている少女が、それはそれは低い声で俺の名を呼んだ。
「来栖さんって、あのロシアとハーフの金髪でおっぱいが大きくて足が長いモデルみたいな人だよね」
「ま、まあ外見的特徴を端的に述べれば、そういうことになるな……」
「何があったのかな?」
「うっ」
その声音は、どんなホラー映画よりも怖かった。ここでひとつでも回答を間違えればそのまま首から上が消えて無くなるような気がした。
「い、いや、俺は準決勝であいつと戦っただけだが!?それ以外は何もしてない!」
「責任って?」
「本人に聞いてくれ!」
「ふん。まあ、すぐ戻ってくるとか抜かしてるし、捕らえて尋問すればいいか」
ものすごく物騒なことを言っている……。
──来栖さん、この島には来ない方がいいかもしれないぞ……最悪殺されるかもしれない……。
謎のオーラを身に身に纏った少女は、黒髪をわさわさと揺らめかせている。
『では、気を取り直して第二位! そして、彼女の車椅子を押すのが第一位! 舞原夏乃選手と、浪川蓮太選手ですっ!!』
表彰式会場のボルテージが最高潮に達した。
俺は車椅子を台の前まで押していく。だが、台は若干高く、車椅子をそこまで持ち上げることができない。
「うーん、どうすっかな」
悩んだ末に、俺が出した結論は。
「よっ」
「……て、ぅええええっ!?」
夏乃を抱き上げて。
二人で、一番高い台へ登ることだった。
『おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!』
そしてなぜか会場からは大歓声が上がる。
「や、やめ、恥ずかしいから……っ!」
「おい、暴れるなよ!落としちまう!」
「いっそ落として! 無理!恥ずかしくて死ぬ!」
夏乃がぎゃーぎゃーわめくので、スタッフの人に車椅子を二位のところまで上げてもらって、座らせる。
「いきなり乙女の柔肌にあんなことを……」
自らの体を抱き抱えて泣きそうな顔でこっちを睨んでくる夏乃。そんなに嫌だったのか……。
「やるならもっとこう、事前に知らせてからにして!」
……知らせればやっていいらしい。
「分かった、落ち着け。表彰式進まないから」
『あのー、進めていいですかー? そろそろ壁を殴るのも疲れてきたんですけどー?』
「は、はい、どうぞ……」
水無瀬さんがイライラしながらこちらを睨んでいたので、俺は頭を下げておいた。
『では、気を取り直して! 二位の舞原選手に話をお聞きしたいと思います! 今回の大会の感想は?』
マイクを向けられた夏乃が、語り始めた。
「えと、全体的にレベルが上がっていて、厳しい試合が多かったと思います。決勝では負けちゃいましたし」
ちらりとこちらを見て、笑う夏乃。俺は、昔もこうして視線が合ったことを思い出した。でもあの時とは違い、今なら彼女の気持ちがちゃんと分かる。ちゃんと伝わってくる。
『決勝はものすごい試合だったと思いますが、舞原選手的にはどうでしたか?』
「私にも、多分蓮太にもよく分かってないと思います。どうやって体を動かして、何を考えてたのか……ただ本能に従って戦っていたので……。今同じことをしろって言われても、多分できないと思います」
夏乃の言う通り、あの時の俺たちは自意識を超えた先にいた。だからきっと今の夏乃は『セイレーン』を使えないし、今の俺は『ベルセルク』を使えないし、ドルフィンターンをコピーすることもできないだろう。
だけど、いつの日か。
俺たちが練習を重ねて、その先にあの時の『音』を聞くことがあれば、また使えるようになる日も来るだろう。
そうだ。進むことを辞めなければ、いつかたどり着く。再びあの高みに登ることができるのだ。
『なるほど。あの試合は、私たちどころか本人たちにも理解しきれないほど高次元なものだったんですね……』
感心する水無瀬さん。夏乃が「そんな大げさなものでもないですけどね」とにこやかに笑っているのを見て、俺はなんだか泣きそうになっていた。
あれだけ一人で抱え込んで苦しんでいた少女が、今こうして笑うことができているのが、俺には何よりの奇跡だと思えた。
『それでは続いて、一位の浪川選手にもお話を聞きたいと思──』
「マイクを貸してくれ」
俺は嬉々としてインタビューを開始しようとしていた少女から無慈悲にもマイクを強奪した。
「な、何をするんですかー!」
『ちょっと黙っててくれ』
ぷんすか怒る水無瀬さんを無視して、俺は声を張り上げた。
『夏乃っ!』
「は、はいっ!」
ビクッと跳ねる夏乃。ちょっとボリュームを上げすぎたか。
『こ、この場を借りて、お前に伝えたいことがある!』
会場からも何事かとどよめきが上がった。
心臓が早鐘を打つ。どうやら俺は、予想以上に緊張しているらしい。間違いなく、決勝の試合前より緊張している。
思いを伝えて、これで断られたらすげえやり辛くなるな、とか。顔合わせにくくなるな、とか。今の関係性のままの方が楽なのでは、とか。
脳が勝手に保身に走る。
──でも。
この思いだけは……伝えずには、いられない。
俺を救ってくれた彼女に、感謝の思いを。そして、一生お前の隣で支えてやるという、決意を。
『俺は……』
だが、最後の一言が出てこない。
『俺、は…………』
告白が、こんなにも勇気を必要とすることを俺は知らなかった。
視野が狭くなる。ドクン、ドクンと心臓が脈動し、息が苦しくなる。まるで溺れるような、一人海の底に、落ちていくような────
その、瞬間だった。
「蓮太ぁぁぁぁぁああああああああああああっ!!」
聞こえるのは、野太く男らしい、あいつの声。
今では最高の親友となった、少年の声。
「根性見せろぉぉおおおおおおおおおおおッッ!!!!」
──ああ、お前が俺を応援してくれるのか。
俺は少年に感謝した。きっとこれを見るのは胸が張りさけるほど辛いはずなのに、それでも海老名は応援してくれるのだ。
海老沼は叫びながら、涙を流していた。
──あとで、二人でラーメンでも食いに行こう。
深呼吸をした。
同じ思いを胸に秘めたお前が、俺の背中を押してくれるなら──きっともう、大丈夫。
『海を泳ぐお前を見ているのが好きだ』
正面から、夏乃に向き合って。
『人魚みたいに楽しそうにしてるお前が好きだ』
目を逸らさずに。
『笑ってるお前が好きだ』
心に、語りかける。
『リハビリを頑張ってるお前が好きだ。辛いことも頑張れるお前が好きだ。長い黒髪が好きだ。声が好きだ。HDに真剣な、お前が好きだ』
顔を真っ赤にして硬直する夏乃に、俺はマイクを投げ捨て、そしてトドメを刺した。
「夏乃! 俺は、お前のことが好きだっ!」
『おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッッッ!!!!!!!!』
耳をつんざくような大歓声が、会場を包み込んでいた。
それはドラマチックで、いかにも青春なやり方だった。ちょっとズルいが、これ以上ない舞台だと俺は思ったのだ。
夏乃の耳は、夕焼けよりも赤く染まっていた。顔を伏せていて表情までは分からないが、小さく震えている様子から、察せれられるものはあった。
「蓮太」
「なんだ?」
夏乃が語り出したのを見て、観客たちも静まり返っていく。今この場に、二人を邪魔しようと思う人間は一人もいなかった。
「私、辛いことがあったらすぐ抱え込むし、自分で言うのもなんだけど、すごい厄介な女だよ」
「知ってる。ずっと後ろからお前のことを見てきたからな。でも、これからはちょっとくらい頼ってくれよ」
一つ、また一つ。
夏乃の膝に雫が落ちる。
「あと私、病気だからさ。君より先に死んじゃうかもしれない」
「なら、最後の最後まで隣にいてやるよ」
「他の子みたいに、いろんなところにデートに行ったりできない」
「お前と一緒なら、俺はそれでいい」
返事をするたびに、落ちる涙は増えていく。
「リハビリが辛くなったら、蓮太にも当たるかも」
「どんとこい」
「海のことしか分からないから、恋人みたいなロマンチックなこと、きっと一つも出来ないよ?」
「そんなの、俺も同じだ」
顔を上げた夏乃は、両目いっぱいに涙を溜めていた。
顔を歪めて大粒の涙を流しながら、でもどこか幸せそうに、そして不安を払拭するように、夏乃は問いかけた。
「こんな私でも、いいですか?」
俺はそれに、迷いなく笑顔で答えた。
「そんなお前だから、いいんだ」
それを聞いた瞬間、夏乃の涙腺は完全に決壊したようだった。
「ぅ、ぅああっ……ぁぁああああああああああっ、あああぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああ……っ」
拭っても拭っても零れ落ちる涙。けれどそれは、きっと悲しみの涙ではない。
「嬉しい……ひっく……嬉しい……」
笑いながら泣き続ける夏乃が、何よりも愛おしかった。俺は今すぐ抱きしめたくなったが、きっとまた嫌がられるだろうと──────
「ありがとう、蓮太」
そこで夏乃は、何を思ったのか。
「お礼、しなくちゃね」
車椅子の肘掛に手をつき、力を込めて。
「くっ……」
立ち上がろうとしていた。
「お、おい、夏乃……っ」
「待ってて。大丈夫、すぐに……っ」
がくがくと震える足が、どれだけの負担を強いているのかを物語っていた。
「無理するなよ……!」
俺は手を貸そうとしたが、夏乃はその手を取ろうとはしなかった。
「大丈夫!大丈夫だから……お願い、もうちょっとだけ待ってて」
そう言われては、俺にももう何もできなかった。会場は静寂に包み込まれている。一人で戦う少女に、俺たちができることは──
「夏乃──────────────ッッッ!!!!!!」
その時。
声が聞こえた。
その友達想いま少女はボロボロと涙をこぼしながら、必死に立ち上がろうとする少女の背中を押すように声を張り上げた。
「頑張れぇぇぇぇえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええっ!!」
その一言が、引き金だった。
「頑張れー! 夏乃ちゃーん!」
「あと少しだぞー!」
会場に詰めかけた老若男女、皆が舞原夏乃という、一人の少女に向けて声を上げた。
「踏ん張れーっ!」
「諦めるなよー!」
まるで、最高の試合を見せてくれたお礼だと言わんばかりに。
「くっ……ぁ……!」
ふらつく少女を支えたくなるのを、俺は必死でこらえた。
「頑張れ!」
「もうちょっと!」
そして。
様々な人の声に背中を押されるようにして。
ついに夏乃は。
一人で、立ち上がった。
「やっと、同じ目線になれた」
震える足を抑え込むように笑いながら、額に汗を浮かべた少女は言った。
「ずっと見上げてばっかりだったから」
「そうだな」
「……ごめん、もう辛い」
どさっと、俺にもたれかかってかる夏乃。
二人の顔が、近い。
「勇気を出して、告白してくれてありがとう」
頬を赤く染めた夏乃が、俺の首に手を回した。
「だから、これはそのお礼だよ」
そう言って──
夏乃は俺の唇に自らの唇を重ね合わせた。
その口づけは、少し甘くて────
ほんの少し、潮の香りがした。




